4.フィオの心
愛というものは、人と人が与えられる信頼関係のようなものでしょうか。相手に優しくしたい、相手を幸せにしたいと思う心の糧でしょうか。優しさを受け入れる心の有り様でしょうか。与えられたものを未来に繋いでいくものでしょうか。
ーー愛とは何なのでしょう。
皆を愛しています。この世界に生きるすべての人たちが幸せになってくれればいいと思っています。人の優しさを信じています。自分がいなくなっても、皆が幸せな世界を思い描くだけで私は幸せです。
幸せになってくれるなら、自分の全部が無くなってもいい。どうか、どうかあなたに、私の愛する皆に、幸せがありますように。
与えられた愛を返しましょう。役立たずの自分でもできることがあるのですから。
それが生贄の一族の心の真実。
理解されようとは思わない。自分の選択一つですべてを幸せにできるなら、フィオはすべてを捨てる。
自分の欠けた未来が、母の欠けた世界のようになってしまうのは嫌だけど、そう思うのだ。
♢
「ルーク!」
ーーやっと見つけた。
林の影の中、誰も気づくことのないくらい隅の木と木の間。そんなところに顔を俯けて座り込んでいる彼がいた。
静かにゆっくり顔を上げたのは、神話に出てくる神のように美しい人。闇の中、長い髪は少しの光源を反射して絹糸となる。真っ赤な瞳は人とは違うが、表情が純粋過ぎて、恐ろしさなんて少しも感じなかった。
自分が名前をあげた最初の頃は、名前に馴染めなかったみたいだけど、今では大きな声で呼べば、気付いてくれた。自分がルークなのだと受け入れてくれている。ルークが成長していることを実感した。時には笑みを見せてくれることもあって、それがすごく嬉しかった。
「こんなところにいた」
シアが無理やり動けと言ったことに不満を持ったのか、ルークは隠れてしまった。知らぬ間にいなくなり、影も形も無くなって、驚いたこと驚いたこと。
彼の隠された力に夢中になり、色々と無茶ぶりをしたので、そのまま嫌になって孤児院から離れてしまったのかと思った。しかし、そこまで遠くには行っていなかったようで、すぐに見つけることが出来たから良かった。
「ごめん、嫌だったのだろう。二度と強要しないよ」
樹々の間に座り込んでいた彼の横に、フィオも座り込む。広い肩に自分の頭を預けた。
不思議そうに、彼は自分を指差す。ざわざわと濃い気配がフィオとルークの間に漂って、一つに交わって溶けていく。眼には見えない。しかし、実感として溶け合う何かがあった。本当に不思議。
「混ざってるね」
「……混ざってる」
体がどんどん楽になっていく。きっと彼がフィオの痛みを吸い取ってくれているのだ。それと反比例するように、ドキドキとした苦しさも増していった。ムズムズしながらも、彼のそばに居たかった。落ち着きのない、感じたことのない感情。
ずっと溶け合う感触を味わっていたくて、彼の指に手を重ねた。ルークはそれを受け入れることも拒否することもなく、そのままにしてくれた。
「ルーク、そばにいて欲しいんだ」
「……」
彼はきっと魔物でもなく、人でもない別の存在。初めて見たときからそう感じていた。
言うなれば、ほんとうに神様のよう。彼が隣にいると体が楽になり、気持ちが高揚する。出来ることなら、ずっとそばにいてほしい。自分が生贄になるその日まで、隣でうたた寝していて欲しかった。
でも、その時間はそんなに長くはなさそうで、残念だった。
♢
特別な奴隷で、国に管理されている生き物。
それがフローラ・ルーク・サクリファイス。
性別は女だけど、「フローラ」はシアが代役。生来から体が弱く、「女」ではフィオは生きていけないから、「男」として生きている。そのようにして、ずっとフィオは守られてきた。きっとこのまま、女に戻ることはないのだろう。
やがては、生贄となる。これは決められた人生。身を捧げることに疑問はなかった。自分が死んだあとは、シアがすべてを守ってくれる。
フィオが犠牲になれば、みんな生きていけるのだ。母が笑って自らを捧げたように、いつかは魔物に身を捧げる。そして、ちゃんちゃん。みんな幸せになれます。
フィオは大して美しくもないし、体も強くない。皆に助けてもらって何とか生きている。優しさのおかげで、こうやって幸せに生きることができた。
だから、皆を救うために生贄になることは愛に報いる方法だと思っていた。
でも、時々悲しくなる。自分がいなくなった後は母の居なくなった自分のように、皆は喪失感に苦しむのかもしれない。
だから、イグナシオの言葉に従った。地下通路につながる道を掘って、この国から抜け出すために。でも、それは現実的に叶うことじゃないと分かってはいたけれど。
ーーそこで、ルークに出会った。
土の中で丸まっていたかれ。
直感で分かった。私はこの人に恋をする。
そして、どんどん惹かれていった。
不思議なルーク。何にも知らないのに、誰も知らないことを知っている。いろんなことを彼に教えてもらって、フィオも彼に教える。
時間を、日々を重ねる。
「シモーン、汚れた服で暴れない。ポール、何してるんだ。具合が悪いなら寝ていなさい。カタリナ! ノア! ステファン! ルークをいじめてはダメだよ」
「うええ、フィオ〜。だって、着替えが」
「残った仕事しなきゃ……」
「「いじめてない」」「こいつが悪い」
「分かった、分かった。みんな、おいで」
可愛い子どもたちと触れ合い宥めて、汚れた洗濯物を洗いに向かう。
「フィオ、私がやる」
シアにカゴを奪われる。隣に並ぶと、いつのまにかシアは、フィオよりも少し身長が高くなっていた。あんなに小さかったのにと少し感慨深かった。しかし、それだけ月日が経ったということだった。
「あのバカも片付け手伝わせればいいのに」
「子どもたちの相手をしてくれるだけで、充分だよ」
「相手というより遊ばれてる」
「……あはははっ、そうだね。遊ばれてるかも」
彼はいつも予想がつかないから、見ていて面白い。今さっきは、子どもたちに追い詰められて天井に宙吊りになっていた。見事なまでの筋力で、壁と壁に足をかけていて、目があった時はビックリした。彼は本当に突拍子のないことばかりするんだ。笑わずにはいられない。
「……けほっ、げほっ」
笑っていたら、口から血が出てきた。内腑がやられているようだ。
ーーあ。
目を見開いて、シアがフィオを見つめる。
「……大丈夫だよ、シア。まだ死なないよ」
「死なないとかじゃ「僕が死ぬのは身を捧げる時だから、心配しなくていい」
「……っ」
時間が近づいていることに気づいているのに、目を見開いた彼は現実から目を逸らそうとしている。でも、ダメだよ、シア。僕が身を捧げれば、それは君の功績になる。誰かじゃない、君がそれを得るんだ。そして、君が子どもたちを守ってくれ。 「フィオ」がいなくなったら、どうか僕をーー「フローラ」の秘密を知る君があの子たちを助けてやって欲しい。
ーー僕は必ずいなくなるんだから。
そんなふうに孤児院で子どもたちと勉強をして、施療院に来る人々の治療をし、喧嘩をするシアを宥める日々を重ねた。時には、魔術の勉強をルークに教えてもらい、自分の属性の力を引き出せるのか、それを利用して魔法を使うことができるのか。魔術の力を最大限に発揮するにはどうすればいいかを考えて、試行錯誤して、楽しく過ごした。
なんていう幸せな日々なんだろう。でも、時間はもうない。その日がやってきてしまった。
教会の人間がやってきた。遊んでいる時間はもうない、この孤児院にはもう戻れないと告げた。
ーー自分は教会に戻ることになったのだ。精進潔斎をして、身を捧げる準備をする。母の残してくれた時間はもうなかった。孤児院のみんなとも、親愛のキスをして、さようならと告げた。泣き喚くあの子たちと悲痛に顔を歪めるシアに、精一杯の愛情と別離を込めて。
そして、自分の最後の思い出に、彼ともキスをした。名を告げられない自分のミドルネームを名付けて、きっといつか思い出して欲しいと思って、赤い唇に自分の唇を重ねた。
フローラ[Flora]。花の女神フィオーレ[Flore]を人の名に変えて、名付けられたもの。
花を綺麗だと言ってくれた時、自分も綺麗だと言ってもらえた気がした。花畑を見せてあげるという約束は叶えられなかった。
ーーね、ルーク。好きだよ。
名を告げようとして、躊躇った。彼は覚えてくれるだろうか。そもそもフィオに興味はあるのだろうか。
彼は今も不思議そうな顔で、こちらを見ているだけなのだ。すごくためらった。自分のこの恋という感情が、彼にとってそもそも成り立つものなのかという疑問が湧いたからだ。
「じゃあね」
結局、死に別れることになる自分の名をルークに伝えても苦しみを増やすことになるんじゃないかと思って、というか意気地無しになってしまって、自分の名前を告白することはできなった。
それからの教会での毎日は、無味乾燥だった。
「あなたが犠牲になって下されば、皆が救われます。あなたにしかできぬことなのです」
「はい」
「あなたが生け贄になってくださらなければ、他のものが一時しのぎの贄となってしまいます。あなたでなくてはこの世界を救うことはできません。どうかどうかこの世界のため、その身を捧げてほしいのです」
聞きなれた、生け贄になるための心の有りよう。あなたが生け贄にならなければ他のものに影響がある。どうか世界のために。
自分が生け贄になる。それは決定事項だ。けれど、こんな風に見え透いたことばばかり聞いていると、真実とはなんだったのだろうと思うのだ。
そして、教会では自らが花の生け贄になるために潔斎することが仕事になった。
子供たちと無事に別れ、ルークが魔物であることを誰にも知られず、しっかりと後処理もした。もう、あとは身を沈めて、彼らの幸せを望むだけだったはずなのに。
あんな悲劇が起こるなんて思っても見なかった。
フィオが離れてしばらくして、孤児院は焼かれ無くなった。子どもたちも巻き込まれて死んでしまった。
ルークは行方が知れないらしいが、魔物に襲われたと教会の人間たちが言っていた。孤児院の子供たちも魔物に襲われたのではないかと。
「……シア、どうしてこんなことに」
真っ青な顔で、シアに問いかけた。答える声はなかった。彼も大怪我を負って、意識不明になってしまったから。




