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仕事の依頼主 ペセタル・イルグランのこころ ⑤



 はっ、はっ、と自分の短い息づかいだけが口元からこだまする。深い森にはいり、道なき道を登りはじめて、いくばくか。


 ふいに強烈な腐臭が鼻を突いた。私は思わず顔をゆがめる。先を上っていたネリギュルもニオイに気がついたようで、その背中がふと止まる。ネリギュルはすっと左腕を上げて少し先、木々の隙間を指さした。


 私は視線を飛ばす。そこには大きな黒い塊。私たちがそばによると、枯れ葉にうずもれるようにして毛むくじゃらの魔獣が横たわっていた。


 大黒猪犬(ブラックボア)の死骸だった。前足のあたりはすでに骨が見えるほどに白骨化している。皮の下からはみ出した赤黒い肉に無数のコバエがたかり、ぶうん、ぶうんと小さく唸っている。口元を押さえながらネリギュルが見下ろす。




「かなり大きな大黒猪犬(ブラックボア)です。随分前に死んでしまったんでしょう」

「しかし、腐敗の仕方が妙だな。前足はすでに骨だけになっているというのに、尻のほうは全く腐敗がない」

「言われてみれば、たしかに変ですね。もしかしてあの紋章師の仕業でしょうか」

「かもしれんな……」




 私たちは奇妙な死骸を後にして、先を急いだ。










 暗い。日はすでに落ち周囲は静かな闇に包まれている。茂みに座り込んでいた私のもとにネリギュルが戻って来た。隣にしゃがみこんで小声で話す。



「あの紋章師たちは、ここから少し上にある岩陰を野営地にするようです。我々はここで休むしかなさそうですね。少し居心地が悪いですが、大丈夫ですか?」

「ネリギュル、闇の紋章師にとって闇が訪れる場所はすべて我が領域(テリトリー)だ」

「わかりました。では、ここで休むことにしましょうか」




 簡単な夕食を口にして私たちはその場に横たわる。イルグラン領主として、毎日政務に明け暮れている私にとっては久しぶりの旅だ。不自由はあれど、どこかワクワクする。城にいる部下たちには悪いが、いい気分転換だ。ネリギュルの奴、まさかその為に私を連れ出したのだろうか。ネリギュルはそんな私の疑念をよそに、すでに気持ちよさそうな寝息を立てている。今朝がたの言葉はどこにいったのだ。えらそうに“一晩寝ずの行動など朝飯前”だなどと啖呵を切っておいて。





 闇にくるまれ目を閉じると、羽虫の音とともに様々な思いが浮き上がる。私は自分の父の顔も、母の顔も見たことがない。


 先代領主であるデルモス・イルグランと私の間に血のつながりはないのだ。それはイルグラン家では公然の秘密となっている。


 聞いた話では、私の実母エマニュエルとデルモスの出会いは、城内での催し物の最中だったそうだ。親族の誰かの生誕祭の日か何かに城内で開かれた舞踏会。


 その時の道化師団体の出し物の演目の一部に参加していたエマニュエル。その可憐に踊る姿を見た瞬間、デルモスは一目で心を奪われたそうだ。そして、なんと、その数日後には求婚した。二人の年の差は30歳ほどもあったそうだ。


 エマニュエルは貴族でもない名もなき家柄。周囲は当然のごとく猛反対。しかしデルモスは意に介さずエマニュエルを正式な妻に迎えた。デルモスには子がなく、すでに前妻は他界していたのだ。その為、周囲もしぶしぶ認めざるを得なかった部分もあったようだ。


 しかし、それが我が実母エマニュエルの不幸の始まりだったのだろう。


 もともと旅芸人の一座であちこちを回っていたエマニュエルにとって貴族のしきたりは初めての事ばかり。それを覚えるのは一苦労だ。当然のごとく挫折の連続だったようだ。


 それに、イルグラン家の親族からは卑しい身分とさげすまれ、その部下たちからは遺産狙いと見下され、エマニュエルは孤独に毎日を過ごしていた。


 そんな日々の中、若い彼女の美貌は年を増すごとに怪しげな光を放っていく。そして、ついに、領主の妻でありながら、次々とあちこちの貴族の男達との浮名を流し始めたのだ。いくら厳しく罰されようとも、エマニュエルはやめなかった。次々と男を自分の部屋に連れ込み事に至った。性に奔放で、肉の欲望に体を支配された彼女を周囲の人たちはこう呼んだ。


 淫乱な貴婦人と、悪魔の名をもじった蔑称(べっしょう)


 “淫婦(インプ)”と。


 それでもエマニュエルに惚れ込んだデルモスは決してエマニュエルを手放さなかった。そしてある時、エマニュエルは、私、ペセタル・イルグランを身ごもったのだ。誰の子かもわからない私を。


 それからのいきさつは、あまり知らない。聞きたくもなかった。ただ、私は産み落とされた後、義理の父デルモスに引き取られ、イルグラン家の跡取りとして育てられることとなったのだ。


 私の母、エマニュエルはついに気狂いのようになり、城から逃げ出し、そして、最後、ラズモンの街で孤独に死んだ。


 そんな愚かで哀れな母が残したのが、あの“マアトの天秤”だったのだ。



 



 その時、ふいに私の思索を遮ったのは、ネリギュルの声。



「……ペセタル様、誰かくるようです」

「誰か……? まさか尾行がばれたのか?」

「いえ……あれは別の者……おそらく、不死人……」

「なに?」




 私は体を小さくしながら、むくりと起こす。ネリギュルの肩越しに闇の先を見据えた。幸いに月明かり。山道をふらふらと降りていく真っ白い人影がみえた。人影はぶつぶつと何かをつぶやきながら、こちらには来ずに、山を下りて行った。


 あれが不死人のなれの果て。もはや、あるく死体。マアトの天秤にのっていた心臓の持ち主も、ああなっているのだろうか。私は男が完全に消えるまで、その背中をひっそりと見守った。


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