呪具『アナトリアの棘(とげ)』
不死人イルーネが生まれた町は領地境の小さな村。イルーネは小さな頃に両親を亡くした。それ以降、親戚夫婦にひきとられはしたものの、そこに愛はなかった。親戚夫婦はいじわるな性格で、イルーネはほんの小さな子供のころから毎日、毎日、炊事に洗濯に農作業にかりだされた。与えられる飯といえば腐りかけの残飯のみ。
ひもじさから、イルーネは何度もその家から逃げ出すこともあったようだが、子供の足だ。すぐに連れ戻されて、鞭で打たれ、ひどい言葉を浴びせられたそうだ。
イルーネはまるで声色を変えず淡々と話す。
「アタイを鞭で激しく打ちながら、あいつらはわらっていたんだよ……きっとアタイをいじめるのが楽しくて仕方がなかったんだろうね」
そんな日々を送りながら、イルーネが年頃になったある時。
親戚夫婦は、はした金と引き換えにイルーネを奴隷商人に売り飛ばしたそうだ。イルーネの心は絶望と、憎悪に満ち満ちていた。憎くて憎くて仕方がなかった。狂いそうなほどに。
そんなイルーネの心を見透かしたのか、奴隷商人の男はイルーネにこんな話をした。“もしも、お前が憎しみから解放されたいのならば、秘密の道具を貸してあげよう”と。イルーネは悩んだ末に決心した。その思いを奴隷商人の男に告げると、その男は小さなナイフを手渡してきた。そしてこう告げた。
「このギザギザの刃をもつ小さなナイフは“アナトリアの棘”といってね。このナイフに憎い相手の血を塗りたくれば、お前の望みは果たされるよ」
うつむいたまんま、イルーネは話す。
「アタイはてっきり男が憎い相手を殺せという意味で言ったんだと思ったんだよ。それでね、アタイはその男の言うとおり、夜中にあの親戚夫婦の屋敷に忍び込んで、寝ているあの二人の胸をナイフで突き刺したのさ」
耳を傾けていたリラが口ゆがめて、つらそうに俺のほうを見つめる。俺はイルーネにたずねる。
「それで、その先は?」
「その男に渡されたナイフがね、どういうわけが不死人になる為の呪いのナイフだったのさ。男の言葉通り、アタイがあいつらの胸を刺した途端に、アタイの心から憎しみはぱっと消えた。それがアタイが不死人になった瞬間だった。その瞬間に憎しみ以外のすべての感情も全部かき消えたのさ。いや、感情というよりも……欲望が消えたというほうが近いのかな。アタイはそれ以降何も望まなくなった。何も、ね」
「……不死人になる為の呪いのナイフ。アナトリアの棘……か。しかしどうして奴隷商人の男がそんな呪具をもっているんだろうな」
「しらないよ。でもね、今考えるとね、きっと、そいつは奴隷商人なんかじゃなかったんだと思う。だってその男、アタイに不死人の呪いがかかったとたんに、アタイの前から姿を消したんだもの。あの男はきっとアタイを不死人にする為にあらわれた悪魔だったのさ」
イルーネの話はそこでおわった。俺達はイルーネに礼を言って小屋を出る。ラプスが立ち止まり俺にたずねてきた。
「ウル。ワシはあまり呪いというものに関して詳しくはないのじゃが。不死の為の呪いというものは、そんなにいろいろとあるものなのかいのぉ……」
「そうだ。実にいろいろあるんだよ、これが。古くは“人魚の肉を食す”だとか。活性死者の毒薬だとか。はるか東方の国では”反魂香”という死者を煙の中によみがえらせるという、不思議なお香なんかもあると聞いたことがある。それに……上を歩いただけで不死の呪いがかかってしまうという”金翅鳥の吊橋”なんてものもどこかにあるらしい」
ラプスは苦々しくため息をついて、腕を組んだ。
「なんとまぁ恐ろしい話じゃ……しかしの、いったいなぜじゃろうの……なぜ、奴隷商人の男はイルーネを不死人にする必要があったのじゃ」
「さぁな。ただ、俺はいろいろと解呪の仕事をしてきてわかるんだがよ……」
「なんじゃ?」
「誰かに呪いをかけることで、救われる奴もいるんだよ。俺たちにはわからなくてもそいつにはそいつなりの理由があるものさ。きっと俺達には理解なんてできないし、する必要もねぇのさ。でも、さっきの話で、不死人に関して分かったことがある」
首をかしげたラプスに俺は言う。
「不死人になると良くも悪くも、“渇望”から解放されるらしい、という事だ」
「渇望?」
「そうだ。燃え盛るような憎しみや怒り、そういったものから解放されるというのは、ある種の救いなのかもしれねぇ。さっきイルーネも言ってただろ。不死人になってからはすごく穏やかな気分になれた、と」
「ふぅむ……ワシのような枯れた老いぼれには、ようわからん」
マアトの天秤に置かれた小さな心臓。いまだ鼓動止めないあの心臓の持ち主も、何かから解放されたかったのかもしれない。イルーネの場合はそれが“憎しみ”だったが、この心臓の持ち主が解放されたかったのは、一体、何なのだろうか。