九、ひと目の恋 ~カーティス視点~
「・・・あの・・ありがとうございます」
「え?」
慌てて倒した椅子を直しつつ、この苦境をどう乗り切ろうかと暗澹たる思いでいる俺の耳に、微かな声が届いた。
慌てて顔をあげれば、そこにいるのは、恥ずかしそうに手を頬に当て、赤くなったマーシア。
そのあまりの可愛さに、俺は一瞬意識を飛ばし。
結果、手にした椅子を再び落とした。
「大丈夫ですか!?お怪我は!?」
驚き叫んだマーシアの声と被るように、扉が礼儀正しく叩かれ、顔見知りの支配人が顔を覗かせる。
「グローヴァー公爵令息。大きな音がしましたが。何か問題がございましたか?」
丁寧に問いつつも、彼は確認するよう室内を見回し、俺とマーシアを見た。
「俺が、椅子を倒してしまったんだ。大きな音で、驚いただろう」
「左様でございましたか。お怪我などなさいませんでしたか?」
「大丈夫だ。だが、他者がいたら危うかったやもしれぬからな。個室にしておいて正解だった」
実は俺は、個室で顔合わせをすることに気が進まなかったのだが、両家の込み入った話をする可能性を考えれば個室の方がよいと両親が言い、マーシアもエインズワース公爵夫妻もその方がよいと言ってくれて、今日の顔合わせとなったのだが。
これは。
両親から、何か伝達がいっているな。
「カーティス様?どこか、痛みますか?」
支配人自ら、音に反応してすぐさま来たところを見ると、両親から何か言い含められているに違いないなと、俺が少々苦い気持ちで思っていると、心配そうなマーシアが傍へ寄って来た。
「ああ、いや。問題ない」
「それは、ようございました」
ほっとしたようにマーシアに言われ、忘れかけていた注文を支配人にして、俺とマーシアは改めて向き直った。
「それで・・兄上が、グローヴァー公爵家の事業に携わっていないことは、把握されているのでしたか」
「はい。グローヴァー公爵家の事業を担っていらっしゃるのは、グローヴァー公爵閣下とそのご子息・・カーティス様だとうかがいまして。それで、ぜひ、カーティス様とご縁を結びたいと願った次第にございます」
『カーティス様の手腕は、とても見事だと有名ですから』とマーシアに言われ、俺は天にも昇る心地になる。
「光栄です・・・しかし。それでは、私が公爵位を継ぐとしても何も疑問を持たれないのでは?」
有頂天になりながらもふと気になって、俺はマーシアを見た。
「わたくし共は、事業を担っていらっしゃるのがカーティス様、公爵領をやがて治めることになるのがご長男だと思っていたものですから」
「ああ。なるほど」
俺はまたもそう呟いて、外から見ればそうなのだろうなと思う。
事実、広い領と事業を併せ持つ貴族は、長男が領地を治め、次男が事業を主に担うことは珍しくない。
それが、若いうちなら尚のこと。
「ですが。公爵位をカーティス様がお継ぎになるということは、違うのでしょうか」
「兄上は、領地経営にも携わっていません。そちらも、私が担っております」
そう言った俺の言葉に、マーシアが納得したように頷いた。
「そうだったのですね。それでは、公爵位をカーティス様がお継ぎになるのは、当然のことですわね」
「だから、マーシアは次期公爵夫人ということになるのですが・・・嫌、でしょうか?」
やや不安になって問うた俺に、マーシアもまた真剣な表情で見返して来る。
「それは、わたくしの方がお聞きしたいです。わたくしは、結婚後も事業に携わっていたいと思っていますから。あの、本当によろしいのでしょうか?」
「ええ。二言はありません。次期公爵夫人、そして公爵夫人としての役割を果たしてくださるなら、共に事業に携えること、心強く思います」
コーヒーの輸入経路を確保したというマーシア。
その手腕を実際に見聞きするのが楽しみだと、俺は運ばれて来たコーヒーの香りを楽しんだ。
「・・・初めてです」
「ん?何がですか?」
俺と同じように、コーヒーの香りを楽しんでいる様子のマーシアが、その可愛い口元に微笑みを浮かべて俺を見る。
「『女のくせに』と、声にも表情にも、目にも出ない方は、初めてです。もちろん、知り合ううちに認めてくれる方も多いですが、最初は必ず」
ふふ、と小さく笑うマーシアの目に宿る色を見て、俺は、これまで彼女が歩いて来た道の険しさを垣間見た気がした。
「俺も、似たような経験があります。『兄君を差し置いて、何とも思わないのか』と、幾度も言われました。ですが、俺が家を、公爵位を継ぐことは、俺が生まれた時から決まっていたのです」
俺と兄上の年齢差。
十以上も離れていることにこそ、その理由がある。
「まあ。お生まれになった時から?」
「ええ。というか、そのために俺を産んだと母にも父にも言われました。兄上には、とても家を継がせられないからと」
あのひとは。
本当に、どうして。
俺は、どうにも理解し難い、たったひとりの兄を思い出しつつ、黒いコーヒーの水面を見つめた。