ふきつな日記改め、恋文
俺はゆっくりと階段を踏みしめながら恐る恐る、一階に降りる。
ぎぃぎぃと、階段がきしむ湿った音がいやに耳につく。
今まであまり気にしなかったが、なんだか突然、この屋敷のすべてが陰り、怪しげな色合いに見えてきた。
一体、いつからここに建っている屋敷なのか。
木々のこすれる不快な音。
握る手すりはざらざらとささくれだっている。
ふと手元に目をやると、手すりのところどころには真っ黒の木目がまだらにあちこちに浮き上がっている。
まるでこちらを監視するいくつもの目玉のようだ。
俺は、手すりからそっと手をひっこめた。
一階に降りるにつれて、出汁の効いたスープの香りがぷうんと鼻をくすぐる。
俺は階段をおりきると、右手の居間にひっそりと入り込んだ。
目の前にあるささやかな木のテーブル。その上。
いつものように、小奇麗な食器には質素な料理がこじんまりと乗せられている。
俺が座るテーブル席の前には、ミルマルばあさんが腰を下ろしてカップを片手に紅茶をすすっていた。
ミルマルばあさんはこちらに目をむけると、にっこりと微笑んだ。
「今日はえんどう豆のスープと、焼いたとり肉、それに新鮮な野菜のサラダよ」
「あぁ……いつも、すいませんね」
「いいのよ。あれだけの量の日記を翻訳してくれているのだもの。これぐらいのお礼はさせてね」
「そりゃ……どうも」
ミルマルばあさんはいつものように、まっ白の髪を後ろにきゅっと束ね、目元には銀フレームの老眼鏡をかけている。
しわだらけの目じりからはあふれんばかりの愛嬌がにじみ出ている。
どこからどう見ても普通のばあさんにしかみえない。
しかし、いましがた読んだ日記の内容が真実だとすると。
いま、俺の目の前にいるこのばあさんは金魂球という“人の形を模倣した動く植物”という事になる。
俺のささいな緊張を嗅ぎ取ったのか、俺が席に座るなりミルマルばあさんは不思議そうにたずねてきた。
「ウルさん。あの人の日記になにか変な事でも書いてあった?」
「い、いやぁ、そういうわけじゃねぇんです。ちょいとリラの事がきになってね」
俺はひやりとした。まさか、俺に鎌をかけてきやがったのか。
俺はミルマルばあさんとの会話をこなしながら、彼女をちらりと盗み見る。
が、当然のことながら彼女はいつもと変わらない。
変わったのは俺の方だ。
さっきの日記を読んだ瞬間から、今、俺の目の前で繰り広げられる彼女とのやり取りが、全く異質なものに変わろうとしている。
今、俺の目の前にいるこのばあさんは、偽物なのか本物なのか、植物なのか生物なのか、どちらなのか。
俺の判断はまだどちらにも傾かないままに、激しくせめぎ合っている。
そんな俺の心など知るはずもないミルマルばあさんは、話題を変えた俺の話に素直に乗ってきた。
「あ、そういえばリラちゃん。今は冒険者として、少し長い旅に出ているのよね」
「ええ。そうなんですよ。今回のクエストは国外のようでしてね。数日は家には戻れないらしくてね」
「心配よねぇ……あんなかわいい女の子が冒険者だなんて」
ミルマルばあさんは少し表情を曇らせた。眉の間にしわがよる。
その表情は自然そのものだった。こうしてミルマルばあさんと会話をしていると、あの日記の方が本当かどうか怪しくなってくる。
しかし、どう考えても、あんな嘘を日記に書く理由がない。
それに、ミルマルばあさんは古代文字が読めないと言っていた。だとするとあの日記の内容を彼女が知ることは決してない。
誰かが翻訳でもしない限りは。
もしも俺があの日記をすべて翻訳したとして、それをミルマルばあさんに見せたら。
その時、ばあさんは、いったいぜんたい、どんな顔をするのだろうか。
なにかよくない結果が起こりそうなのは気のせいだろうか。
この不安は、俺の疑り深い性格からくる取り越し苦労なのだろうか。
くそう、単なる日記の翻訳の仕事のはずだったってのに。
奇妙な路地に迷い込んだような気分だ。
しかし、少なくとも今の段階でミルマルばあさんに知らせる事はない。
俺は一旦、“金魂球”のことは、自分の中だけにしまっておくことにした。
頭の中で考えをめぐらせながら、俺は目の前のスープを一口すする。
そして思わずつぶやく。
「……ぷはぁ……やっぱ、うめぇなぁ……」
「うふふ、いつものセリフね」
悶々としていた俺の心が、うまいスープとミルマルばあさんの笑顔のおかげで、ほんのすこしだけ、なごんだ。
軽めの昼食を済ませた後、俺は再び二階の書斎に舞い戻る。
そして、さっきの古びた日記帳を本の山の中からそっと引きぬいた。
傷だらけの革表紙は、窓からの光に照らされて鈍く光った。
俺は一呼吸おいて、ページを開く。
そして、さっきの続きに目を通していく。
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ミルマルの元気な姿さえ見ることができれば。
それでいいのだ。
たとえ、この身がほろぼうとも。
わたしは
それを、誇りに思うだろう。
たとえ世界から後ろ指をさされようとも、悔いはないぞ。
ミルマル!!私に力を!
明日はついに不思議の森に足を踏み入れる時。
隣で寝息を立てている、我が相棒、ライラスリーと共に。
この長い旅も、もう終盤だなぁ。
わたしが紋章師でいられるのもそう長くはないのかもしれない。
それでも、もう一度会いたいなぁ。
もう一度、
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日記は、そこで唐突に途切れていた。
その下には、文字の代わりに、にじんだような染みがぽつりとある。
「けっ……なんだか……俺の趣味じゃねぇなぁ」
俺はその日記をぱたりと閉じた。
こんな心の奥底にある思いを赤裸々につづった文章を翻訳して書き写すべきかどうか。
ミルマルばあさんに読ませるべきなのか。
正直、今は判断がつかない。
「それはまた今度、考えるとしよう……今日は終わりだ、また明日」
俺はその、恋文ともよべそうな日記帳を、本の隙間にゆっくりと差しこんだ。