呪具『おそれの黒指輪』
俺とキャンディが小声でぶつぶつ言いあっている間に向かい来る坊主男。
逞しく盛り上がった胸板を見せつけるように首元をはだけ、両の肩からせり出した地肌の腕は赤黒く野太い。
坊主男は俺の座るテーブルの真ん前に来ると、威嚇するように低い声をはりあげた。
「おい! さっきのうさぎはお前のか?」
「え? う、うさぎだって? 俺にはそんなもの見えないけどな」
俺はぴくぴくと不自然にはねる頬の筋肉でありったけの笑顔を作った。
坊主男は険しい表情を崩さず続ける。
射るような鋭く血走った目つき。
「さっき、お前の肩に乗っていたうさぎはどこだぁ!?」
坊主男は俺の席のテーブルをガンッ、と蹴り上げた。
次にずいっと俺の顔の真ん前に鼻先を近づける。ぷうんとにおうの酒の息。
坊主男は俺の顔を丸呑みしそうな勢いで大きな口を開く。
「おい、ふざけんじゃねぇぞ。お前、俺様の事を知らねぇのか?」
そんなことを言われても、見覚えのない顔。
坊主男は俺から顔をはなし、仁王立ちで腕を組んだ。
太い腕が段に重なり岩のような筋肉の塊になる。
その時、坊主男の後ろから連れらしき男が二人、左右から顔をつき出した。
嫌らしい表情でニヤニヤと俺を眺めるその姿は、絵に描いたような腰ぎんちゃく。
同じように二人とも丸坊主だ。そのうちの男の片割れが口を開く。
「このギージャ村の名士、エインズ王国宮廷魔術騎士団のダイダス様を知らんとはな。コイツぁ、じっくりと教育してやらにゃあならんな」
反対側から顔を出した片割れがそれに続く。
「ダイダス様、大剣をお持ちしましょうか?」
ダイダスと呼ばれた大男は酸い酒の匂いを振りまきながら、ぐはは、と不敵に笑った。
「おいお前ら、こんな奴に大剣が必要だと思うのか。こんな奴には、こいつで十分だ」
ダイダスはそういうと左手をパッと開き、ぐいっと俺の胸ぐらをつかんで引っ張り上げる。
俺は否応なく立ち上がる。あぁ、これ、一発殴られるコース。
しかし、宮廷魔術騎士団といえばエインズ王国の軍のなかでも特に選りすぐりの紋章師達が集まる精鋭部隊のはず。
こんなところで、昼間から安酒に飲まれている時点で、どうにも嘘くさい。
俺は素早くズボンの右ポケットに手を忍ばせて、中にある指輪を取り出すと左手の薬指にかざす。
この呪具を使うのは久しぶりだが、こんな場面で使うとは。
俺は呪詞(呪いの魔術を使う時の呪文)を口元で小さく唱える。
スキル『呪具耐性』の発動だ。
天地万物 空海側転
天則守りて
我汝の 掟に従う
御身の血をやとひて 赦したまえ
俺は小さく唱えた後、左の薬指に指輪をすっとはめた。
黒曜石の指輪。目玉のように真っ黒でまあるい石が怪しく光った。
呪具:おそれの黒指輪
効果:この指輪をはめて相手の目を見つめると相手の恐怖心を増大させる。
指輪をはめた人物が、相手にとって一番恐れている何かに見える。
俺はすっとダイダスと視線を交差する。
ダイダスは、嫌がるように不意に顔をしかめた。そして、しわを顔の中央に寄せて凄む。
「てめぇ! なんだその目は!」
銅鑼を打ち鳴らしたようなダイダスの腹からの大声が店内に響き渡った。
しかし、その直後、ダイダスはピタリと動きを止めた。
目を大きく見開き、一瞬ぶるりと震える。
次の瞬間、俺の目を見て悲鳴をあげる。
「う、うわぁあああああ!」
ダイダスはそういうと掴んでいた俺の上衣から手を放し後ろに一歩飛びのいた。
腫れぼったいまぶたを大きく見開く。ダイダスの顔は、次第に恐怖にゆがみはじめる。
この指輪は人の恐怖心を増幅させる不思議な呪具。
今、ダイダスの目には俺が奴にとって一番恐怖を感じる何かに見えているはず。
それが何なのかは奴にしかわからないが、どうやら効果てきめん。
ここまで効くとは正直思っていなかったが。
「どうしたんだい? ダイダスさん」
俺はそう言ってダイダスに一歩近寄る。
ダイダスはわなわなと震えながらさらに後ろに下がる。そして叫んだ。
「ひぃ! ひぃいいい! ママだぁ!」
ダイダスはそう叫ぶと、背をむけ一目散に逃げていった。
呆気に取られていた連れの男二人は、顔を見合わせると慌ててダイダスの後を追って店を出ていった。
騒がしい男たちを見送りながら、俺はふと考える。
「……いま、ママって言ったよなあいつ……」
あの狂暴な雄牛のようなダイダスの一番怖いものが母親なのか。
ふと、気がつくと、さっきまで騒々しかった店内は静まり返り、全員の顔がこちらを向いている。
俺は何故か小さく頭を下げ、自分のテーブルに戻り腰かける。
その時、店の奥の方から声が飛んできた。
「すげえぇ! あの兄ちゃん何もせず、ダイダスを追っ払いやがったぜ!」
その声を皮切りに店内がどっと揺れた。歓声が沸き上がり、方々から大きな拍手と指笛の音。
俺は気恥ずかしくなり席で縮こまる。
俺がすごいわけじゃなくて呪具が凄いだけなんだけど。俺はとりあえずやり過ごした。
安酒場での喧嘩など日常茶飯事。
皆ひとしきり騒いで飽きて、俺がナッツとスープを平らげるころには何事もなかったかのように店内は元通り。
皆、それぞれのテーブルで互いの話に夢中になっている。
それにしても待ち人は遅い。
自分で待ち合わせ場所を指定しておいて遅れるとは何事だ。護衛のランカといったか。
俺がテーブル上にある空っぽの丸い小皿をぼうっと眺めていると、横から白い手が伸びてきて、目の前にコトリとグラスを置いた。
手のひらサイズの透明のグラスに薄黄色の液体がとろりと波打っている。
見上げると、さっきの給仕の女がトレーを胸に抱いてにこりと笑った。
「さっきはありがとう、お兄さん」
「礼はコイツに言ってくれ」
俺はそういうと胸ポケットをぐいっと引っ張り、中が見えるよう体を少し傾けた。
女はポケットを覗きこむ。キャンディはすやすやと眠っている。
コイツは暇があれば朝も夜も関係なくすぐに眠る。
そのくせ、さっきみたいに急に起きていたりする。
キャンディを見ながら、女は不思議そうにたずねる。
「……これって、うさぎ?」
「まあね。ちょいと訳アリで」
「眠っているみたい。かわいらしいね」
「ま、見た目はね。中身はそうでもないさ。ところで、このグラスは?」
俺はポケットから指をはずして、目の前に置かれたグラスに目をやる。
「あぁ、これはわたしからのおごり。リンゴを皮ごと発酵させて、レモンと砂糖を混ぜ込んでつくったこの店の名物のリンゴ酒だよ、味見がてら飲んでみて」
「あぁ、ありがとう。じゃお言葉に甘えて」
俺は透明の小さなグラスをつまみ、口元にあてると一気に飲み干した。
程よい酸味とひやりとしたのど越し。ツンとしてうまい。
俺はグラスを給仕の女にかえした。
女は受け取ると、満足げにうなずいた。
俺は女にたずねてみた。
「あのさ、この店の看板に落書きされてるけど、あれ消さなくていいのかい?」
「落書き? あぁ……またか。多分ダイダスの奴よ。わたしがアイツの誘いを断ってから、事あるごとにこの店で嫌がらせをしてくるの」
女はそういうと、あきれたようにため息をついた。
「そうなのか。随分とイタイ奴だな。なんかアイツの連れがアイツの事を宮廷魔術騎士団っていっていたが、本当なのかい?」
「もとが抜けてるね。もと宮廷魔術騎士団よ。足を怪我をしてから十分な働きができず首になったらしくてさ。地元に戻って腐っちまってね。仕事もせずに昼間っから飲んだくれて最近は、あちこちで問題を起こしているわ。でも腕っぷしは確かだから、皆逆らえないの。まさにやりたい放題。確か『大剣の紋章師』だったはず」
「……なるほど、大剣の紋章師、か」
紋章師は大きく三つの系統に分けられる。ひとつは俺のような魔術師系、ふたつめは技術師系、そしてみっつめが戦士系だ。大剣の紋章師と言えば、近接戦に特化した戦士系の紋章師にあたる。
アイツが酔っ払っていて助かった。
下手すりゃ殴られるだけじゃ済まなかったかもな。
俺はテーブルをてきぱきと片付ける女の横顔に話す。
「しかし、困ったもんだねぇ。紋章をさずかった上に、あれだけ恵まれた体があるんだったら、宮廷魔術騎士団以外でも、仕事にはありつけそうなものだがな」
「ほんとにねぇ……ダイダスの奴、過去の栄光にすがってばかりさ。酔っ払うといつも、俺は王都にいた時アルグレイ・ベリントン陛下にお声をかけてもらった事があるんだぞって大声で自慢するんだもの。大の男がなさけないったらないよ」
「アルグレイ・ベリントン陛下か……はぁ、なんだか調子狂うな……」
勘弁してくれ。こんなところで父親の名前を聞かされるとは。
しかも陛下ときたもんだ。
アルグレイ・ベリントン。
ウル・ベリントンこと、俺の実父。
よく考えたら、俺って現状この国の王の息子、つまり王子なんだよな。
ちょいと訳があって”すでに死んでいる”ことにはなっているけれど。
女は俺のテーブルに並んでいた食器をトレーに乗せテーブルを丁寧に拭き終えると、ふとこちらに目をむける。
「あ、それにしても、お兄さん。さっきはいったいどうやってダイダスを追い払ったの? 突然逃げ出していったように見えたけど。その不思議なうさぎのぬいぐるみといい……あら、もしかしてお兄さんも紋章師なのかい?」
その時、人影。
そこに立っていたのは、俺の待ち人、ランカ。
ようやく来やがった。ランカは軽く頭を下げ口を開いた。
「お待たせして、申し訳ありません。それではすぐに参りましょう。夕刻までにはリゼ様の待つルルコット城下町へ着かねばなりませんので」
どこか控えめで澄んだ声。
そういえば、この男の声を聞いたのは初めてか。
前に会った時は一言も話さなかった。
俺は給仕の女にお代を渡すと、ランカに続き店を後にした。