2.ながめの丘
見晴らしのいいその丘は、ヘカッテのお家から美しい天然の迷宮を抜けた先にありました。
その場所は知っていたのですが、いつもひっそりとした空気のただよう美しくもはかなげな場所だったので、その日の賑やかさにヘカッテは驚いてしまいました。
集まったのは妖精の国ランプラの住民だけではないと聞いていたものの、いざ目にしてみれば圧巻の人数でした。悲しげな表情をした亡霊も、いたずらが好きそうな小鬼たちも、みんなわくわくしながら集まって空を見上げていたのです。
さらには屋台まで出ています。売られている食べ物や飲み物は、ヘカッテがいつもカロンに見守られながら作る一人分の手料理と比べて、とてもにぎやかでキラキラしたものばかりでした。
ついつい何か買って食べたくなるところですが、ヘカッテはぐっとガマンしました。お家に作り過ぎてしまったカボチャのスープが待っているからです。
それでも、おいしそうなニオイと楽しい空気に包まれたその場所は、いるだけでも楽しくなってしまうものでした。それと同時に、ヘカッテは懐かしく、そして少しだけ寂しい気持ちにもなりました。小さい頃に参加した故郷のお祭りの雰囲気に似ていたからです。
さて、しばらく経つと、ながめの丘にいた小鬼のひとりが指さしました。それにつられてヘカッテたちも見上げてみると、ぽつりぽつりと雨が降り出すように、流れ星が振ってきました。
これを読んでいる皆さんは、流れ星を実際にその目で見たことがありますか。ないという人はもちろん、あるという人も、きっとヘカッテが見上げている流れ星ほどカラフルなものは見たことがないかもしれません。そのくらい不思議な星々が、ヘカッテたちの頭上を流れていったのです。
あまりに美しく、あまりに鋭く、それでいてはかない光の矢。ヘカッテはすっかり夢中になって、星を見つめ続けていました。
しばらく見上げていると、ヘカッテが腕に抱えていた鳥かごの中で、メンテが急に歌い始めました。美しい光景に楽しくなって……というわけではありません。この度のメンテの歌は、異変を伝えるものでした。その音を聞いて、ヘカッテはすぐに気づきました。流れていた星の一つがよろよろと軌道をそれて、大地へと落ちていこうとしていたのです。
星が落ちてくる。
事態に気づいた者たちは、ヘカッテを含め誰も彼もがぼうぜんと見ている事しか出来ませんでした。やがて、耳が壊れてしまうような大きな音と衝撃が生まれ、夜だというのに激しい光が辺りを包みました。
それはまるで世界の終わってしまうかのような光景でした。
けれど、ご安心ください。世界は終わりませんでした。
光が弱まると、ながめの丘の下に広がる平原がぼこっとへこんでしまっていました。どうやら被害はそれだけのようで、人も妖精も小鬼も動物も魔物も亡霊も、誰も彼もが無事でした。
「わあ、驚いた」
「こんなことってあるんだ」
モルモとラミィがあぜんとした様子で呟く横で、カロンがぬいぐるみらしいボタンの目を光らせ、星の落ちた場所をにらみました。
「何かいるみたいだね」
彼の言葉にヘカッテも気づきました。
粉々に砕けた流れ星の影からひょこっと顔を出したそれ。どうやら、小鬼たちによく似た生き物でした。けれど、この辺りの小鬼とは少し違います。黒いたてがみに一本角。そして、先っぽが三角に尖った細い尻尾。おまけにその背中にはコウモリのようなつばさがあります。
ここまで書けば、これを読んでいる皆さんの中にも、この正体が分かるひともいるかもしれませんね。
そう、その生き物は多くの人が想像する悪魔の姿をしていたのです。
ヘカッテたちにとっても、それは同じでした。どう見ても悪魔のような生き物が、流れ星と共に落ちてきた。そのことは、迷宮のひとびとにとって、眉をひそめてしまような出来事でした。
小鬼も、亡霊も、魔女もいるような月夜の世界ではありますが、そうであっても悪魔というものはあまり歓迎されません。なぜなら、悪魔は悪魔。他者に災いを引き起こしてしまうからです。
魔女は魔法を悪い事に使う人もいますが、良い事に使う人もたくさんいます。小鬼や妖精はイタズラ好きが多くいますが、その大半は加減というものを知っています。亡霊や魔物たちは見た目こそ恐ろしいのですが、そのほとんどは誰も傷つけずに静かに暮らしています。
ところが、悪魔は違うのです。悪魔と呼ばれるものたちは、独特の価値観をもって暮らしていたので、多くの人にとって迷惑をこうむってしまうこともよくあったのです。
ですので、たとえ言葉は通じたとしても、迷宮をうろつく数多の怪物たちのように警戒されてしまっていたのです。
この度はその上、この悪魔のことをよく知るひとが大勢いました。
「なんてこった、フォベトールじゃないか」
小鬼の誰かがそう言うと、周囲にいた者たちは一斉に悪魔を見つめました。そのまなざしに含まれるとげとげしいものを感じ、ヘカッテは戸惑ってしまいました。モルモとラミィはヘカッテの様子に気づくと、そっと耳打ちをしました。
「悪魔の少年だよ。立派な大人になるための修行中らしいわね」
「フォベトールっていうの。関わった人に不幸をもたらす悪魔なんだって」
「だから、皆、あんまり近づきたがらないの」
モルモとラミィの言葉を受けて、ヘカッテもまた不安になりました。
ヘカッテがひとり立ちをするにあたって両親に言われてきたことが、悪魔に気を付けなさいという忠告でした
悪魔は取引次第で色んな力をさずけてくれます。けれど、その力を手に入れる代わりに、多くのひとびとは大切な何かを失ってしまいました。
生まれ持った力を自分で育てて才能を引き出すことと、悪魔の取引で無理矢理偉大な力を手にすることは全く違います。機械を無理に動かすと故障してしまうように、悪魔の取引で特別になったひとびとは、早いうちに悲しい末路をたどるといわれていたのです。
星と共に落ちてきたフォベトールもまた、そうした悪魔の一人のようです。
そうなれば、警戒しない理由なんてありません。
「早く飛び立ってくれないかな」
近くにいた名も知らない妖精の少年が腕を組みながら呟くのを耳にしながら、ヘカッテもまた同じような思いを抱きながらフォベトールというその悪魔を見守っていました。
ところが、フォベトールはいつまで経ってもそこを離れませんでした。見ている限り、離れようという意思はあるようです。けれど、粉々になった星を前に何度か力を発揮しようと力んでは、うずくまってため息を吐いてしまうのです。
しばらく見つめているうちに、ヘカッテはある事に気づきました。どうやらあのフォベトールという少年は、怪我をしてしまっているようです。
ヘカッテはどうしても気になって、隣にいるカロンに声をかけました。
「ねえ、カロン」
「ああ、怪我をしているようだね。悪魔とはいえまだ子ども。魔法で星を治そうとしているようだが、痛くて集中できないのだろうね」
「どうしよう。お家にある薬なら、悪魔にも効くんじゃないかな」
けれど、相手は悪魔です。関われば不幸を招かれてしまうかもしれません。
悩むヘカッテに対し、メンテはポロロンと竪琴の音で声をかけ、カロンもまた腕を組みながら言葉をかけました。
「そうだね。前に読んだ図書館の本には『いかなる場合も、悪魔に関わってはいけない』と書かれていた。私としては、このまま見守っておくことをオススメしたいね。だが、決めるのはヘカッテだ。君はどうしたい?」
「わたしは──」
呟きながら、ヘカッテはフォベトールの様子を見つめました。
ひょっとしたら、その怪我は酷いのかもしれません。気づけばフォベトールは涙目になっています。その様子は彼が悪魔であることを覚えていたとしても、胸が痛むものでした。
「わたしは、困っているのなら助けてあげたいかも」
「そうか。なら、そうしなさい」
カロンに言われてヘカッテが頷くと、二人の様子に気づいたモルモとラミィがあわてて口を挟みました。
「ちょっとちょっと、誰を助けるって?」
「駄目だよ、ヘカッテ。不幸になっちゃう!」
ふたりの言う事はもっともです。ヘカッテは困りながら、うんと考え、心配するふたりに対してどうにか返答しました。
「でもほら、お手紙には『良心を信じなさい』って書いてあったし」
すると、モルモとラミィは顔を見合わせ、悩ましそうに首を傾げました。やがて、モルモの方が先にヘカッテに言いました。
「それを言われちゃうと、何とも言えないわ」
続いて、ラミィも頷きます。
「そうね。でも、ヘカッテ。せめて、今はやめておきましょう。悪魔にだってプライドっていうものはあるもの」
「むしろ、プライドのかたまりなの。お祭りが終わって皆が帰ってしまうまで見守って、その後も困っているようだったら声を掛けましょう」
ふたりの言葉にヘカッテは頷きました。
それからしばらく経って、流星群は見えなくなり、お祭りはお開きとなりました。屋台も次々に片付けられていく中、集まっていたお客さんたちが帰って寂しくなる頃に、ヘカッテは再び星の落ちた辺りを眺めました。そこにはやっぱりフォベトールがいます。魔法を使うことをすっかり諦めて、頬杖をついて座っていました。
ヘカッテはそっと丘をおり、フォベトールに近づいていきました。カロンもそれに続き、モルモとラミィも勇気を出してついてきてくれました。
「ねえ、フォベトール。ちょっといい?」
ヘカッテが話しかけると、フォベトールは驚いたように振り向きました。
固まったままの彼に、ヘカッテは言いました。
「足を怪我しちゃったみたいだけど、大丈夫? もしよかったら、わたしの家にあるお薬を試してみない?」
フォベトールは何も言わず、じろじろとヘカッテを見つめていました。
けれど、ヘカッテの正体を見抜くと、軽くにらみつけながら言いました。
「なんだ、魔女か。新しい薬でも売りつけに来たのか? あいにくだけど、オレはカネも宝石も持ってないぜ」
「お金も宝石もいらないよ。ただ困っているみたいだったから」
ヘカッテは言い返しましたが、フォベトールはぶんぶんと悪魔の尻尾を振りました。
「ふん、困ってなんかないよ。たとえ困っていたとしても、手を借りたりするもんか。悪魔は悪魔らしく、ひとりでたくましく問題解決するものなんだぞ」
ふてくされているフォベトールを前に、モルモとラミィはあきれたような顔で見つめ合いました。ヘカッテもまた何と声をかけるべきか迷ってしまいましたが、そこへカロンが助け舟を出しました。
「なるほど、いい心がけだ。君はきっと立派な悪魔になるだろう。だが、かしこい悪魔は人の善意を利用するものでもある。怪我に良い薬をただで使わせてもらえる機会なんて逃さないだろうね」
カロンの言葉にフォベトールはムッと唇を結びました。
そこへ、カロンは追い打ちをかけました。
「それに今なら、作りすぎてしまったカボチャのスープが待っている。温かいスープだ。私はぬいぐるみだから食べたことはないが、ヘカッテが食べているところを見るに、きっとすごくおいしいのだろうね」
「カボチャのスープがなんだい!」
フォベトールは口をへの字にしましたが、カロンは冷静にたずねます。
「カボチャは苦手かね?」
「苦手じゃないやい!」
けれど、強がったのも束の間、フォベトールのお腹からはぎゅるると音がなったのです。つまらなさそうな表情をする彼に、ヘカッテはそっと声をかけました。
「もしかして、お腹が空いているんじゃない?」
「だったらなんだよ」
「作り過ぎちゃったスープも、早く食べないとダメになっちゃうの。だから、温かくておいしいうちに、もしよかったら食べてくれないかな?」
ヘカッテの誘いを受けて、フォベトールはしばらく黙っていました。
不機嫌そうな表情のまま頬杖を突き、夜風にたてがみをなびかせてじっとしていましたが、やがて、低い声で返事をしました。
「しょうがないなぁ。そこまで言うなら食べてやるよ」