露天商のおばあさん★
幽霊。
それが、黒いヴェールの女の第一印象。
彼女の後ろ姿を眺めて、ふと、その印象の理由がわかった。
彼女は妙に水平なままで前に進むのだ。
歩を進めると多少なりとも体が上下するはずだが、彼女はまるで浮かんでいるかのように頭の位置が変わらない。
(幽霊というよりは、こうしてよく見ると、まるで……頭をもたげた蛇のようだな)
そんなことをぼんやりと考えながら、薄暗い廊下を抜けていく。右にまがると少し先に、地下に降りる階段が現れた。意外だ。外から屋敷の窓の配置を見る限り、ここは3階建てだった筈。
「なんだい、てっきり上にいく階段があるのかと思ったら、地下に行くのかい?」
ヴェールの女は答えも、振り向きもしなかった。俺の質問に答えることは仕事には含まれていないとでもいうように完璧なまでの無視というやつだ。
彼女はただ、しずしずと目の前に現れた石の階段をゆっくりと降りていく。
俺も慎重に後に続いた。俺は胸ポケットにちらりと目をやる。キャンディの奴は眠っているのか、さっきからピクリとも動かない。娼婦とのやりとりがどういう流れになるのかは、わからない。場合によっちゃあ、おっぱじまっちまう可能性も無きにしも非ず。
(そうならないことを祈るが……)
ほどなく階段が終わる。
先に続く続く石の廊下を見通して、驚いた。
「ここは、まさか、地下牢か……」
声が響く。ここは地下の牢獄跡。
地下牢の真上にこの娼館は建てられている。いったいどういういきさつでそんなことになるのか見当もつかないが。
間隔をあけて、壁に揺れる松明のあかりをたよりに足元を見ながら歩いていく。
かび臭く窮屈な空気にのどがつまる。俺の足音だけが壁に反響して冷たく響いてくる。
その時、屋敷の中では気がつかなった奇妙な音が、耳のふちからじっとりと入り込んでくる。
しゅるしゅると衣擦れのような、なにかをこする音。その音の源がヴェールの女の足元からだと気がついた瞬間。ヴェールの女はぴたりと動きを止めた。
彼女はこちらに振り返ると、目の前の一つの牢獄に手を指し伸ばした。
そして、何も言わずに床の上を滑るように去っていった。
俺は口を開けたその牢獄の入り口に進む。気を引き締めて中に入り込むと、入口の檻を後ろ手でゆっくりとしめた。カチリと扉が合わさる音。
中には一番奥に真っ白のシーツの敷かれた寝台が置かれており、そこに白いローブをまとった女が腰かけている。フードを深くかぶり、うつむきがちではあるが、その顔はこちらを向いていた。
つるりと輝く無機質な顔。その女の顔には白い仮面がかぶされていた。
目だけがくりぬかれ、そこからぎょろりと黒い目玉がこちらに向いたのが分かった。
ふいに、仮面の女が話しかけてきた。
「こんばんは。あなた、初めてね」
仮面越しで、さえぎられた声ではあったが、思いのほか若い声。
不気味な格好とは裏腹と言えるほどに、その声はいたって普通の女の声だった。
「さ、体を拭いてあげるから、こっちに来て。わたしに背中を向けて座って」
俺は言われるがまま女の前に近寄り、くるりと背中を向けて床に尻をつけて座った。ひんやりとした石の床の感触。
女はどこからか取り出した手拭いで、後ろから俺の首筋に手を回す。俺のあごのラインを添うように優しくふき取る。
そして、もう一方の手で、ゆっくりと俺の胸元に手を伸ばし、俺の服の襟元の紐をほどいていく。
後ろから延びてくる彼女の両腕には指先から肘のあたりまでを覆い隠す白い長い手袋がはめられている。
すっと視線を落とした時、彼女の二の腕あたりがちらりと見えた。凹凸のある赤い皮膚。
(声は若いが、しわだらけ……いや、これは……やけどの痕か……)
俺は目を細めて、軽く警告した。
「俺の体を見ることができるかい?」
「……え?」
「俺とお前は似ているかもしれないな」
「ふふふ……おかしなことを言う人」
女は俺の首元から胸にかけてのひもをすべて緩めると、背中から俺の服をめくり上げていく。
俺は身を任せて、両手を上にあげて、ただされるがままに肌をあらわにする。
首からすっぽりと抜かれた俺の服は、隣にぞんざいに放り投げられた。
他人に、素肌をさらしたのは久しぶりだ。
しばらく、音のない時間が流れた。
俺の全身の肌には呪いの傷跡がのたうち回っている。
まるで怒りに打ち震える数百の蛇が絡み合うような赤黒い生傷のあと。見たものはそのおぞましさに目をそむけたくなるだろう。
しかし、女は何も言わずに、俺の背中を濡れた布切れで拭いていく。
そしてふと呟いた。
「痛かった?」
「痛いなんてもんじゃない、何回も死にかけたよ」
「この傷は何なの? 古い傷のようだけど、なんだかひどく生々しいわ」
「呪いの傷さ。実は……俺は呪いの紋章師でね」
氷のような、束の間の沈黙。
「呪いの……紋章師……?」
「ああ、それがさ、最近実は、ある呪いの相談を受けていてね」
女の手が心なしか動きを緩める。
布切れ越し、俺の肌を伝って女の手の震えを感じる。
俺は続ける。
「その呪いというのが、真っ赤な指輪の呪いでね。その指輪をある女に売りつけた露天商のばあさんを探してるんだよ」
「……そう」
「……さっきから、手が震えてるぜ……露天商のばあさん」
後ろの気配がにわかに殺気を帯びる。
俺は一気に前に飛びのき振り返った。
白い仮面の女はどこから取り出したのか、両手に握った短刀をこちらに向けている。
女は震える声でつぶやいた。
「……あ、あなたが……ランカが言っていたウルとかいう呪いの紋章師?」
「あらら、ご名答」
「ど、どうしてここが……」
「気を抜いたランカに聞いてみるこったな」
突然、女はか細い身体で、俺に飛び掛かってきた。
俺は右に素早くよけて軽くいなす。短刀の握られている彼女の手を手刀で払った。
「きゃっ……」
打ち据えられた女の手からきらりと光る短刀がはがれ、床にはねた。
女はそのまま、後ろの壁によろよろと崩れ落ち、座り込んだ。
俺は女の動きに注意を払いながら、脱ぎ捨てられた衣類を拾い上げると、頭からすっぽりとかぶりなおした。パンパンとしわを伸ばして女に目をやる。
女は壁際に座り込んだまま、負けじとこちらを睨みつけた。
その時、俺の服の胸ポケットから小さな声がする。
「……ちょっと、なに、なんか騒がしいんだけど……」
「……やれやれ、起きたか」
キャンディが胸ポケットから、ぬっと顔を見せた。