見習い授業
ふと、見上げると、突き抜ける青空。まるで吸い込まれるように遠ざかっていく。
俺は向こうに逃げる雲を捕まえようと、右の手を虚空に伸ばした。
「なんだか……底が抜けたみたいな空……」
ここはマヌル領の最西端にある国境監視塔。今は、その屋上にいる。
切り立った崖の上にある“ダロッソ国境監視塔”は、まるで忘れ去られた遺跡のように静かな空気に包まれていた。
屋上からは、見渡す限りどこまでも広がる深い森が、はるかかなたの丘陵まで続いている。
その時、後ろから、わざとらしい咳払いが聞こえた。
俺は慌てて振り返る。そこには、まぶしそうな笑顔が浮かんでいた。
「まっ昼間から、なにを黄昏てんだ? 見習いクン」
そういいながら、床からの照り返しに目を細めて歩いてくるのは、真っ赤な制服に身を包んだデヴィンさん。
その制服の胸元に輝く金の刺繍は、宮廷魔術騎士団の証である、八つ獅子の紋章。
今日から数日間、俺が見習いとして付き従う宮廷魔術騎士団員だ。
俺は上に伸ばした手を頭の後ろに回して、釈明するように髪を撫でつけた。
「あ、いえ。のどかな景色だったんで、つい……」
「ま、確かにのどかだな。だが、一応ここは国境監視塔だぜ……それに目の前にある森は魔獣どもがうろつく“ダロッソの暗い森”だ」
「そ、そうですね。すいません……」
小さく頭を下げながら、俺は口を滑らせた自分を戒める。
べリントン領からこの地に紛れ込んだ身としては、あまり土地勘がないのが正直なところだ。
「……と、いっても、俺がここの警備についてから、何かが起こったためしがないがな。稀に緑小鬼の群れがこの近くに集まってくることもあるが、すぐに追い払うことができる。一応このあたり一帯は、微弱ではあるが、獣除けの魔術障壁が張り巡らされているからな」
デヴィンさんは俺の隣、屋上の縁まで来ると、両手に持っていた片方のカップを俺に握らせた。
見ると、透明な水が波々と揺れている。俺は促されるままに、カップの水を飲みほした。
デヴィンさんはカップを片手に話す。
「ウル君、だったかな。マヌル紋章師養成院での初めての研修で、こんな辺鄙な場所を選ぶとは、キミも物好きだねぇ」
「ええ……実は一緒に研修に来ている奴が、国境警備に興味があるっていうから、ここを選んだっていうか……」
「なんだ。そうなのか。確か研修は三人組だったな。キミ以外は、でっかい丸太みたいなからだの奴と、老け顔のムキムキ男だったな」
デヴィンさんが挙げたのは、盾の紋章師シールズと、剣の紋章師バルトロスの事。
俺達三人は、研修先として、まずここを選んだ。ダロッソの国境監視塔。
正確にいえば、俺達が選んだというよりも、シールズの第一希望がこのダロッソ国境監視塔への研修だったのだ。
俺とバルトロスはそれに合わせる形となった。
この研修は、マヌル紋章師養成院の授業の一環だ。
今、養成院の授業は中期を迎えている。
ある程度の魔術と剣術の基礎授業を終えてからは、定期的に外部の紋章師のところへ研修に行くという実地研修があるのだ。研修先は生徒による選択式となっていて、自由に選ぶことができる。
今日は、その記念すべき初日。
紋章師と一口に言っても、その働き口は千差万別。
もちろん皆が希望するのは宮廷魔術騎士団への入団だ。
その宮廷魔術騎士団の中でも様々な仕事がある。
国境監視のような、警備の仕事もあれば、魔術の研究をおこなう研究職や、魔術の能力を活かせるような技術職もあるそうだ。
それ以外、となると“野良紋章師”とよばれる者たち。ようするに俺をこの養成院に放り込んだ呪いの紋章師テマラのような連中だ。
人によって進む道は色とりどり。
かつての戦乱期は、エインズ王国の紋章師といえばすなわち兵士という意味合いが強かったそうだが、俺たちの時代ではそういう意味合いはかなり薄れてきている。
「ウル君、これが初めての研修ってことは、授業はちょうど基礎を終えたところかな?」
「はい、一通りの学科試験は終わって、今は剣術と魔術の実技の授業が多いですね」
「そうか。実は、俺もあそこの卒業生でね。ところで、キミは確か……呪いの紋章師だったな……かわいそうに」
デヴィンさんの声には、どこか含みがあった。
腫れ物に触るような、その話題を出した途端に後悔するような、そんな響き。デヴィンさんは手に持っていたカップを一口ぐいっと押し当てる。
俺は、なんだか気まずくなりそうな空気が嫌で、無理やり言葉をつないだ。
「……呪いの紋章のような黒魔術に分類される魔術はあまり好まれないらしいですね」
「ん? いや、そういう意味じゃないぞ」
「え?」
「そうか、基礎魔術の訓練時はまだ自分の紋章にあわせた魔術の授業はしていないのか」
「はい。先に、古代語や付与魔術の“呪文”を習っています」
デヴィンさんは「なるほど」と妙に納得した。そして続ける。
「俺がかわいそう、といったのはだな。呪いの魔術の授業は、おそらくポープ院長が担当することになるからだよ」
「え!? ポープ院長が呪いの魔術の授業担当ってどういうことですか!?」
驚きのあまり、手にしていたカップを指から離しかけて、すぐ握りなおす。デヴィンさんは首をかしげて、不思議そうに話す。
「何だ、キミ、知らないのか……もともと、呪いの紋章師は稀少で、あまりいない。だから、呪いの魔術を教えられる教師自体が少ないんだよ」
デヴィンさんは最後にこう付け加えた。
「ポープ院長は“時の紋章師”であると同時に“呪いの紋章師”でもある。あのお方は二つの紋章持ちなんだよ。必然的にキミにつく教師はポープ院長になるってことさ。それはそれは、授業では厳しいお方だと聞くぞ」
寝耳に水。青天の霹靂。そんなの想像もしてなかった。
その時、あっけにとられた俺の事をあざ笑うかのような、何かの鳴き声が、クオィ~、クオィ~と、周囲にこだました。
呪いの魔術を院長に直々に教わる。いいのか悪いのか、判断がつかない。だって、院長とは入院式の祝辞の時に挨拶を交わしたくらいしかかかわりがない。
(いや、前に一度、院長室に行ったことがあったっけ。テマラを追って一度だけ……)
記憶のページをさかのぼるが、はっきりとは思い出せない。
俺がデヴィンさんと養成院についていろいろと話し込んでいると、背中から俺達を呼ぶ声。どうやら昼食の時間のようだ。
俺たちは声をかけてくれた宮廷魔術騎士団の人たちと持ち場を入れ替わり、階下に降りる梯子に向かった。
梯子をおり切ると、おまけのような踊り場、すぐわきにある扉のない入口に入り込む。
そこは四方からの壁が迫ってくるような、狭い石造りの部屋。
切込みのような縦長の狭間(周囲を見渡す穴)に囲まれた部屋の中央。
床に座り込んでいたシールズとバルトロスが顔を上げる。ふいに、目が合った。
2人は、地べたに座り込み、前に並ぶいくつかの皿から、肉や野菜を素手でつまんで食べていた。
デヴィンさんは俺に食事をするように告げると、すぐさま奥の階段でさらに下に降りて行った。俺は2人の前に同じように尻をついて座る。
なんだか不貞腐れた顔で次々と口に食事を放り込むシールズにたずねる。
「なんだよ、シールズ。馬鹿みたいに、やけ食いして」
「んぐっ……だってさ。僕、ここに来てからずっと届いた物資を貯蔵庫に運び入れる作業をさせられてるんだよ。それなのに、こんな食事じゃ全然足りないよっ」
「お前がここを選んだんだろ、我慢しろよ。で、バルトロスは?」
静かな男、バルトロスはシールズを横目に、いやに冷静な声で話す。
「オレは、近辺の森の見回りに同行させてもらった。ウルの方は?」
「俺は屋上からの監視だ。といっても監視するようなものすら見当たらないほどだったけど」
「そうなのか。オレは監視塔からすこし奥の森の方まで行ってきたが、あちこちに獣や魔獣の姿を見た」
シールズが口をはさむ。
「ウルったら、屋上からの監視だって? それって、ようするに景色を眺めてただけだろ? 不公平だ、どうして僕だけが荷物運びをするはめになるのさっ」
「お前は腕力が人一倍あるんだからいいだろ。適材適所ってやつさ」
「……そいうのって適材適所っていうのかなぁ。なんだか違うような気がするんだけど」
「気のせいだよ」
俺は目の前にある、焦げかけた骨付き肉を手に持ち、かじりついた。カリカリなうえに冷めていて、なんだか味があるのかないのかすらわからない。
俺たちがまずい昼食に悪態をつきながら、話し込んでいると、奇妙な鳴き声が頭の上から届く。三人ともがほぼ同時に天井を見上げる。シールズが呆けたような声でつぶやく。
「……なんだろう、変な鳴き声がしたね」
その時、にわかに空気が動く。
いくつもの足音が雪崩のように響き渡り、宮廷魔術騎士団の面々が階下から飛び跳ねるように現れた。
皆、俺たちを飛び越えて、屋上へと続く踊場にかけていく。
俺たちが手を止めてぼんやりと眺めていると、少し遅れて階段をかけあがってきたデヴィンさんが俺たちのそばで足を止めた。
その顔はさっきのゆったりとした表情とまるで違う。
俺は座り込んだままデヴィンさんを見上げる。
「……デヴィンさん、何かあったんですか? いま、変な鳴き声がしたような気がしたんですけど」
「鳴き声じゃない、あれは警笛だ。侵入者を発見した時に鳴らす警告音」
「侵入者?」
「まだわからんが、キミたちはここにいろ、屋上へは来るなよ」
デヴィンさんはそう言い残すと、大きく息を吸い込んで屋上へ続く踊場へ駆けて行った。
俺たちは急いで立ち上がると、部屋の壁際にかけより狭間(窓)へ顔を近づけた。
立てに三つ顔を並べて外を眺める。
最初に口を開いたのは、一番上のバルトロス。
「……おい、あれ、なにか、こっちに飛んでくるぞ……鳥にしちゃ、でかすぎる」
縦長の隙間からなんとか、見渡す広大な景観。
視界の下半分は、魔物が潜む深々としたダロッソの暗い森。
その上空、ふらふらと揺れながらこちらに向かい来る2つの影がきらりと見えた。
あれは。
両にはためく刺々しい翼。空気を後ろに押し漕ぐように揺れる野太い尻尾。
青空を懸命に泳ぐその姿は、獰猛な2頭の飛竜。俺の口から自然と言葉がこぼれた。
「あれは……赤小飛竜……でも、なんだか妙だ」
2頭のワイバーンは、不安定にかたむきながら、なんとかバランスを取ろうとするかのように左右にふらふらと頼りない。
いまにも地に墜ちそうなほどにハラハラする飛び方だ。
バルトロスが小さく叫ぶ。
「槍が刺さっている。どちらのワイバーンにも、槍が刺さっているぞ。あ、ダメだ、落ちる」
その時、2頭のワイバーンは、ついにぐらりと頭を下げた。こちらに向かう軌道から徐々に、徐々に、逸れていく。そして、ついに力尽きたのか、急降下しはじめた。
そしてあっという間に、音もなく、奈落の森に消えていった。
ほんの一瞬の出来事だった。
俺たちはただ息をのんで二つの影が落ちていく様を眺めるしかなかった。
しばらく、言葉もないままその場で固まっていると、沈黙を破ったのは、シールズ。
「死んじゃったのかな……」
こうしちゃいられない。
シールズの言葉に俺は答えた。
「行こう、屋上へ」
「え、で、でもさっきデヴィンさんが、ここにいろって……」
「……これは、宮廷魔術騎士団見習いとして、俺たちの初任務になるかもしれないぞ」
「初任務だって? そんな、大げさな……」
「シールズ、お前、見えなかったのか?」
「なにをさ」
「ワイバーンの上に乗っていた……人影が」
俺は、いてもたってもいられずに、屋上へと急いだ。