兄と弟★
廊下に出て後ろ手に書斎の扉を閉める。
澱んでいたからだ中の血のめぐりが一気に全身を駆け巡り、ずきんと頭が痛んだ。
奥歯をかんでうつむく。
足元に広がる真っ赤に染めあげられた絨毯が妙に色あせて見えた。
その時、声がした。
「おい」
見なくてもわかる。
この声は、俺の3つ年上の兄アッサム。
アッサムは俺に話しかける時、いつもうっすら笑っているんだ。
廊下の先に視線を向けると、案の定だ。
にやけ顔のアッサムは大きな窓を背に腕を組んで立っている。
父に似た銀を含んだアッシュブロンドの髪は波打ちながら後ろに流れる。
アッサムは窓から差し込む光によって床に伸びる自らの影を踏みつけ、奇妙な威圧感を醸し出す。
なんだかそれは、父の真似事に見えた。
面倒くさい。
俺は会話の扉を強引にしめた。
「またあとで」
俺はアッサムの視線をよけてうつむきながら、足早に真横を通り過ぎた。
その時、俺の背中に発せられたアッサムの言葉は、俺の足を踏みとどまらせるには十分だった。
「おい、呪いの紋章らしいな」
俺は両足をそろえてぴたりと立ち止まる。
どうして知っている。
俺の紋章の話はまだ父にしかしていない。
書斎の扉に耳でもつけて盗み聞きしていたのか。
アッサムの俺に対する監視は最近特にひどくなってきている。
まるで俺が苦しむのを楽しんでいるようにも見える。
俺が黙ったままでいるとアッサムは続けた。
「逃げなくてもいいではないか。俺はお前の事なら何でも知っているんだから。剣術の稽古はサボる。話し相手はうさぎの人形。授かったのは忌まわしき呪いの紋章。見事だなぁ、おい。べリントン家の面汚しとしては完璧だ。父さんの表情が目に浮かぶ」
アッサムはいつからか俺の名前を呼ばなくなった。
おい、で済ませる。
俺が兄弟である事が恥ずかしい、という態度を隠さない。
反論しようにも全て事実なのだからどうしようもない。
アッサムは剣と炎の紋章を授かった稀有な人物。卓越した剣術と炎の魔術を操ることができる生粋の戦士。紋章を2つ以上授かる人間というのは滅多にいない。
もう悔しいという感情すら湧かない。
俺は何も言わずにその場を後にした。
急いで廊下を抜け、ようやくたどり着いた俺の部屋。
扉を閉めて思いっきり寝台に飛び込んだ。
誰にも聞かれないように、うつ伏せになりシーツに顔をうずめてから怒りを吐き出す。
「どちくしょうめ!」
これくらいの言葉しか浮かばない自分が恨めしい。
シーツに顔をこすりつけながら横向きにずらすと、目の前で黒いうさぎのぬいぐるみがうつ伏せになっている。
俺が寝台に飛び込んだ反動で飛びはねてつんのめったようだ。
座った姿勢のぬいぐるみだからうつ伏せになると尻がうしろに突き出ていて、なんだか間抜けに見える。
少し笑えた。
こいつは俺の子供のころからの相棒、ルウイ。
俺はルウイに手を伸ばし座らせてやる。
そして、ルウイをこちらに向けてささやきかける。
「……なぁ、ルウイ。どうして俺はこうなんだろう。何一つ父さんの期待に応えられない。兄さんは何でもできるのにさ。最近は兄さんは何もできない俺を見るのを楽しがっているようにすら見える。きっと自分の方が上だと安心できるんだろうな」
(上を見て下を見て、それが一体何になるというんだい)
ぬいぐるみのルウイから、そんな気の利いた返事はかえってこない。
ルウイはただ、きょとんとした顔で黙っている。
ルウイの目の部分は黒いボタンが縫い付けてあるだけなのに、不思議と目が合う気がする。この大きな城の中で、俺の友達はルウイだけ。
俺を生んだ時に母さんは死んだ。
母さんには額縁の中でしか会った事がない。
難産の末に生まれた俺は体が弱く、小さい頃は外にも出歩けなかった。
部屋で一人で過ごすことが多かった。
そんな俺を心配して乳母のマールが黒ひつじの毛を集めて作ってくれたのがこのルウイだ。
裁縫には使えないあまり物の毛を何か月もの間少しずつあつめて作ってくれたらしい。
俺を子供のころから診ているかかりつけ医の話によると、俺の胸にある器官には小さな穴が開いているそうだ。生まれつきの為治しようがないという。
そのせいで俺は長い時間体を動かすことができない。すぐに息が切れて頭が真っ白になってくるのだ。
この症状はいろんなところで俺を苦しめる。
剣術の稽古中に気を失った数は数えきれないほどだ。
最初は、このべリントン家の騎士たちに混ざり、兄さんと一緒に剣術の稽古をしていた。
そのうち俺だけが個別での指導になり、最後は俺のほうから稽古に行かなくなった。
別に稽古が嫌だったわけじゃない。
そりゃつらい事はつらかったけれど、それは耐えられるものだった。
耐えられなかったのは周囲の人たちの笑顔だった。
同情とも哀れみともとれるあの眉をひそめた妙な笑い顔。
皆が俺の事を諦めていた。だからこそ、剣術で期待に応えられないならばせめて魔術だけでも、と思っていたけれど、それも無理だった。
俺が授かった呪いの紋章。
父が毛嫌いする理由は知っている。
かつてこのべリントン家で呪いの紋章を授かった者がいた。
その人物は悪しき道に堕ち一族に災いをもたらしたという話を聞いた事がある。
そんな紋章を授かってしまうだなんて。
あまり物の黒ひつじの毛でつくられたルウイ。
兄のあまり物のような俺。
似た者同士の俺たちは、この部屋で大人しく過ごすことぐらいしかできないのかもしれない。
俺は仰向けになり、ルウイの体を両手で包み、持ち上げる。
そっと話しかける。
「ルウイ、何もない俺に、何か言ってくれよ」
ルウイはボタンの目玉でじっと俺の顔を見つめる。
ルウイは笑わない。
俺は、そんなルウイが大好きだった。
呪いの紋章を授かってから数日、俺はどこかやけっぱちになりながらも、自分の身の振り方を考えていた。大貴族べリントン家は優秀な長男アッサムが継ぐ。
俺に遺される財産など何ひとつない。役に立たない貴族の次男坊など必要とはされないのだ。
そんな中、訃報が飛び込んできた。
俺の兄、アッサムが死んだ、と。