見えなくたって大丈夫
俺とバラガムはディンブランの汚れきった体をありあわせの布でふき取る。血と汗と垢が混じったディンブランの肌はみるみるとその汚れを布切れに移していく。
ちょっとくさい。でも、いわない。俺でも、それくらいの気はつかえるから。
鎖の痕がむらさき色の内出血となって体に刻まれている。いったい何にちぶりかは知らないが、不自然な姿勢を解かれたディンブランは震える手を俺に差し出した。
俺は真新しい服の袖を伸ばし、小さく震えるその腕にとおしてやった。
一通り服を着せた後、俺はたずねた。
「大丈夫か?」
「絵を……描きたい」
「まだ無理だろ、指が震えてるじゃねーか」
俺はそういいながら、エリヤナから預かってきた筆と顔料の入ったちいさな木箱、そして羊皮紙をディンブランの手に持たせた。
ディンブランは嬉しそうに微笑んだ。そしてそれらの道具を胸に抱いて、小さく言った。
「まだこの木箱が残っていたとは」
「それは、エリヤナがかくして持っておいたんだそうだ」
「そうか……僕の寝室の絵は、どうだった?」
「寝室の絵? そんなもんなかった気がしたが……」
俺はその時、ふと思い出した。ディンブランの寝室に入った時のあの違和感。
やけにがらんどうに感じたあの部屋は、視界のほとんどが壁だらけだった。
そうかあの壁。きっとあの壁一面に、こいつが描いた絵が、飾ってあったのだ。それがすっぽりと抜け落ちていたんだ。
俺はディンブランに視線を移す。まさかそこに飾っていた絵も全て捨てられちまったっていうのだろうか。
いったい、何がどうなってコイツはこんな仕打ちを受けているんだ。
その時、胸ポケットのキャンディがむくりと顔を出す。ディンブランに話しかけた。
「ね、アンタ絵が描けるの?」
「え? ああ、一応はね。君は女の子? なんだか、急にこえが聞こえたきがしたけど。君はあまり気配を感じないね」
「ぬいぐるみだからね」
「え?」
「そんなことはどうでもいいの。ね、一枚絵を描いてよ」
急に起きたと思ったら何をいいだしやがんだこのくそウサギは。
それにディンブランは今、目が見えねぇんだから、絵なんてかけるわけねぇだろうに。
俺がキャンディを黙らせようとすると、意外なことにディンブランは急に元気な声をあげた。
「いいとも! 何がいい?」
「え! かいてくれるの!? そうねぇ……じゃウサギがいいかな」
「ウサギだね、わかった。何色?」
「アタシ、黄色がいいな」
「よし」
ディンブランはそういうと手に抱いていた道具を床に置いて準備を始めた。
木箱から小皿をいくつか取り出し床に並べる、箱の中にある粉末顔料を指で触っていく。
そしてそれらを小皿に取り分けて油を混ぜ込む。手際がいい、というよりまるで目が見えているようだ。
そして小さな筆で羊皮紙にさっと描いた。草原を走る、黄色く輝く小さなウサギを。陰影まで再現されている。
俺は思わずため息をついた。
「こりゃ……おどろいた、お前さん、目が見えないってのに見事だな」
「指が感覚を覚えているんだ」
それだけ何度も描いたって事だな。才能というよりはこれは訓練のたまものだ。
紋章に”絵”というものがあるのならば、こいつはさしずめ”絵の紋章師”だな。
その時、入口で見張り番をしていたバラガムがこちらに来て、もうここを出たほうがいいと声をかけてきた。
あまり長居はしない方がいいとエリヤナから言われていたらしい。
ひとまず、今日のところは終わりかな。
このまま鎖を解いていっちまうのもどうかと思ったが、せめて一晩だけでも自由にさせてやろう。
どうせ、何日もここに放置されていたんだ。すぐに誰かが見に来るようなことも無いだろう。
万が一、まずい事態になりゃエリヤナに頑張ってもらおうか。なんせこのラトヴィア城のお姫様なんだから。
俺たちはディンブランにひとまずの別れを告げて貯蔵庫を後にした。
しかしだ。次の日の朝。俺がまだ朝もやのかかる薄暗い貯蔵庫を訪れたとき。
ディンブランの姿はなかった。鎖だけが、だらりと床にころがっていた。
あんのやろろろろおおお。恩をあだで返しやがって。
俺は慌てて追跡を開始する。悪いが、バラガムにも手を貸してもらおうかな。