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棺桶からの脱出

 

 書斎の奥正面。

 光沢ある木目の四角いテーブルが鎮座(ちんざ)している。

 その上に俺の兄、アッサムが静かに横たわっていた。


 背の高いアッサムの体はテーブルにはのりきらず、頭の半分くらいと両足のひざ下あたりはテーブルからはみ出していた。それなのに、体はまっすぐにピンとしていた。なんだか宙に浮いているみたいに。


 薄茶の上衣(チュニック)

 腰に巻き付いた幅広の黒い牛革ベルト。

 足元は膝下からの黒ブーツにパンツ姿。

 アッサムのいつもの狩り衣装だ。

 狩りに疲れて居眠りでもしているような涼し気なアッサムの横顔。

 



「ウル。よくきた」




 突如として響いた父の声。

 俺の鼓動がドクンとはねた。

 その驚くほどやさしい呼びかけに俺は安堵よりも不安を覚えた。

 ぎゅっと体が縮こまる。

 俺がおそるおそる左に視線を移すとこちらを向いたソファに父が深く腰かけていた。いつもの強いまなざしはなりを潜めて、なぜか薄く笑っているように見えた。

 その右手には血のように赤いワインが入ったグラス。父はグラスを片手に口を開く。




「ウル。私は、いったい誰だ?」

「……え?」



 俺は言葉に詰まる。

 父の微笑も、質問の意味も、テーブルに寝そべるアッサムも。

 何が何だかわからない。

 この書斎から飛び出したい衝動に駆られる。

 廊下と扉一枚隔てた先にこんな地獄のような光景がひろがっているだなんて想像もしていなかった。さっきから俺の足は微かに震えている。



 その時、ふと執事のモフェットがついさっき放った言葉が浮かんだ。


 『驚かず、ごく自然にふるまうように、領主の意向をくみ取るように』


 モフェットはそう言った。そうだ、取り乱してはいけない。

 父は俺が取り乱すことを望んではいない。

 俺はなんとか自分を落ち着かせながら質問にゆっくりと答えた。




「あなたは、俺たちの父さんです」




 父はコクリと頷く。そしてまた言葉をこぼした。




「他には……?」




 俺は思いつく限り父を形容した。




「と……父さんは我がべリントン家領主。剣、炎、時空、祝福の紋章を授かったエインズ王国歴代一の紋章師です。それに、王国の宮廷魔術騎士団の最高司令官である騎士元帥です。紋章師の最高栄誉であるエインズマスターの称号を国王から授かりました……それから……」




 ふいに、ソファに深く沈んでいた父の体が前のめりになる。

 俺は咄嗟に口をつぐんだ。

 何かまずい事を言ったのかもしれないと思い息をのむ。

 父は右手のグラスを口元につけて、一気に飲み干す。

 そしてグラスを口から離すと、暖かく諭すように俺に向かってささやいた。




「お前が……死ぬべきだ」




 俺がその言葉の意味を理解しきる前に、父はこう続けた。




「ウル。呪いの魔術には死者を蘇らせることのできる『黄泉がえりの呪法』というものがあるそうだ。ただし、その魔術を行うには生き返らせる者の肉親の命が必要なのだ。お前が何のために生まれてきたのか、ようやくわかった、ウル。お前の命は、アッサムの予備(スペア)だったのだ」



 別に今まで生きてきた中で、死にたいなんて思ったことは無かったけれど、いま目の前に唐突に現れた死の選択肢。

 同じだ。

 目の前のテーブルの上に横たわるアッサムの死と同じく、自分の死も、なんだか現実味を感じない。どこかうすぼんやりとしている。

 しかし、俺は自分でも不思議なほどすんなりと承諾した。

 兄の身代わりとなり自分の魂を捧げることに。

 その場で同意した。


 父の望みが、俺が死んで兄が生き返る事なのならば、その死を受け入れてもいいやと思った。それがきっとべリントン家の為なのだから。

 自分の意志とは関係なく生まれたのならば、せめてそれを終わらせるのは自分の意志を通してもいいのではないかと思った。



 この世に生を受けたウル・べリントンという存在の(から)を脱ぎ捨てて、あの世で名もない魂になるのも悪くない。覚悟といえるほどの決意とは違う、どこか自暴自棄に似た、そんなやけっぱちの解放感があった。



 ただ、ひとつ心残りなのは、俺の相棒、ぬいぐるみのルウイを置いていってしまう事。

 ただ、それだけ。



 父は俺の返事を嬉しそうに聞いていた。

 とても優しく笑っていた。

 いままでに見たことがないくらいに。

 その笑顔を見た時、俺はさとった。

 父は今、俺を通して、アッサムに笑いかけている。

 笑顔とはこういうものだったのだ。泣きたくなるほど優しいものだったのだ。


 俺は父によって、べリントン家からというよりも、この世から追放されるのだ。






 そうして俺は、自ら死を選び、棺桶に入った。




 というのに、棺桶の中で息を吹き返してしまった。この期に及んでも俺は父の期待を裏切ったのだ。









 俺がぼんやりと闇を見つめていると、両足の親指のつま先辺りに熱を感じた。

 次に両手の中指の先。

 体の先に熱がこもる。

 湯に手足を差し込んでいく時のようなぬるい感覚がのぼってくる。

 じんわりと肌の感覚も戻り始めた。指がピクリと痙攣(けいれん)する。


 その時、気が付いた。

 俺の両手はどうやら胸の前で組まれていたようだ。

 その組まれた両手と胸の間に何かが挟まっている。

 俺は両の手を動かしその物体の輪郭をなぞる。

 ふわりとした手触り、手のひらにおさまりそうな大きさ。

 そして、飛び出した二本の、耳。

 これは俺の相棒、ルウイ。



 黒いうさぎのぬいぐるみルウイ。

 俺は自分では持ち込まなかったのに。

 一体誰が。

 あまり物の毛を集めてできたルウイ。

 ボタンの目をした笑わないルウイ。

 俺はルウイを胸の前でぎゅっと握りしめた。

 そのまま自分の体の中に押し込んでしまうほど抱きしめた。




(こら、そんなに強く握ったら痛いじゃないか、ウル)




 ルウイが怒ったような気がした。


 嬉しくて、悲しくて、もうしわけなくて。

 胸の奥から何かがこみ上げる。

 孤独な暗闇の中にルウイがいてくれたこと。

 そして、ルウイをここに入れてくれた誰かがいたこと。

 少なくとも俺の事を想ってくれた人が一人はいたのだ。

 ふいに、俺の体に力がみなぎってくる。

 とにかく、俺が生きていること、この『黄泉がえりの呪法』が失敗したことを誰かに知らせなくては。


 俺は口の中にあった銀貨を舌で押し出してぷっと横に吐き出した。次にゆっくりと胸いっぱいに息を吸い込む。

 肋骨あたりがギシギシきしむ。

 痛みをこらえて思い切り叫ぶ。




「……だ……れ、か……」




 ありったけの声で叫んだつもりが、喉の奥から息だけすうすう通り抜けていく。

 体のあちこちの働きがまるでバラバラだ。

 ルウイ、力を貸してくれ。俺に力を。


 俺はもう一度大きく息を吸い込んだ。

 腹の下に力を込める。そして闇の一点をめがけて声を上げた。




「この……まじゅ、つは……失敗だ」




 声はすぐ目の前で跳ね返る。

 しかし、勢いづいた俺は何度も叫んだ。

 次第に何かが解けたように、手足が動き始める。

 俺は棺桶の中で、全身をひねりながらがむしゃらに石のように思い手足を振り回した。


 俺の息が乱れ始めたが一向に反応がない。

 外はどうなっているのか。

 もしかしてすでに地中に埋められているのか。

 もしそうだったら。

 俺の背中がぞくりと冷たくなる。

 くそう。こんなところで飢えて、腐って死んでいくのか。あんまりじゃないか。


 その時、どこかで硬いなにかが当たるような音がした。

 俺は息をひそめて耳にすべての神経を集中した。




 コツ、コツ




 やっぱり。

 俺は叫び出したい衝動を抑えて、右手の指を丸めて同じように二回、棺桶の底をコツコツと叩いた。直後に反応。



 コツ、コツ、コツ


 


 3回。

 俺はその音に倣い、3回底を叩く。

 俺は耳を澄ませる。

 闇の向こうから、ついにくぐもったような低い声が聞こえた。




「……おい、生きていやがるのか……?」




 男の低い声がはっきりと聞こえた。

 とにかく今は誰でもいい。俺はその声の主にすがるように伝えた。




「……生きて、いる。早くここから……父さんに、知らせなくては」




 返事はない。

 しかし、突如メリメリと何かが裂けるような音。

 俺は、はやる気持ちを何とか押さえつけて音が止むのを待った。

 ふいに闇に切れ目。

 真っ白な光が降り注いだ。

 目が潰れそうになり、俺は思わずうめき声をあげた。

 まぶたをぎゅっと閉じて、両手で目を覆い隠した。


 さらり。

 乾いた風が顔をなでて、胸の奥に新鮮な空気がなだれ込んでくる。



 そして、男の声。




「うへぇ、俺の耳がおかしくなったのかと思ったが。こいつは、おどろいた。本当に生きていやがる。いや、生き返ったとでもいうべきか」



 くぐもって聞こえていた男のしゃがれ声が、はっきりと輪郭を持ち俺の耳に飛び込んできた。


 男の顔を見なくても、その表情が容易に想像できるほど驚きにねじれた声。

 俺はゆっくりと目を開きながら目を覆っていた両手を下げた。


 まず目に入ったのは無精ひげにかこまれた口。

 次第に光に目が慣れていく。

 

 そこには上から俺をのぞき込むひげ(づら)の男の顔があった。

 知らない顔だった。





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