かわい子ちゃんならまだしも、魚の拷問なんてかんべんしてほしい ★
喉元にこみあげる不快感。
体の中に入り込んだ異物をなんとか体の外へと押し出そうとする本能的な動作だ。
「おぇ……っ」
ねばついた何かかが口の端からこぼれだした。俺は思わず顔を真横に向け、血生臭い唾液をぺっと吐き出した。
そして、ゆっくりと目を開く。
楽しい夢の世界から、またしてもこのろくでもない現実世界に舞い戻ったようだ。
さっきまで巨乳のかわい子ちゃんと海辺のバカンスを楽しんでいたというのに。
あれ、なんだか前にもこんな事があったような。
「いてて……」
殴られたのか、ジンジンと痛む後頭部。動かない手足、胸を上から圧されるような感覚。
どうやらどこかに仰向けに寝かされているようだ。
自由な夢の世界とはうって変わって泣きたくなるほどの窮屈な現実世界。それにしても。
「くせぇ……」
これが、目が覚めて、いの一番の感想だった。
さっきの吐き気は、このよどんだ臭気を吸い込んだせいだ。生臭い。何かが腐って新しい汚物が生成されたような、そんなひどいニオイだ。呼吸するたび、喉がぐっと防御反応を示すほど。
俺はどうにか首をもたげて、周囲をうかがう。
石造りの狭く薄暗い部屋。
壁に目をやりヒヤリとする。
大きな鉄のナタ、巨大なハサミ、それ以外にも何に使うのかよくわからない黒光りする器具が所狭しとぶら下がっている。
いやな予感に、視線を落とす。床にはあちこちに赤黒い染みのようなものがこびりついている。
血、か。
ここってまさか、拷問部屋。
俺の体はその拷問部屋の中央にある台の上。そこに仰向けに縛り付けられている。
体の各所には逃げられないように分厚く黒い鉄輪ががっちりと嵌められ、身動き一つできない。
「……おいおいおいおいおい、まじかよ……」
心臓がドクリとはねあがる。
かわい子ちゃんにムチでやさしくケツを叩かれるならまだしも。
魚の顔をした薄気味悪い連中に、はらわたをほじくりだされる、なんてのは何としても避けなくてはならない。絶対に。絶対にだ。
「そ、そうだ……ベルナ、いるのか?」
薄い期待ではあったものの、俺は頼みの綱であるベルナの名を呼んでみた。しかし、見込みどおり、ベルナからの返事はなかった。なんだか、あのか細い声がひどく懐かしく感じる。俺の胸もとのポケットの中には、骨壺はなさそうだ。気を失っている間に、何もかも奪われちまったのか。
見渡す限り、この部屋のどこにも俺の呪具を詰め込んだ荷袋は見当たらない。
俺はすっと目を閉じて意識を集中させ、呪詞(呪文)を唱えた。
しかし、反応はない。案の定、俺の魔術は発動しなかった。
おそらく、この部屋には“封魔の結界術”が張られている。文字通り、魔術を封じる結界術だ。
ここは、おそらく、俺たちのように魔術の扱える紋章師を閉じ込める為の結界牢獄だ。
しかも拷問部屋というおまけつき。
「文字通り手も足も出ねぇ……」
俺はごろりと頭を横たえ、天井を見つめる。
そして、ふと思い返す。
俺がこの結界牢獄に拘束される前に現れた魚獣人族の事を。
正直、まだ魚獣人族の個体差を見分けられる自信はない。なにせみんな同じ魚の顔に見えるのだ。しかし、うまくは言えないが、言葉遣いや態度には微妙に差があるようだ。感情豊かなギピー、冷静沈着なポーラ。
そして、俺の前に現れた“あいつ”は、なんというか今まであった魚獣人族の連中のなかでは、少し武骨な印象を受けた。
ほんの少ない会話だけのやりとりではあったが、なんというか、こう。
その時。
俺の思考をさえぎったのは硬質な音だった。どこかからの反響音。
それは同じ間隔で、機械的に、そして徐々に、着実に大きくなってくる。
この音は、石床を蹴る音、そう、間違いなくこちらに近づく何者かの靴音だ。
ついに俺のはらわたを引き裂く処刑人の登場か。
ここじゃ魔術は使えない、それに装備できる呪具もない。頼みの綱のベルナもいない。
「くそう……こう縛られていちゃ、命乞いの土下座すらできねぇな」
処刑人の足音はさらに大きく響いてくる。そして、俺の寝かされている台の足元がわにある、大きな扉のすぐ前でとまった。
____カチリ
鍵の回る音、その後ゆっくりと分厚い鉄扉がこちらに向かってズレ開いた。
その向こうから現れた大きな影。
そいつは、今まで俺が見た中で一番大きな魚獣人族だった。
ずんぐりと盛り上がった肩、野太い首の上には、緑の鱗に包まれた覇気のない不気味な魚の頭が乗っかっている。
離れた黄色い両の目、小さくならぶ鼻の孔のしたには、細かな牙が格子のように並ぶ半開きの口。
そいつは後ろ手に扉を閉めると、こちらにふらふらと寄って来た。
そして、虚ろな目で俺をじっと見下ろす。
嗚呼、こいつが俺の処刑人か。こんなわけの分からない辺境の国で、魚の顔をした大男にバラバラにされて死んでしまうだなんて、なんてぇひどい運命だ。
観念したその時、懐かしい声が聞こえた。
「……さぁ、この男にかけられた、鉄輪を外すのだ」
すると、その声に操られてでもいるかのように、その魚獣人族はどこかから取り出した鍵で、俺の鉄輪を順に外しはじめた。俺は何が何だかわからないままに、事のなりゆきを、ただ、ただ、息をひそめて見守るしかなかった。
枷をすべて外された俺は、急いで台から飛び起きる。そして台をはさんで大きな魚獣人族と距離を取ってむかいあう。
「……ベルナ? いるのか?」
俺は恐る恐る聞いてみた。
すると、魚獣人族の男の胸もとあたりからかすれた声が聞こえてくる。
「……てっきりもう死んでいるかとも思ったが、悪運の強い奴」
「……い、いったい何が起こっているってぇんだ?」
「まぁ、とりあえず、ワタシをコイツの胸ポケットから取り出してお前の方に移動させてくれ」
「わ、わかった」
俺はその場でぼんやりしている魚獣人族の男の上衣の胸もとに手を差し込むと骨壺を探り当てて、自分の胸ポケットに入れ込んだ。その間も、目の前にいる巨大な魚獣人族は何をするでもなく、ただ突っ立っていた。
俺はふたたびそいつと距離をとりつつ、ベルナにたずねた。
「おい、コイツ……なんだか様子がおかしいが、どうしたんだ?」
「何を言っている、お前もよく知っている“賢人ベルナの骨壺の呪い”だよ。ワタシが色々と質問に答えてやったのだ。その結果、ワタシはこやつの知識をいただいた。こやつは廃人の一歩、いや二歩ほど手前だろうな。もはや自分が誰かもわからず、ほぼ思考力もない。この状態になれば、どんな指示にでも簡単に従う操り形」
「な、なんだと? お前さん、いったい……」
「ワタシを責めるつもりか? ワタシのおかげでお前は肉片にされずに済んだというのに」
「いや……そりゃそうだが……」
「とにかく、こやつはワタシの言いなりになる。まずはここから逃げ出すのが最優先だろう。話はその後だ」
「わかった」
俺とベルナは、そのどでかい身体の魚獣人族をしたがえて、結界牢獄の扉を開いた。