第4話 再就職先は異世界だった
「はい、確かに署名捺印いただきました。では、本日より、勤務開始ということで本当によろしいですか?」
心地よい……アルトというのだろうか、そんな声が斉藤五郎の採用を告げる。
「はい! よろしくお願いいたします!」
五郎は年老いた現在の見てくれに似合わないハキハキとした声で、新卒者のように応える。
定年を迎え、年金の受給が開始されるまでの間、糊口を凌ぐべく再就職しようと手当たり次第に面接を受けること二か月半で68回。
中々再就職先が決まらず難儀していたのだった。
が、69回目にしてようやく採用に至り、心の中でガッツポーズを取っていた。
「ただ……」
採用が決まったはいいのだが、気がかりはある。今日から早速の勤務にも問題はない。
無論、給与に関しては、向こうが真っ先に提示してきたので問題はなかった。
その気がかりとは任地と通勤方法だ。
面接を受けている間、気にはなっていたのだが、収入を得るため、背に腹は代えられぬと、五郎にとってかなり重要な事項であるそれを確認するのを後回しにしていたのだった。
雇用契約が成った今なら聞ける。
(事ここに至って、解雇にはなるまい)
そう思い、五郎は気にかかっていたことを聞く決心をしたのだった。
「ただ?」
五郎の目の前であどけなさが残る顔を傾げる紅く日焼けした髪の毛の美女はその蒼く大きな瞳をきょとんと見開いた。
彼女は五郎が再就職の面接を受けた会社の採用担当者だった。
彼女の容貌からして、きっと、この会社は外資系なのだろうと五郎は思っていた。
今どき珍しくもないことだ。
だから、採用担当者が赤毛の外国人の女性でもなんの不思議もなかった。
不思議はなかったが、面接をしている間中、彼女が繰る日本語の流暢さが、そのエキゾチックな外見と著しく乖離していたことに五郎は不思議を感じていた。
(最近の若い日本人よりも正確な発音と語彙力だよなぁ)
そんなふうな感想を持っていた五郎は、彼女の美しさに見惚れてしまい、面接会場の異様さを完全に見落としていたのだった。
今更にして思えば、面接会場に一歩踏み込んだ途端に、会場の一番奥に鎮座していた彼女に目を奪われ、視野狭窄に陥っていたとしか考えられない。
五郎が視野狭窄などとは、これまでの彼の人生を振り返ってもあった試しはなかったが、彼女のそれこそ異常な美しさに心を奪われていたのだろう、視野狭窄に落ちいていたことに気が付かず、トントン拍子に採用が決まり、雇用契約書に署名捺印したところで、この面接会場の異様さに、ようやく気がついたのだった。
「こ、ここは……なん……と!」
署名捺印して、採用担当者に、任地などの質問をしようとした五郎は、突然に視界が広がったような感覚に襲われ、同時に飛び込んできた視覚情報に混乱した。
そこは、五郎がその生涯で一番辛い経験をした教室にそっくりだったのだった。
と、いうか、五郎の記憶の中からあの教室の情景を抜き出して再現したのではないかと思うほどにリアルだった。
「どうかなさいました?」
「い、いえ、何でもありません」
「では、ご質問の続きをどうぞ」
流暢すぎる日本語で採用担当者の外国人女性が、五郎に質問の継続を促す。
だが、五郎を囲んでいる風景に圧倒されて、五郎の言葉は中々に口から出てこようとはしなかった。
採用担当者が背にしている教壇と黒板、五郎が座っている席の机椅子……。
何もかもがあの教室そっくりだった。
五郎はあの教室で学んでいた間、精神的にも肉体的にも極限まで追い込まれ自殺さえ考えていた。
今となっては懐かしささえ感じるが、あの当時はまさに生き地獄そのものだった。
「あの、いくつか質問したいのですが、よろしいでしょうか?」
蘇ってきた過去のおぞましい記憶に吐き気を覚えながら、五郎はようやくにして言葉を紡ぐことができた。
「はい、どうぞ」
天から降って来たようなよく通る声で小麦色の肌の面接担当者が応える。
「まず、この場所ですけど……この、昔の学校の教室のような内装はいったい?」
五郎が面接会場だと通知され訪れたのは、何年か前に湾岸地域に新築移転したテレビ番組の撮影スタジオの鉄筋コンクリート四階建てのビルだった。
確か、今は廃墟マニアの聖地になっていると聞いたことがある。
「うふふ、趣がありますでしょう? ここで撮影していた昭和の地方の中学校を舞台にしたドラマのセットがそのまま残ってたんですよ。この建物を我が社の仮社屋に借りたときに、我が社のアンテナショップに活用しようと思いましてね、そのまま残していたんです」
「はあ、それは、良いアイディアですね」
今回五郎が再就職で採用された会社は、農畜産物の生産と販売の企業だ。
このノスタルジックな雰囲気は、第一次産品の展示陳列にはもってこいだろう。
五郎の個人的なトラウマを除けばだが。
「後、本日から勤務ということですが、私の任地はどこなのでしょうか? こちらの社屋で生産されるとすると、植物工場的な施設が考えられますが、先程説明を受けました私の業務は害獣駆除及び田畑の耕作補助ということでしたので……。後それに付随して、任地が遠方の場合、私の家財の移転及び処分の時間をいただきたいと……」
家財……というのは、他でもない。
五郎が中学生の頃から蒐集してきたミリタリーアイテムのことだ。
子供の頃は小遣い、高校を卒業して就職してからは、給料のかなりを注ぎ込んで集めまくった思い入れのあるモノたちだ。
それは、五郎が生涯を賭した趣味なのだった。
まあ、そのおかげか、定年を迎えた今日に至っても五郎は独身だった。
婚姻の経験さえなかった。
仲良くなって、いい雰囲気になっても、五郎のこの趣味を知るやフラれること幾度か……。
いつの間にか恋愛自体を避けるようになって、現在に至るである。
だから、任地が何処であろうと赴任は可能だった。
既に肉親とも絶縁状況であることもあり、家族と呼べるものは存在しない五郎は天涯孤独といっていい状況であり、どこへでも赴任可能だった。
「ああ、それでしたら、ええと、住所は履歴書のここでいいんですよね。でしたら、我が社が提携している業者に依頼して丸ごと全部、塵一つに至るまで、任地に移送させていただきます」
「ああ、よかった。では、そのようにお願いいたします」
塵一つに至るまでとは、大げさな言い方だが、大事なコレクションを、全て持って行けるのはありがたい。
「これで、後顧の憂い一切無く何処へでも参れます」
「よかった。当方といたしましても、それで、貴方様のような方にいらしていただけるのであれば、万々歳ですからね」
赤毛の美女はそう言って右手を差し出してきた。
少しだけ戸惑って、五郎はその手を取る。
女性の手を取るのは何年ぶりのことだろうか。
職場の好意で夜間部の大学に通っていた時代の甘酸っぱい思い出が甦る。
「では、契約成立。と、いうことで。これからよろしくお願いいたしますね斉藤五郎さん」
「あ、はい、よろしくお願いたします。こちらこそ、再就職させていただいてありがたく思っています。え……と?」
「ああ、わたしったら、まだ名乗っておりませんでしたね。わたし、エーティル・レアシオ・オグ・メと申します。ですが、長くて面倒なので愛称のルーティエで呼んでいただければと思います」
「ルーティエさん……ですか。はい、では、そのように呼ばせていただきます」
どこの国の名前だろう。それは不思議な響きの名前だった。
それに、五郎などよりも何十歳も年下に見えるのに、五郎の何倍も生きているような不思議な雰囲気を持った人だった。
「ああそうでした。肝心の任地についてお話していませんでしたね」
「ああ、そういえばそうでした」
ルーティエと五郎は互いの瞳に映ったそれぞれの姿を見つめて吹き出した。
「斉藤五郎さん。貴方の任地は、グリューヴルム王国東方辺境伯領の領都ヴェルモンの南にある森『ヴァルトブリーゼ』……日本語で言うと『そよ風の森』とでも言うのでしょうか? その南外れ、旧南方辺境伯領にある農場になります。風光明媚、気候温暖ないいところですよ」
(グリューヴルム王国? 東方辺境伯領? 全く初耳な国の名前だ。国連加盟国でそんな国は無かったはずだ。語感からしてドイツ語圏のようだが……)
五郎の頭の中にある世界地図のヨーロッパにそんな国名はない。
「あの……ぅ。寡聞にして存じ上げないのですが、その王国はどこにあるのでしょうか?」
「ここからすれば異世界ということになりますね」
「へ?」
五郎の長い人生の中でもこんなにも間抜けた声を出したのは初めてのことだった。
「異世界です」
五郎を採用した面接官のルーティエが動脈血のように鮮やかな赤毛を揺らして繰り返した。
「佐藤五郎さん。貴方を我が世界の農場に採用いたします」
ルーティエがニッコリと破顔する。
その笑顔は五郎が初めて恋心を抱いた五つ上の近所のお姉さんのように愛らしかった。
「全ては成りました!」
ぱぁん! という音がルーティエが打った柏手だと気がついたのは、残響に耳がジンジンと疼いているときだった。
「うわわわわっ!」
おぞましい記憶が詰まった教室が消え去り、見たこともない花が咲き乱れる花園が現れた。
「貴方が彼の地で良き人生を送られることを!」
アルトの声の宣言と同時に辺りが暗転して五郎は急激に眠気に襲われた。
そして、五郎は心地よい浮遊感に包まれながら、ついに意識を手放したのだった
ヴァルトフリーゼ農園採用担当エーティル・レアシオ・オグ・メ女史こと、ルーティエ様降臨です。
ル「ふふふ、我のターンだねッ!」