アスドラの姫君 ★
いくつかの、よくわからない小道具。魔術陣を描き出す為の塗料。
テマラはそれらを荷袋から取り出すと、俺にあれこれと指示をする。
俺は右も左もわからないまま、テマラに手渡された赤い塗料の粉を指にこすりつけて、いわれるとおりに魔術陣を床に描いていった。
寝入っているミュウを中央に置き、その周りを取り囲むように正円を描き、そしてその円に沿って古代語を並べていく。
しゃがみこむ俺の背後にテマラがつき、古代語を高らかに読み上げていく。
俺は言われるとおりに古代語を床に描いていく。
塗料をつけた指先がジンジンと痛くなる。俺は指先を順番に変えて床に押し当て魔術陣を描く。
最後の方は、小指を使って描いていく羽目になってしまった。
俺は後ろにいるテマラに振り返る。
「テマラ、指先がいたいんだけど……何かこう、塗料を塗る為の道具とかないのかよ」
「ある」
「はぁ!? じゃ、それ使わせろよ?」
「いざというときの練習だ」
「なんだよ、いざという時って……」
「塗料や筆なんかの道具がないとき。場合によっては、自分の指先を切って血を使って魔術陣を描かなきゃならんこともあるんだ。それに比べりゃ塗料があるだけでも随分マシだ。少しくらいは我慢しやがれ」
「なんだよ、それ……」
ほどなく、ついに魔術陣を描き終わり立ち上がる。
テマラは俺の描いた魔術陣を踏まないよう、そろりそろりと周回していく。目を細めて細部を確かめているようだ。なにせ、古代文字の形状や描き方が間違っていると、魔術の効果が著しく落ちる為だ。
発動しないならまだしも、最悪の場合、間違った魔術が発動する可能性もあるのだ。
テマラはひとしきり眺めるとうなずいた。
「……ふうむ。なかなかいい魔術陣だ。ウル、お前、このあたりの才能は少なからずあるようだな」
「へっ、そりゃどうも……でもさ、テマラ」
「なんだ?」
「その……呪いを解いてミュウが元の人物にもどったら、その後は、あのばあさんがミュウを連れて帰るのか?」
「いや、あのババアは基本的にこの件にはあまり関係がない。迎えの者に連絡を取ったそうだから、そいつらがミュウを迎えに来るらしい」
「迎えの者……? 誰だよ一体」
「お前が知る必要はない、雲の上の話だよ」
「雲の上? でもさ、せめて、ミュウの正体くらいは教えてくれよ。俺たちが助けて、ここまで連れて来たんだ」
テマラは俺に体を向けると、眉間にしわを寄せる。
「……俺から伝えることはねぇが……呪いが解けたら本人から聞いてみるがいいさ。本人がしゃべることに関しては、俺は関係ねぇからなぁ。ただ……」
テマラは俺の目を見つめた。いつもは酔って赤黒く血走った目が今日ばかりはすっきりとしている。テマラは何かを決めたのか、口を開いた。
「ま、お前も将来、呪いの紋章師として生きてくことになるんだろうから、今回は教えてやろう。ただし他言は無用だぞ」
「あぁ、わかった。みだりに他者に教えてはいけないんだろ」
「そうだ……ミュウの正体は、文字通り、俺達にとっちゃ雲の上の人物。アスドラ帝国の第五王妃の娘、ニスリン王女だ」
「あ、アスドラ帝国の……お姫様……? どうして、そんなお姫様が魔獣なんかに姿を変えられているんだよ……」
「アスドラ帝国は獣人族の支配する国。今の皇帝は狼人族。横暴で独裁色が強く、獣人族以外の種族、特に俺たちのようなヒト族に対しての種族差別がひどいと聞く。二スリン王女の母親である第五王妃は、ヒト族なんだ。つまりワイバーンに姿を変えられた、あわれなニスリン王女は狼人族とヒト族との間に産まれた混血種ということになる」
ミュウの正体が、アスドラ帝国の皇帝の娘。しかも今の皇帝である狼人族とヒト族の間に産まれた混血種。
俺は魔術陣の中央に横たわる、ミュウをちらりと見た。
どういうきさつで、王女が国から追われる羽目になってしまったのだろう。
テマラが続ける。
「こんなきな臭い話、レギーには絶対に言うんじゃねぇぞ……ま、俺たち呪いの紋章師に回ってくる仕事というのは、こういう類のものが多いんだ。お前も、将来どうするかは知らねぇが、せいぜい覚悟しておけよ」
「ミュウが……王女……ならばその王女を迎えに来る連中って一体……」
「そこから先はやぶの中ってこった。下手に足を突っ込んだところでろくなことにはならねぇよ。俺たちの仕事は、あくまでもこのミュウの呪いを解くことだ、そこで終わりなんだから」
テマラは話を終えると、俺を下がらせた。俺はレギーとクレタがまつソファ前に戻る。
心配そうな顔で待っていた二人は、俺を笑顔で迎えてくれた。
そして、俺たちは部屋の隅で、テマラの行う解呪の儀式を見守った。
ミュウを中央においた、真っ赤な文字の並んだ魔術陣。
テマラはその前に立ち、祈りをささげた。
その時、テマラの背中に浮かび上がる輝く魔術の光が散乱し拡散する。
青い閃光は雷のようにチカチカと周囲にその触手を伸ばした。
音のない光。その光のせいなのか、周囲が突如として闇に包まれた。
夜になったような気がした。
でも、よくわからなかった。あまりに一瞬過ぎて。
それは、ほんの、瞬きのあいだだけの夜。
魔術陣を描くのにあれだけ時間がかかったってのに。解呪の儀式は一息で終わる。
周囲の景色が元に戻ったかと思うと、焦げ臭いにおいと共に、そこに現れたのは。
女の子だった。
魔術陣の中央にはワイバーンではなく、ドレスに身を包んだ女の子が横たわっていた。