解呪
寝台の上、落ち着きを取り戻したペセタルに、俺は声をかけた。
「ペセタル。今、隣の部屋にお前さんの実父であるメディアベルがいる。あの天秤に乗った心臓と対になる“何か”は、おそらくお前さんにしか差し出せない。あの心臓の持ち主と深い関係にある人物の“何か”だ。お前さんにそれが差し出せるか?」
「……ええ。それでいいのかどうかはわかりませんが。その“何か”はわたくしの“背中”にあります」
「背中? ……まぁ、腹を決めているんならば、お前さんに任せよう。さ、いこう」
ペセタルはゆっくりと両の足を寝台から降ろすと、立ち上がった。ネリギュルは心配そうにペセタルの横にぴたりと寄り添っている。俺達は隣の部屋に向かった。
俺とペセタルが部屋の中に進むと。天秤の後ろに、メディアベルが変わらず立っている。メディアベルは足元の天秤で動く自分の小さな心臓を眺めている。その時、俺の隣にいるペセタルが、ふぅ、と小さく息を吐いたのが聞こえた。俺は顔を寄せてペセタルの耳にささやきかけた。
「おい、ペセタル。さっきのように切りかかったりはしないだろうな?」
「大丈夫です……不思議なのですが、今はなぜかすごく落ち着いています」
「お前の積年の復讐はさっきの一撃でけじめがついた。お前さんからしたらまだ足りないかもしれねぇが……あと、ひとつ言っておくが、メディアベルに何かを期待しても無駄だぞ」
「……それは、どういう意味でしょうか?」
「いや、なんというかさ。普通の感覚で話しても、あんまり話が通じないっていうかよ。実は俺もさっきいらいらしちまってよ。あいつにひどい言葉を吐いちまってな。お前さんの事は言えねぇわ」
ペセタルは、ふふっと少し微笑んで言った。
「ウル殿。わたくしの為に……」
「い、いやぁ……べ、別に、そういうわけじゃないんだがな」
ペセタルは一歩前に進み出た。ついていこうとするネリギュルのマントを俺が引っ張り、後ろに戻す。
俺達が静かに見守っていると、突然、ペセタルの肩から真っ黒のローブがするりと床に落ちる。次に、ペセタルは上衣と、肌を包んでいた白い布着さえも脱ぎ捨てて、上半身を露わにした。
少し緑がかった肌、ペセタルの背中の中央あたり。羽虫のような透明の羽根が二枚、左右に広がっている。手のひらよりも小さい歪んだ楕円。薄い膜のような羽根には網目模様がひろがっている。
小妖精族の一番の身体的な特徴だ。俗に“カゲロウの羽根”とよばれている飛べない羽根。ペセタルはつぶやいた。
「わたくしの羽根の片方を、この天秤にささげよう。これがわたくしなりの“マアトの羽根”だ」
ペセタルはそういうと背中越し、右手を掲げた。右の手のひらに、黒い影が集まったかと思うと、ずるりと漆黒の剣が現れる。その剣を握ったかと思うと、ペセタルは右手を後ろに回し右の羽根を根元からザンッと切り取った。羽根はぽとりと床に落ち、傷口からは赤い血がゆっくりと背中を伝っていく。俺の少し後ろで見守っていた皆の驚きの声が耳に届く。
俺はペセタルの行動をただじっと見ていた。
ペセタルは背中から滴る血をそのままに、床に落ちた羽根を拾い上げてさらに進む。そして天秤のところまで来ると、すっと腰を落とした。天秤をはさみ、父と子が対峙する。メディアベルは、何も言わない。ただその表情はどこか哀しげだった。
ペセタルは天秤の前にしゃがみこみ、羽根を右手にじっとしている。その羽根を左の皿に乗せてしまえば、おそらく呪いは解ける。そして、メディアベルは灰と化す。
ペセタルの背中の傷口からあふれ出る血が幾筋もの道を作る。ペセタルはじっとしたまま動かない。皆かたずをのんで見守っている。
俺はこころの中で祈る。たのむ、頼むから、最後に、せめて言葉をかわせ。どちらからでもいい。これが最初で最後の親子の瞬間だ。
その時、メディアベルがすっとひざまずいた。二人は視線の高さを同じくして向かい合う。メディアベルが小さな手を前にさし出して、ようやく沈黙を破った。
「その羽根は私がこの天秤にのせよう。それが……私にできるせめてもの償い」
ペセタルの背中が揺れる。そしてペセタルは震える声で話した。
「……わ、わたくしにとって……この背中に生えている、フェイヨン族の羽根は、まるで呪いだった。わたくしは領主デルモス・イルグランの子として育った。そしてデルモス・イルグランの跡取り息子として、今も生きている。でも……でも……わたくしは、まごう事無きあなたの息子……夜にひとり、鏡に映る自分のこの姿を見るたびに、嫌でも思い知る……」
ペセタルの震える手から、メディアベルは羽根をそっと受け取る。そして、天秤の前までもってくると、空いている左の小皿に乗せた。ふいに、天秤はバランスをとるように小さく傾いた。
瞬間、メディアベルの輪郭がゆっくりと砕けていく。からだ中から黒煙のような細かな煤が天にのぼっていく。ぽろぽろと、手が、足が崩れ始める。ペセタルは慌てて顔を上げた。そして、メディアベルと見つめあい。言った。
「……さよなら、父さん」
メディアベルは何も言わずに、ただうなずき、そして優しく微笑んだ。その目は深い愛情を称えた息子を見守る父親の目だった。
ついに、メディアベルの体は跡形もなく消え去った。
うずくまるペセタルの前に残ったのは、空っぽになった“マアトの天秤”だけ。
天秤は水平に、その均衡を保っていた。