もとフィアンセ候補の名はルフナ・タルジア
気の向くままにふらふらと、本を手にとり目を通す。こんなゆったりとした読書の時間を持つのは久しぶりな気がする。
あちこちを回りながら、たどり着いたのは魔術書が並ぶ本棚。俺は本棚を見上げ、背表紙の文字をおっていく。あかりの魔術一覧、氷の魔術応用編、剣の魔術の初心者入門、盾の魔術の意外な使い方。様々な分野の魔術の基本的な呪文書が並んでいる。俺は目を凝らしてずらりと並ぶ背表紙を上から順に追っていく。
が、俺の期待は外れた。俺の扱う呪いの魔術の書物は一向に見当たらない。それどころか黒魔術と分類されている一連の魔術の本もなさそうだ。王立図書館ですらこのざまか。これって情報統制じゃねーのか。くさいものにはフタをしておけってか。
「けっ、そんなにも呪いの魔術がきらいなのかこの国は」
俺が今まで手に入れた呪い関連の魔術書は、俺のお師匠である呪いの紋章師テマラから売り渡されたものだ。(あ、もらったんじゃなくて、あくまでも買わされたってところがみそ)
それらの書物の入手先は大抵が闇市だというのだから困ったもんだ。俺は怒りを込めて魔術書の本棚を通りすぎた。どこか興ざめしちまったな。俺はそのまま玄関ホールを目指した。
最初の部屋である検索の水晶石が並ぶ部屋に舞い戻り、玄関を目指しているとふと人影が目に入る。ちらりと見ると、壁際にある本棚の隙間、検索の水晶石の前に立ち水晶石を操作しているであろう女が目に入った。
足元で揺れるロングドレス、肩には高級そうな光沢のある羽織り物。金持ちの婦女子がこんなところをうろつくとは、これも王都ならではの光景ってところか。
俺は反対の壁による。少し距離を取りながら、その女を通り過ぎる。そのとき妙な既視感。この光景をどこかで見たような、そんな一瞬の違和感があった。俺の右足は意図せず、その場で歩を止めた。ふと、女の背中を見つめる。気にしなければただの思い違い、本棚に囲まれた女の背中など、ただの背景に過ぎないはずだった。
もう一度俺が前に一歩踏み出そうとしたとき。
俺が向かっていた玄関ホールから、小走りに近づく男が見えた。老年の男は黒の外套を揺らしながら女に小声で呼びかけた。まるでひそひそ話でもするかのような吐息交じりの声で。
「……ルフナ様、いつまでこんなところで油を売っているおつもりです、もうお時間です」
ルフナ。その名は一瞬で俺の遠い記憶を激しく揺さぶった。
その名を聞いたとたんに女の背中はただの背景から浮かび上がりその意義を一変させた。耳打ちする老紳士にすいっと顔を向けた女の白い横顔。前につんと伸びた華奢な鼻筋は、年を経ても何一つ変わっていなかった。自分の鼻が高すぎて嫌い、そういってつまんでおどけて見せた彼女の記憶がよみがえる。そして、すべてを見通すような薄青の大きな瞳も健在だった。
どうしてこんなところに。
彼女は俺のかつての許婚。もとい、フィアンセ候補。
ルフナ・タルジア。タルジア伯爵家の美人三姉妹といわれた、その三女。
「ぐっ……ふっ………」
漏れたうめき声を押し殺そうと俺は慌てて自分の口元を押さえた。ルフナから視線を外すと、背を向けて一番近くの本棚と向かいあう。口を押さえつけながら、本棚に顔を上げて本を探すふりをする。胸元から押し寄せる鼓動の波に吐きそうになった。なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、この状況は。俺の後ろで再び小さな声でやり取りが聞こえる。
「もうそんな時間なのですか……ベイシェント……」
「そうです。ただでさえ、行程以外の場所にお立ち寄りしていることがばれたらワタクシめの首がとびます」
「そんな大げさな……」
「お、大げさなものですかっ。旦那様はルフナ様にはお優しいかもしれませんが、それ以外の者には鬼のように厳しいお方なのですぞ」
「はぁ……わかりました。急ぎましょう」
「さ、はやく……馬車にお戻りください……」
老紳士の説得にルフナはすぐに応じたようだ。二人の足音は俺の背中のすぐ後ろを通り過ぎていく。俺は本棚に目を上げて固まったまま、息を殺していた。二人の足音がほどよく遠のいたところを見計らい、俺はすっと顔を横にして、足音のほうに視線を向けた。
二人の背中はちょうど、玄関ホールの受付を通り過ぎていくところだった。そしてほどなく表の光の中に去っていった。俺は口にあてていた手を離すと、思いっきり息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す。
「はぁ~~~~~……それにしても、王都ってところは恐ろしい場所だ。いったい誰とかち合うか分かったもんじゃねぇ。にしても……」
なぜルフナがこんなところに。あの老紳士とのやり取りを聞く限りはすでに結婚でもしている風だったな。あの老紳士は確かに“旦那様”といっていた。いや“旦那様”といっても父親を指している可能性もあるか。ま、年齢からして結婚していてもおかしくはないし、あの美貌ならば引く手あまただろう。もしかすると、結婚相手の仕事の都合で王都にでも越してきたのかもしれない。そうだとすると“それなり”の結婚相手を見つけたようだ。
俺は、さっきまでルフナが立っていた水晶石にふと目をやった。その時水晶石の置かれたテーブルの上に小さく折りたたまれた何かを見つけた。俺は、慌てて玄関ホールに目をやるがルフナの姿はすでに見えない。慌て顔の老紳士が取りに戻りそうな気配もない。すでに発ったか。
俺は迷った末に、その水晶石のテーブルに近づいて、テーブルの隅に置かれたそのなにかを確かめる。ルフナに置き去りにされていたのは小さなハンカチーフ。薄い乳白色の生地の表面には細やかな花びらの刺繍。囲みはレース状になって透けている。俺はふと、おもいあたる。このハンカチ、どこかで見たことがあるような。
もしも俺の思っているハンカチならば、四隅のどこかに彼女のイニシャルが縫い込まれているはず。俺はゆっくりとそのハンカチを手に取り、恐る恐る開いた。
「まじか……」
ハンカチの端には、確かにルフナのイニシャルが縫い込まれていた。どうして、こんなものをいまだにルフナが持ち歩いているのか。このしなびたハンカチは、俺たちがまだ幼かったころ、ルフナが俺にくれた物だったのだ。
貴族の間にある古い風習だ。慕う人物に自分のイニシャルの入ったハンカチをわたし、常にそばにおいてほしいという心をその人物に伝える。そんな、古臭くて気恥ずかしい風習。
でも、かつての俺は彼女の思いにこたえることができなかった。子供のころから分厚いガラス瓶に放り込まれたような俺の心は、彼女の心を無慈悲にはじき返したのだ。だというのに。
俺は思わずそのハンカチを強く握った。記憶というものは色あせるはずなのに、彼女の記憶だけは鮮明に覚えている。
「ルフナ……君は、なぜこんなものをいまだに持っているんだ。臆病な俺が突き返したこの美しいハンカチを……」