マヌル紋章師養成院、院長ポープ
伝達係と名乗るネズミのヒュウにテマラの追跡を頼むと、ヒュウはどこか誇らしげにうなずいてこういった。
「まかせな!」
ヒュウはタキシードに包まれた小さな体をひるがえし、俺を先導するようにチロチロと勢いよく駆けだした。
時々、豆のような黒い鼻を上に突き出しながら向きを変える。
ニオイで追跡しているのだろうか。
それにしても、テマラ、と言っただけでその人物の居場所を嗅ぎ分けるだなんて驚異的だ。
「どうしてテマラのニオイが分かるんだ?」
「テマラのニオイ、というよりも酒のニオイだ。あいつはオイラの鼻がひんまがるほど酒のニオイをまき散らしているから、この敷地内のどこにいてもわかる」
「あぁ……そういう事……」
ヒュウの鼻がどの程度の正確さをもっているのか。
俺とヒュウがたどり着いたのは、このマヌル紋章師養成院の院長室の扉の前。
ところどころに焦げたような染みがある分厚く茶色い木の扉。
まるで骨董品のような古めかしさで閉ざされている。押せば蝶番が外れて向こう側に倒れてしまいそうにすら見える。足元のヒュウが俺を促すように見上げる。
「ニオイはこの中に続いている」
「この中っていっても、ここって院長室だよな?」
「そうだ。奥には白髭のポープ院長がいる」
「じゃ、そのポープ院長も酒くさいって事?」
「馬鹿を言っちゃあいけない。院長はワインですら一滴も飲まない」
ガチャリ、と重そうな音と共に、取っ手がひとりでに回り、扉がゆっくりと奥に開いた。
「あ、」
俺は呆けて口を開けたまま、扉がゆっくりと奥にズレていくのを見守る事しかできなかった。院長室の中央のデスクに座る院長の姿が現れる。眼鏡の奥から光る深いまなざし。高い襟のローブをまとっている。
その脇、不思議そうな顔をしてこちらを振り返るテマラの姿が目に入った。
院長の顔の下半分を包む雪のように白い口髭がもごもごとゆれる。
「なんじゃ、ヒュウか」
「やぁ院長。こいつはウル。そこのテマラに用があるらしい」
「ほう。ならば入るがいい」
「じゃあな、オイラはここで失礼するよ」
ヒュウはそうつぶやくとお役御免とでもいうように、ぺこりと頭を下げた。俺の股をくぐって廊下をまっすぐに去っていく。俺は角を曲がるまで無言でヒュウを見送ってから、前に向き直ると、仕方なく足を踏み入れた。
俺が数歩進んだところで、扉は再びひとりでにガチャリと閉じた。
気まずい沈黙が一瞬流れたのも束の間。テマラのだみ声が響く。
「何だおめぇ、デリアナ達のところにいったんじゃないのか?」
「あぁ、いったけど。アンタが女を追いかけまわしてるって聞いたからさ……てっきり」
「ちっ、デリアナめ。俺は別にお前なんかに用はねぇ。デリアナ達がお前に会いたいというから付き添いで来ただけだ。さっさとデリアナ達のところへ行きやがれ」
テマラは苦り切った表情を浮かべ投げやりに言葉をぶつけてくる。誰かを探して後悔するなんて滅多にない事だけど、今それを体験している。
俺は仕返しとばかりに当てつけにため息をついた。俺たちの意地の悪いやり取りを見かねたのか、ポープ院長が再び声を発する。
「なんじゃ、おぬしらは。随分とつんけんとしておるのう」
その声はどこか懐かしさを感じさせる不思議な声だ。俺はおもわず「すみません」と謝った。続けて「失礼します」と即座に院長室を後にした。
廊下を少し進んで振り返る。突き当りにある院長室の扉は重々しく閉じている。
「……それにしても、どうしてテマラと院長が……しりあいなのか」
俺の問いに答えてくれるのは“彼女たち”しかいない。俺はデリアナ達が待つ寄宿舎前の芝生広場に向かった。