執事のモフェット
アッサムの遺体の入った木箱は、亡くなったその日の夜にひっそりとべリントン家の一族が住むティフリー城に運ばれてきた。
誰の目にも触れないまま、直接、父の書斎に担ぎ込まれたという話だった。
べリントン家はこのエインズ王国をおさめる七大貴族の筆頭だ。
その跡取り息子の死となると事は重大だ。
まずは家族による本人確認をしなければならない。
その役目を担うのは父であるアルグレイ・べリントンだ。
この城の実務を取り仕切る執事のモフェットに聞いた話では、兄のアッサムは狩りの最中に崖から足を踏み外してしまったという事だった。
あっけない死。
アッサムは、剣と炎の紋章師として将来を嘱望されていたというのに。
俺は悲しかったというより、現実味が無かった。
実際に亡くなったアッサムの姿を見ていないし、人違いである可能性もあるのだから。
ふいにアッサムが俺の部屋に入ってきて、ただの冗談を信じてバカだな、なんて小ばかにしてくるのではないかとすら思っていた。
しかし、アッサムの遺体が運ばれてきた日を境に父の様子がおかしくなった。
書斎にこもりきりになってしまったのだ。
朝も昼も夜も、食事は全て書斎に運び込まれていたし、領主としての仕事もほっぽりだしていた。
いつもならば、父は毎日欠かさず、陽がのぼり始めるころから聴聞会を開いていた。城の従者たちや騎士団、この土地に住む農奴から商人に至るまで様々な人たちからの意見や報告を漏らさずに聞いていたというのに。
城内に住む誰しもの心に不安が積もっていった。
そんな不安の表れか。
妙な噂がまたたくまに城中にひろまっていった。
父がアッサムの遺体を書斎のソファに座らせて、一緒に食事をしているというのだ。
父の書斎に毎日二人分の食事が運ばれている、と。
しずかなざわめきが続く日々の中、ついに俺は父から呼び出された。
ある日の昼下がり。
自分の部屋の机で、専任の家庭教師から歴史書の手ほどきを受けていた時、執事のモフェットが部屋に入ってきて俺に告げた。
父が俺を呼んでいると。
俺はずしんと重い心を持ち上げて、何とか立ち上がりモフェットに続いて部屋を出た。
ついに何かがわかる。
俺の胸は奇妙にうずいた。
知りたくもあり、知りたくもない。
心が極端に揺れる。
父の書斎へ続く廊下を歩きながらモフェットは振り向かずに小さく話した。
「ウル様。長男のアッサム様が亡くなってしまったという事がどういうことかお分かりですね?」
俺はモフェットの問いに返事もできず、とぼとぼと後をついていく。断頭台に送られる罪人ってこんな気分なのだろうか。
吐き気がしてきた。
いままでから、父の書斎に行ったときに、何か良いことが起こった試しがない。
モフェットは何も答えようとしない俺に対する不満の表れなのか語気が強くなった。
「いじけた人形遊びはもうおやめください。アッサム様が亡くなったことにより、ウル様のお立場も変わったのです。立場が変わったという事は、立ち居振る舞いも変えねばならないのですよ。常に思慮深く、領主様の利益を図りそれを実現する事に邁進せねばなりません。領主様の次は、ウル様が家督を継ぐのです。否応なく」
否応なく、の部分があからさまに強調されていた。
俺は後ろに組まれたモフェットの両の手を見る。
浅黒く年季の入った枯れ枝のような指。
握ればぽっきりと折れてしまいそうだし動いているのが不思議なくらいだ。
だというのに爪だけがどこか妙に若々しく艶めいている。いま、俺は説教されているんだろうか。
モフェットの剣幕に押されて俺はついつい愚痴る。
「でも、俺なんか何もできない。体は弱いし、紋章だって……」
俺の言葉の途中でモフェットはぴしゃりと言い放つ。
「ウル様。どうかお心を強くお持ちください。アッサム様とはまた違った才がおありのはずです」
「う……うん」
俺は曖昧にうなずくぐらいしかできない。
ついに、父の書斎の扉の前。モフェットは立ち止まる。
ゆっくりとこちらを振り向いた。
彼の深く落ちくぼんだ目。
いつもよりひときわ陰がさす。
しわだらけの顔はまるで木のお化けみたいだ。
モフェットは陰の奥からのぞく眼でどこか心配そうに告げた。
「ウル様。この書斎の中で見たことは、決して誰にも言わぬように。驚かず、ごく自然にふるまってください。常に領主様の意向を鋭く読み取るのです。いいですね?」
俺は言葉の意味が解らず、首をかしげた。
モフェットはまだこちらを見つめている。
俺がわかったというまでこの場から動かないといった感じで。
俺はモフェットの期待に沿った答えを差し出す。
「わかった」
俺の言葉を聞くとモフェットは納得したようにうなずいた。
そして一歩下がり書斎の扉の前を俺に譲った。
俺は一歩進み、書斎の扉の前に立つ。
この扉の向こうにうやむやだった答えがある。
アッサムの生死、そして父が俺にはなった追放という言葉の真意。
俺はゆっくりと扉のノブを握り、中に進んだ。