12.教会へ
『お母さま。お母さまは寂しくないのですか?』
『皆のためだから、何も寂しくはないの。この地から頂いた命をこの地に還すだけよ。神の身許に還るのは幸せなこと』
『怖くは、ないのですか?』
『怖くはないわ』
『私は1人になりますね』
『……そうね。あなたを残していくのが、少しだけ怖いかもしれない』
『あの人はどうするのですか?』
『あぁ。あの人は大丈夫よ』
そう言って、母は笑った。
母が生きていた昔のことを思い出した。城塞で、暮らしていたときのことだ。
母が生け贄になる少し前のこと。めったに思い出すことはなかったのに。
フローラは白砂が敷き詰められた通路を走り抜けた。顔のベールが風になびいて、飛びそうになる。
それを抑えながら、急いだ。心まで風に飛ばされそうだ。
ここは教会の中でも限られた者にしか使用できない道だった。今は誰もいない。
でも、この顔は誰にも見せられない。ベールすら取ることもできない不自由な身だ。一刻も早くこの衣装を脱ぎ捨てて、何でもないただのフィオに戻りたかった。
「フローラ」
「アオレオーレ」
呼び止められ振り返ると、そこにはある男がいた。先ほど、隣にいた男だ。
おじ様と呼ぶべきだろうか。それとも司教と呼ぶべきだろうか。昔はあの人と呼んでいた。……お父さまとは死んでも呼べまい。
だから、アオレオーレと呼ぶ。母が時々そう呼んでいたように。
彼はフィオーレの父親である。フィオは、生贄と神の血統を持つ異端児なのだ。血のつながりを普段意識することはないが、自分の複雑な生まれをどう扱って良いか迷うことはある。
「急に参加すると言ったと思えば、勝手な行動か。お前の役目は、そう簡単なものではない。やはり、別の代役を立てた方が良かったのではないか」
「お言葉ですが……」
代役はそう簡単に務まるものではない。
不安を抱える人々の眼に耐え、声を聞き、言葉でなく応える。身を清め、身動きも自由に取れないような正装をして、動かぬ人形のように佇み続けるのだ。自分の人格は必要ない。女神の象徴であれば良いとされる。
イグナシオだからこそ、それが出来た。身体の弱いフローラには務まらなかった。たとえ、他の誰であっても、シアのようには出来なかった。
「私は、本来の私の役目を全うしました。その上で知りたかった事を聞いたのです。それに、私はイグナシオ以外の代役を立てるつもりはない」
「神への望みを問うて、一体何が知りたかったのだ?」
「私がやがて救うことになる、皆の行く末を」
私がいない世界で、人々がたどり着く未来を知りたかっただけだ。
……神を信じ、自らの一生を捧げる彼らが、自分の人生をどう見定めているのかを考えたかった。
フローラは、アオレオーレの顔を見ようと目線を上げた。彼の身長は高く、顔を上げなければ目線が合わないのだ。ベールが邪魔をして、表情も読み取りにくい。
「私の順番はいつ来ます?」
「……死にたがりだな。全く誰に似たのやら」
「死にたがっているわけではないです。私にはしなければならないことがあるので、時期を見極めたいと考えているだけですよ」
「まだ、待て」
待てと言われたことが意外だった。
教会側は一刻も早く、魔物たちを沈静化したいわけではないのだろうか。そのために、フローラをここに呼んだと思っていたのに。
「私は体が弱いので、子を残すことも難しい。精進潔斎も長く続けております。他の娘はまだ若い。もう時期は来ていると見てもよろしいですか」
「……」
アオレオーレは険しい表情になり、「つまらんところが本当に似ている」と繰り返した。顎を撫でている。答える気はなさそうだ。
しかし、フローラもイグナシオを助けるまでは、自分の身を犠牲にするつもりはなかった。待てというのは彼の気まぐれなのか、それとも何らかの意味があるのか。フローラは考え続けた。
……アオレオーレは自分の死でさえも他者を幸せにする道具だと利用してしまえる、彼女たち一族のことをつまらないと言ったのだが、それは彼女には分からなかった。
父親である彼が母のことを愛していたがゆえの発言であったこと。そして、彼女を娘として想っていたこと。
それが分かっていれば、このあとの悲劇も回避できていたのかもしれなかった。
♢
「大物の仕事の依頼だ!」
小屋に帰ってきたライアンは、大声でそう叫んだ。
ルークは、驚いて顔を上げた。その手には葦で作られたペンが握られており、何やら描いていたようだった。床には筆が散らばっている。
「いらい?」
「依頼だよ、依頼。お前には小物にしか触れさせてこなかったからな、一度古巣に戻って、仕事を貰ってきたんだ」
ライアンはしばらくの間、小屋を留守にしていた。それというのも、ルークに新しい仕事を与えるためだった。
彼は弟子として、様々なことをルークに教えた。働かせているばかりではなかったのだ。
ルークは思ったよりも優秀で、一度教えたことは忘れなかった。指示を与えなければ、日がな眠っていたが、指示を出せば到底一人では出来ないような作業も軽くこなした。教育面では優秀な教師がいたようで、基礎はしっかりと固まっていたので、画法や史学を教えるのも苦労はしなかった。
特に、技法の真似がうまかった。目の前で描いて見せれば、どんな絵でも同じように描くことが出来た。……だが、感情がその絵にはこもっていなかった。ルークは、ただ描いた動きそのものを繰り返していただけだったのだ。同じ画材を用いて作られたそっくりな模写。それだけだった。
抽象的な表現を描かせてみようとすると、筆は進まないのも問題だった。
ライアンが求める画家の能力を身につけるのは難しいかもしれないと、諦めそうになったが。
それではもったいないとライアンは考え直した。
それというのも、ルークは空間を俯瞰する能力が異常に優れていて、まるで透視しているかのように小屋の内部構造まで描き出すことが出来た。植物や小さな虫まで、大きく拡大して描くことが出来たのだ。実際に見た物質を忠実に描くことが出来ると言う点では、ルーク以上の能力を持つ人物はいないのではないかと思ったほどだった。まるで魂がそこに閉じ込められているのではないかと考えるほどに、正確な絵だった。模写とは違った恐ろしさと深みがあった。
これでもし、想像力を身につけることが出来ればと思ったのだ。現状も、寸分狂わず絵として映し出す能力を生かせないわけではなかった。
ルークに感情がないというわけでもない。しかし、その表現の仕方を知らないのだ。
それならば、その感情を動かしてみせるとライアンは考えた。
ということで、仕事である。ライアンは性格は良くないが、絵だけは人の心を動かすことが出来る。
『俺の専門は大物だからな。俺のすごさを見せてやる』
そう言い残して、小屋を出て行き、古巣にまで行って戻ってきたのだ。
ライアンは仕事部屋で、椅子に座り、絵を描いていた様子のルークの後ろに腰掛けた。
「何描いてたんだ?」
「師匠が描けって言ってたやつ」
ライアンが留守の間に何か描いてみろと言ったのだ。忘れていた。
「おう、偉いな」
絵を見つめてみると、そこには白と黒の波のような濃淡があった。
これはライアンの描き方だった。貧しくて、顔料を重ねて描く画法が使えなかった時、思いついた技法だった。これなら、光と影を表すだけで、感情が生まれる作品を作れると思って作ったもの。原初は光と闇で出来ていたのだから、色とりどりでなくともいいだろうと。
ルークが描いたのは、葉っぱがひらひらと空に上がっていく様子。逆からのぞき込んでしまったかと思ったが、地面から樹が生えているのを見ると、この向きで合っている。
風になびいて浮かび上がっている絵を描いたわけでもないようだ。色はなく、その樹は一本だけだ。
「なんで、逆さまになってるんだ?」
「……一番よく見てた光景」
ルークが自分の想像で、絵を描いたことはまだない。つまり、これは実際に見た光景と言うことだった。
「空でも飛んでたのか?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど。ずっと、ここにいたから」
「んじゃ、寝てたんだな。寝ぼけ眼で見てた訳か」
「うん、寝てたね」
平気そうな顔で、よくもまあそんなことを言えたものだ。
ライアンは、そういえば、この男は川から流れてきていたのだった。この構図的に考えると、土の中に逆さまに埋まっていてもおかしくはない……だろう。なんせ、発見したときも、似たような状況だったから。
そもそも、なぜ川から流されてきたんだ。改めて、その点は尋ねておくべきだろうか。
「おまえ、他にも忘れてることがあるんじゃないか」
「……あ」
「あ?」
「そういえば、僕、シアに助けてもらって。逃げてきたんだ」
シアとは誰だ? 逃げてきたというのは、何からだ?
ライアンは突然降って湧いた情報に、嫌な予感がした。
「火事が起きて、シアが逃げろって。人間として生きたいなら、かまわずに逃げろって」
ルークはそのときのことを思い出すように、頭を抱えた。長い長い絹の髪がふわりと舞い、瞬く間にぐしゃぐしゃになった。それはルークの動揺の大きさを示していた。それほどに、そのシアという人物が大事なのだろう。
「ライアン、どうしよう?」
初めて見せたルークの困った表情。眉をほんの少し歪めただけだったが、表情だった。
自分は一体どうすれば良いのか、指示を求めている。
「そのシアとやらは、どこにいるんだ。それさえ出来れば、現状を調べることも出来るぞ」
「……中央市の南、貧民街に入る前の施療院にいたけど。たぶん、燃えてしまっているのかも」
「都市か、ちょうど良い。これから仕事のために、都市の教会に戻らなければいけない。そのときに、そこの状況を確認してみよう。俺の方でも情報を集めておく」
この小屋から出て、教会に戻ろう。
もっと隠居しておくつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。
ライアンはその前に、この男を変装させなければいけないなと思った。
このキラキラした見た目じゃ、外を歩けない。




