ミルマルばあさんの頼み事
突然の来訪者、道具屋のハウミンは嵐のように去っていった。
ミルマルばあさんによると道具屋のハウミンとはそれなりに長い付き合いではあるようだ。
俺は挨拶をすると、ミルマルばあさんの庭を出ようとした。
しかし俺を見送ってくれるのかと思いきや、突然、ミルマルばあさんは俺を引き留めた。
「ウルさん。あなた紋章師よね。当然、魔術が扱えるのよね?」
「ええ、まぁ」
「てことは、当然のごとく魔術に使われる難解な古代文字も読み解けるってことね。あなたがここを訪ねてくれるのも、もう5度目……あなたはいい人そうだし、もういい頃合いかしら」
「な、なんですか? いったい」
どこかうれしそうなミルマルばあさんの笑顔に俺は少し戸惑った。
なんだ、なんだ。この不敵な笑みは。
ミルマルばあさんは突然、俺の腕をとると、室内に引き入れる。意味深な小声で「ちょっとついて来て」と軽く耳打ちした。
俺は気がすすまないながらも言われるがまま。ミルマルばあさんに続いて屋敷の二階に続く階段を上がり、廊下を抜ける。そして一番奥の扉へと向かった。
扉を開いた、その中。
斜めに日の差し込む埃っぽい書斎が広がっている。
そこには、いくつもの分厚い本が重ねられ、あちこちに本の山脈ができていた。
俺は恐る恐る聞いてみた。
「この本の山……これって全部魔術書……?」
「そうなの。わたしの夫が残したものなのよ」
「ひぇ~……こりゃ、掃除するのも一苦労ですねぇ」
「でしょ、あの人が亡くなってから、ずうっとほったらかしなの。でも最近リラちゃんがよく来てくれるようになったじゃない。その時に、お勉強がてら徐々に片付けてくれているんだけれど……」
「リラが片づけをねぇ。でも、全部をきれいに整理するには、まだまだかかりそうですぜ……てか、昔の俺の部屋みてぇです」
ミルマルばあさんは、俺の隣から離れると、つかつかと本の山に近寄る。無造作に一冊とりあげ、パラパラとページをめくる。パタンと閉じてため息をついた。
「リラちゃんが言うにはね。ここには魔術書にまざって夫が残した記録があるらしいの」
「記録ってぇと、調合術の研究記録とか?」
「ええ、それもあるんだけど……その他にも、どうやら日記が混ざりこんでいるらしいの」
「日記……ですか」
「そう。わたしは魔術が扱えないから、魔術書なんかは別に興味はないんだけれども、夫の残した日記だけは読んでみたい。でもリラちゃんがいうにはね、その日記がどうやら古代文字で書かれているらしいのよ」
「はぁ!? こ、古代文字で日記を!?」
「ええ。だからわたしにはチンプンカンプンでね。何が書いているかすらわからないのよね」
「かぁ~……また随分と物好きなお方だったんですねぇ……古代文字なんて一文字かくのですら面倒だってぇのに。こういっちゃぁなんですが……旦那さん、そうとうな変わり者ですね」
「うふふ。そこは否定はしないわ」
俺は本で作られた山々を眺めながら、一歩踏み出す。そしてミルマルばあさんの背中に目をやった。
俺をここに案内して、今の話をしたってことは。
俺は何となくミルマルばあさんの望みが見えた。
ミルマルばあさんはこちらを振り返ると、申し訳なさそうにつぶやく。
「できれば、ウルさんにも手伝ってほしいの。夫の日記を“翻訳”するのを」
「古代文字で書かれた日記を読めるように“普通”の文字に訳してほしいってことでいいですね?」
「ええ。ぶしつけなお願いで悪いのだけれど。それなりにお礼はするわ。よければここにある魔術書を持ってってもらっても構わない。それなりに高価なものもあるはずよ」
「わかりました。俺も一応、商売人だ。対価はもらいますぜ?」
ミルマルばあさんはどこかほっとしたように表情を崩した。
「ええ、なんなりと言ってちょうだいね」
俺は近くの本の山に歩み寄り、試しに一番の上の本を手に取って中を開く。
確かに、中には小難しい古代文字がウヨウヨと、所狭しと並んでいる。
読めなくはない。読めなくはないのだが、パッと見ただけでは判読できない文字もあるようだ。こりゃ、古代文字の辞書を片手にもちながらの作業にはなりそうだ。
「こりゃ、なかなか骨が折れる作業だな……」
「急がなくてもいいの、ウルさんの時間のある時でかまわないわ」
「分かりました。少しこの部屋の中を見させてもらっても?」
「もちろん。わたしは一階で、焼き菓子を用意しておくわ」
ミルマルばあさんはそういうと、満面の笑みを見せ書斎を後にした。
静まりかえった書斎。俺はぐるりと見渡す。
雑然と並んでいるだけに見える本の山もおそらく本人にとっては秩序だって置かれているのだろう。頭よりも高い位置にある本棚に並んでいるのは分厚い魔術書。逆に机の周辺に散らばるように並んでいるのは小ぶりな本ばかりだ。その時、俺の目にとまったのは無数にある本ではなく、壁にかかっているローブだった。
俺は壁にかかった純白のローブに近寄りそれを見上げた。
埃をかぶった部屋の中、そのローブだけが妙に浮き上がって見えた気がしたのだ。
艶やかな表面は光をはじき、奇妙なほどまぶしく輝いている。まるでさっきまで誰かがそのそでに腕を通していたような。そんなふわりとした生々しさがあった。
「まさか、な……」
俺は一通り書斎を見回した後、その部屋を後にした。