泣いているリリカ
教師棟の出口をくぐり、ふと、後ろの煉瓦造りの建物を見上げる。
遠目で見ると赤茶で荘厳な雰囲気をまとって見えたけれど、こうして間近で見上げるとその壁はでこぼこに波打っていて、どこかくたびれている。
はりついたようないくつかの白い窓脇だけが真新しいのか、不自然に浮き立っている。
俺が教師棟の庭を抜けて寄宿舎へ続く小道に入ったところで、前を歩く見覚えある背中。俺はその寂し気な背中にできるだけ声の色を明るくして話しかけた。
「リリカ」
妙におどおどした感じで肩をびくりと上げてこちらに目をやるリリカ。
「……あ、ウル」
リリカはそういった後、すぐに顔をそむけるようにしていそいそと歩き出す。なんだか通り雨を避けながら先を急ぐような、そんな足取り。
俺は変だなと思いながらもリリカの隣に並んだ。
「解放の日ってこんなに騒がしいんだな。どこに行っても家族ずれの人だらけでちょっと居場所がないよな」
「ええ、そうね……」
「リリカも誰かに会ってきたのか?」
「え? ううん。私に会いに来るは人いない……」
いつもハキハキと芯を突くような話ぶりのリリカはなりを潜めている。
今日は珍しく切れが悪い。
やはり自分に会いに来る家族がいないという事実が彼女の心を沈ませるのだろうか。たしかに、ぱっと周囲を見回せば、いやでも自分と周囲の生徒との差を感じるだろう。
シールズなんかは毎日、故郷の人たちが入れ代わり立ち代わり会いに来るから大変だと言っていたっけ。
「でもさ、リリカ、俺達みたいに誰も……」
リリカを何とか励まそうと、俺が彼女の横顔に目をやった瞬間。
俺は口をつぐんだ。
泣いている。
リリカは歯を食いしばるようにぐっと顎を引き、頬を手ですっと拭った。広がった涙の痕はすぐには乾かずに白い肌を潤した。
「お、おい……どうしたんだよ」
「……なんでもない」
「なんでもないって、泣いてるだろ」
「ほっといて」
リリカはそういうと、俺の視線を振り切るように前に駆けだした。俺が呼びとめてもリリカは振り向きもせず、その背中はさらに小さく、遠くなっていくばかりだった。
「なんだよ、いったい……」
俺達が一緒に歩いて来たこの小道は教師棟に続く道。という事はリリカも教師の誰かに会いに来ていたという事だろうか。
まさか、教師に叱られた帰り道か。いや、リリカに限ってそんなことはないはず。なにせリリカは、この養成院の規則のすべてに目を通しているほど几帳面でまじめな性格なのだから。怒られるなんてことは考えにくい。
俺は宙ぶらりんになった心のまま、デリアナ達の待っている場所へ急いだ。
「やぁ、デリアナ」
木陰の下。
かりそろえられた若草の芝の上に座り込んでいたデリアナ達は俺の声に振り返る。
涼し気な格好、というよりも肌色の面積がやけに多い優雅なドレス姿の彼女たち。
デリアナをはじめ5人もそろうとさすがに目立つ。
皆、一度はあったことのある娼婦たちだけれど、正直、名前はデリアナくらいしか思い出せない。
その時、風で乱れたくせっ毛の髪を手ぐしで整えながら赤毛の女が俺を見上げた。
「あら、ウルちゃん。テマラは見つかった?」
「ああ、一応はね」
「あら、よかった。さ、あなたも一緒に座りなさいな。アタシ達こんなところに来慣れてないからさぁ、なんだかさっきからジロジロ見られている気がして、落ち着かないわ」
それはたぶん、その格好のせいだろ、という言葉を飲み込んで俺は彼女たちの輪の中に交じって座った。赤毛の女が続けて話す。
「でもさぁ、驚きよね。アタシ達みたいなのなんて、てっきり門前払いされるかと思ったら、普通に入ってこれちゃったんだもの」
「ああ。今は面会が自由になる“解放の日”と呼ばれる特別な期間だからさ。その間は誰でも自由に出入りできるようになるらしいよ」
「でも不用心じゃない? こんな貴族のご子息様があつまるところに盗賊でも入り込んだらまずいでしょ?」
「大丈夫さ。この養成院にいるのは、先生たちも含めて、みんな紋章師だから。賊なんかが入り込んだところですぐコテンパンにされちゃうだろ」
「まぁ、そういえばそうだけどねぇ……あぁ、それよりテマラはどこにいたの?」
俺は今さっきテマラと院長室で鉢合わせしたことを伝える。彼女たちは、目をみはって驚きの表情を見せた。互いに顔を見合わせながら、テマラと院長が知り合いだなんて話は初耳だと口をそろえる。
デリアナが続ける。
「テマラって普段は自分の事は話さないのよ。あの人がアタシ達に何かを打ち明ける時は、酔っぱらっている時だけ。アタシ達の事を信じているわけではなくて、口が滑ったって程度の事なの」
「へぇ、そうなんだ……俺もさっき会った時、バッサリ切られたからな。俺なんかに用はねぇってさ」
「あら、かわいそうに。あの人、気分屋だからね。気に食わないことがあるとすぐに怒鳴り散らすし……それに時々、怖くなるときがあるのよね」
「怖くなる時?」
「ええ。あの人が呪いの紋章師ってことは知っているし、あまり大っぴらに言えない仕事をしていることはわかっているつもりだけれどね」
「まぁ……呪いの魔術そのものがあまりいい性質のものではないから……」
俺は何となく自分の事を言われているような気持ちになって、どこかきまりが悪くなった。そんな俺の顔色を読んだのか、デリアナは俺の肩にそっと手をのせた。
「そういう意味じゃないのよ」
「え? あぁ、うん」
「それよりもウル、さっき泣いている女の子を追いかけていなかった」
「え? 見えてたの?」
「実はね、遅いから少し見にいっていたら偶然ね」
突然、周りの女たちが色めきだした。
「え、やだぁ! ウルちゃんったら。まだここに入って何日も経ってないのに」
「もう女を泣かすまでになったのかい、隅に置けない子だねぇ」
「あら、アタシは、怪しいと思っていたわ。なんだかこの子、あの屋敷にいた頃より妙に男っぽくなってきているもの」
「で、どうなの? というかウルちゃんに誰か”手ほどき”してあげたのかしら?」
デリアナは、俺に軽く目配せして、ごめんねという感じで、いたずらっぽく舌を出した。その後はしばらく彼女たちと一緒に過ごした。
ほどなくしてテマラが何食わぬ顔で戻る。テマラは彼女たちを少し強引に立たせる。デリアナ達は「なによ、もう帰るの?」と言いながらも腰を上げてテマラに従う。
そして皆順番にならび俺のもとに来て軽くハグをしてくれた。
その後、俺が小さくなる皆を見送っていると、ふとテマラが何かを思い出したように、こちらに向き直りふてぶてしく近づいてくる。
テマラは俺の前まで来ると、ポケットの中に手を突っ込んで掌くらいの小さな木箱を俺の顔の前に持ってきた。
「なんだよ、これ」
「いいから、うけとっとけよ」
「はい、はい」
俺はテマラの手から奪い取るように木箱をつかんだ。テマラはこころなしか小声になってオレに耳打ちする。
「いいか。その木箱の中にはある“呪具”が入っている」
「えぇ? なんでそんなものを?」
「暇だろ。こんなにも平凡で退屈で偽善に満ちた場所にいると、お前の気が狂うかもしれねぇだろ。だからおもちゃをやろうってんだよ」
「でも、この養成院のなかでは魔術は禁止されてるんだよ。こんなの持っているのがバレたら追放になる」
「魔術が禁止されているだけであって、呪具の使用は禁止されてねぇんだろ?」
「同じ事だろ、そんなの」
テマラは顔を少しはなして冷淡に笑う。
「はぁ、ほんとうにこざかしいガキだ。ま、物は試しだ。暇になったら使ってみな。ただし、呪具にも規則がある」
「規則?」
「ああ。呪具ってのは装備すれば必ず、その作用と同じく“反作用”がある。普通のやつならばその反作用の不利益をもろに受けるが、お前は耐えられるかもしれねぇ。お前の呪いの耐性があればな」
「呪いの耐性って……俺にかけた『黄泉がえりの呪法』を俺がはじいたってやつ?」
「そうだ。お前には様々な呪具をつかいこなすことができる可能性がある。まぁ、これは俺の推測でしかない。保証はできねぇがな」
テマラはそういうと最後に付け加えた。
「もしも、この“おもちゃ”を他の奴が装備したら、チョイとばかしまずいことになるだろうから、他の奴には絶対に渡すんじゃねぇぞ?」
「そ、そんな危険なものいらないよ」
俺は木箱を突き返したが、テマラは鼻で笑って背を向けた。そしてそのままデリアナ達のもとへ向かっていった。残された俺の手元の木箱。気のせいか、なんだかとても禍々しく見えてきた。