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運命共同体

作者: 梨川みぞれ


 僕、北河千紘の運命をここに綴ります。



 小学校2年生だった頃の僕は幸せだった。


 母はいつも笑顔を絶やさず、僕とお話する時は必ず腰を落として合わせてくれる心優しい人だった。


 父は僕が学校のテストで良い点数を取るたびに頭をわしゃわしゃと撫でてくれたし、いけないことをした時はちゃんと親として僕のために叱ってくれる立派な人だった。


 母は専業主婦のため、学校から帰ってきても必ず家にいた。休日は家族3人で色々なところに行ったのをよく覚えている。


 しかし、そんな幸せな毎日が少しずつ崩れていったのは僕が小学3年生になったばかりのころだった。


 母が病気になり、入院した。


 後になって知ったことだが、母は生まれつき体が弱かったようだ。


 僕は毎日お見舞いに行ったが、母はいつも、「ごめんね、1人で寂しいでしょう?ごめんね」と繰り返す。その言葉を聞くたびに「大丈夫、お父さんも前より早く帰ってきてくれるし」と強がりながらも、しかし心の中では寂しさで溢れかえりそうになっていた。


 半年後、母は亡くなった。


 元々手術して治した病気が再発し、それが転移したためあっという間だった。


 僕は泣いた。父も泣いていた。


 棺桶の中の母を見たときは、どうして人間がこんな箱に入っているのだろうと違和感のようなものを感じた。


 しかし、母の葬式には数え切れない人が出席していて、やっぱり僕のお母さんはたくさんの人に好かれていたんだと再認識できて不謹慎にもちょっとだけ嬉しい気持ちになった。


 火葬が終わってから父ががっしりと僕を抱きしめ言った言葉は今でも忘れない。


「絶対に父さんがお前を一人前の、立派な大人に育ててやるからな」


 大丈夫、お母さんの分までしっかりと生きよう。そしてお母さんのようにみんなに好かれ、お父さんのように強い男になる、と決意した瞬間でもあった。


 やがて、母がいないなりにも家事は父と僕とで分担して、なんとか安定してやっていくことが出来るようになった。


 僕が4年生になった時。


 ある日の夕方、1人で鍵を開けて家に帰るのにもすっかり慣れたな、としみじみと感じていたあの日。家の電話が鳴り響いた。いつもより大きな音で鳴った気がしたのは外にいるカラスが鳴いていなかったせいかもしれない。


「はい、もしもし」


 受話器の先は父よりも低い声の男だった。


「君のお父さんが、亡くなった」


 なんだかその時のことはよく覚えていない。その男が放った辛辣な言葉が僕の頭の中を一瞬にしてぐるぐるにかき混ぜた。


 言葉が出なくなった。


 あぁ、もしかしたら嫌がらせの電話かもしれない。というかこの人誰?本当に僕のお父さんのこと知ってる人?現実逃避を続け、受話器を床に落としたままその場に座り込んだ。


 明日…そうだ、宿題やらないと。先生に怒られちゃうなぁ。明後日はユウト君と遊ぶ約束…公園で、あれ、何時待ち合わせだっけ?まあいいか、明日学校で聞けばいいんだ。そう、それで…


 現実は現実だ。父の会社の同僚の佐々岡さんが僕の家にきて事情を説明してくれた。葬式の準備も僕の知らないところで着々と進んでいた。


 父は仕事中、車で移動していた時に交通事故にあったそうだ。


 それくらいのことしか覚えていない。真っ黒の服を着るのはこれで2回目だ。


 辺りを見回してみた。父の仕事関係の人がいる席では、ほとんどがハンカチを目元に当てていた。が、しかし、父の親戚のほうは違った。


「ほら見なさい、きっとあの女に連れて行かれたのよ」


「病気持ちだった女と結婚した時点で不幸になることくらい、気付かなかったのかね」


「自業自得ね」


 父の両親は涙一つ流さず言った。


「あの女とさえ結婚しなければ、こんなことにならなかったのに」


 僕はその時、人生で初めて胃を焦がされたような感覚に襲われた。


 相手が自分の祖父母だとは1ミリも思わなかった。いや、思いたくなかった。


 葬式会場のあちらこちらの物を父の親戚のほう目掛けて投げ飛ばし、小さい体で何度も体当たりした。


 その後の事もよく覚えていない。


 葬式関係のことが一通り終わって、気が付けば孤児院にいた。僕と同じ年の子もいたが、それより上だったり、3才くらいの子もいた。


 一つわかったことは、もう二度とあの家には戻れないということだ。でも、お父さんとお母さんのいない家なんて、正直もうどうでもよかった。


 僕は悲劇か何かの主人公なのだろうか。


 院長さんは40代後半くらいのメガネをかけた人だった。細身で長身なのが特徴だ。


「今日からみんなと一緒に過ごすお友達を紹介するよ」


 初めはここがどういうところかすらわからなかったが、次の日の出来事でやっと理解する。一組の男女が訪れた。その瞬間のみんなの行動といったら光の速さのごとく…


「こんにちはーーー!!」


 さっきまでどぶのように曇っていた空気が偽りながらも一瞬にして晴れたように感じた。


 あの時、隅で膝を抱えていた女の子も、院長さんに見つからないように弱い子をいじめていた男の子も、みんな笑顔でお出迎え。最初はみんな礼儀が良いんだなぁと感心していたのだが、そうではなかったようだ。


「ようこそいらしてくださいました。ご希望は?」

と院長さんが言う。


「そうねぇ、やっぱり元気が良い子がいいわ」


「性別や年のほどは?」


「小学生でしたら構いません」


 院長さんは僕たちに向かって言う。


「小学生の元気いっぱいのみんなー!集合だよー」


 まるで自分が応援していた野球チームが優勝した時のように盛り上がりをみせる。僕はそれについていけず後ろで見ているしかなかった。


 やがてその夫婦はここにいる女の子を一人選び、その子は来週試しにその家に出向くことになったらしい。


 あぁ、そうか、もらってもらえればここから脱出できるわけか。そしてその人が新しいお父さんとお母さんになるんだ。


 その夜、同じ部屋の男の子が僕に言った。


「新入りはでしゃばるなよ」


 何も言い返せなかった。きっと僕より前にいた子たちはみんな、早くここを出たくてずっと我慢してきたのだ。確かに僕のような新入りに取られたらたまったものじゃない。


 不幸続きだ。僕の人生は小学校4年生にして地獄に落ちた。


 親に愛されすぎたツケが回ってきたのだろうか。幸せの数値はみな平等で分配方式なのだろうか。


 そんなことを考えながら、毎日居心地の悪いこの監獄のような場所で過ごしていた。しかし、やっぱり僕はまだ幸運だったのかもしれない。


 孤児院にきて約1ヶ月。一人の男がやってきた。


 がたいの良い体に黒いスーツ、高そうな革靴、ワックスで綺麗に固められた髪、鋭い目つき。加えて院長よりも背が高くて驚いた。そして、お父さんよりも、あの時の佐々岡さんよりも低い声で言った。


「子供を一人、もらいに来た」


 ニコリともせずぶっきらぼうに、そして僕たちを上から見下ろすように。


 攫いにきたの間違いではないのか。僕も含めみんな怯む。いつもなら選ばれたいという気持ちが溢れ出し、必死にアピールしにいくはずなのにそんな空気も流れなかった。院長さんも本調子ではなかった。


「え、えと、そうですね…どのような子をご希望ですか?」


 その男はなぜだか院長さんを睨みつけた。


「どんなんでもいい」


 正直僕たちは焦っていた。


 この人にだけはもらわれたくない!


 きっとみんな同じ気持ちだったのだろう。周りは自然と僕が前の方にいくよう押し付けた。男は目だけをゆっくりと動かし僕たちを凝視し続けた。


 凍りついたような空気、約5分間。


 男は一歩足を踏み出し、僕の前に立ちはだかった。僕の心臓の鼓動は収まろうとしない。足がふるえだす。男はやっと口を開いた。


「君、お父さんとお母さんはどうしたの」


 その言葉にその場の全員が息を呑んだ。肝心の僕は声が出なくなった。院長さんが必死に止めに入る。


「あの、すいません、そのですねぇ、子どもたちも色々あってですね…そういうのは、お、お控え願いたいと…」


「今、私はこの子と話をしようとしている」


「えと…」


 何か言わなければ。僕が発言しないと終わらない。


「お、お父さん…は」


 男は表情一つ変えず僕のことを待っている。


「仕事の事故で死んだ。お母さんはそれより前に病気で死んだ」


 いつもより早口で言い切ったあとの空気も凍りついたままだ。


「…そうか」


 男はしばらく僕を上から見続けた後いきなりしゃがみこみ、僕と同じ目線でこう言う。


「名前は?」


 初めて同じ目線で目があった。その時のなんと表現したらいいかわからないこの感覚は忘れられない。お父さんとはまた違う、心を惹きつけるような目力があった。


「千紘」


「名字は?」


「…北河」


 ここの孤児院では気を使っているのか子供になるべく名字を名乗らせないようにしている。親のことでトラウマになっている子も多いからだそうだ。


 でも、僕は父と母が大好きだったし、この名字は唯一の形見でもあった。


 僕が名前を名乗り上げると、男は立ち上がり院長さんに言う。


「北河千紘を連れていく」


 後ろのギャラリーは皆、ほっと息をついた。僕は、ただただ心臓の鼓動が加速するばかりだった。院長さんは焦りながら言う。


「あっ、まずはお試し期間から始めまして…この子を実際家に連れていってみてから」


「そんな必要はない。今連れて帰る」


「しかし、えと、あのですね、うちはクーリングオフといいますか、そういうのは取り扱っていませんから…」


 そういうと男は院長さんの胸ぐらを勢いよく掴み、さらに低い声で言った。


「クーリングオフとか、子どもは物じゃない。二度と口にするな」


 その頃の僕たちは全員クーリングオフの意味を理解していなかったが、今思えば理解していなくて良かったと思う。でも何よりも印象に残ったのは男が言ったこの言葉。


「俺たちは今日から運命共同体だ。家族ではない。俺はお前の父親にはならない」


 あの時はざわついた。普通ここに訪れる人たちは、自分の子どもとして育てるために僕たちを連れていく。


「名前は木瀬亮だ」


 そんないきなり名乗られても…という気持ちだった。運命共同体の意味もわからないまま、僕は木瀬亮さんに連れていかれたのだ。


 その時の僕には、やっとあの孤児院をぬけだすことができて嬉しいという気持ちと、亮さんとこれからどうなるのだろうという大きな不安の板挟み状態だった。


 車に乗ること数時間。二人きりだった。


 たしかあの時はどんな質問をされたかいまいち思い出せないのだが、ただ質問されて、答えて、質問されて、答えて、を永遠と繰り返していたことだけは覚えている。


 到着して車を降りると、丁度アパート一軒分くらいの大きい家が僕の視界を埋めた。


 亮さんの後を小走りでついていき、中に入ると3人の人がそこには住んでいた。


 1人目はここの家事全般を行うとう子さん。


 2人目は社会人の男性。


 3人目は女子高生。


 ここに住んでいる人は皆、血は繋がっていない。とう子さんと亮さんは結婚しているわけでもないし、僕がここのうちの弟になるわけでもない。


 ーー俺たちは運命共同体だ。


 その言葉の意味はわからないが、とにかく一緒に暮らすからといって家族になるわけではないということだけはわかった。もちろん名字もみんな違う。僕は、ずっと北河千紘だ。


 僕が最年少であるためか、みんな優しくしてくれて救われた。久しぶりに幸せを感じた。


 家の仕事や掃除はとう子さんを中心に日替わりで行うというルールがあったり、食事は皆で食べることを心がけていたりなど、孤児院よりはずっと温かい場所だった。


 学校も転校して、新しい友達が沢山できた。やがて僕はここで小学5年生まで成長する。


 しかしこの春、僕の人生が変わる。運命が決まる。


 あの日は夕暮れだった。


 玄関先に亮さんと一緒に一人の女の子が立っていた。夕日を背にしてるため、女の子の顔は暗くてはよく見えない。とう子さんが驚いた様子で言う。


「亮さん、その子は…」


「孤児院にいたのを連れてきた」


「あらまあ。事前に言ってくださればお料理にも力入れたのに」


 亮さんは女の子に言う。


「自己紹介をしなさい」


 無表情、根暗、ボサボサの髪の毛、やせ細った小さい体、ダサい服。


「名取椎奈です」


 綺麗な声。


「じゃあしぃちゃんって呼ぼうかしら。うふふ、ようこそ。今日からよろしくね」


 僕はその時、なんて言ったらいいのかよくわからなかった。


 どうやら名取椎奈は僕と同じ年のようだ。ここに来て3日後、僕のクラスに転校してきた。


 孤児院から出たばかりでまだ生活にも慣れていないのか、椎奈は家でも学校でもあまり口を開かない。かろうじてとう子さんの質問にはポツリポツリと答えるが、自分から話しかけたりしているところを僕は一度もみたことがなかった。


 この調子じゃあ学校でもなかなか友達ができないのも仕方がないのではと思う。


 僕も同じ家で暮らしながら、未だに椎奈とまともな会話をしたことがない。朝の挨拶すら目を合わせてくれないのだ。少し傷つく。


 とう子さんにも、しぃちゃんともっとお話してほしいだの、仲良くしてやってほしいだのお願いされ、一度二度は頑張って話を振ったりするのだが、ちゃんと返された事はなかった。


 さすがの僕も日に日に嫌になり、気が付けば椎奈と目を合わせようとすることもなくなった。


 驚くことに椎奈は頭も良くテストでは満点ばかりで、その上必ずリレーの選手に選ばれていたし、体育の時も活躍を見せていた。


 それに比べて僕は、算数は全然できないし、運動神経も自慢できるほど良いわけでもなかった。他の友達はサッカーや野球を習い事としてやっているけれど、僕は昔から何もやったことがないのにも引け目を感じていた。


 椎奈が転校してから約1ヶ月。椎奈はいじめにあっていた。


 いつかどこかでそうなるのではないかと思ってはいたのだ。なぜなら僕のクラスはカースト制がひどく、上のものは下のものをターゲットにしているという話が少なからずあったからだ。


 僕は、どちらにも属さない中立の立場ではあったが、いじめられている人を助ける勇気などは持ち合わせていない。


 椎奈はノートに悪口を書かれ、物をゴミ箱に捨てられ、髪の毛を引っ張られ、放課後にはバケツの汚い水をかけられていた。


 僕の知る範囲ではそれだけだが、おそらくそれ以外にもたくさん被害を受けていたことだろう。

クラス内では男女共に椎奈をターゲットにしているようだった。


 しかし、椎奈はどんなに酷いことをされても声もあげず、泣きもせず、助けも求めず、平然としていた。


 とう子さんや亮さんたちには隠したいのか、家に着く頃には、服も髪の毛もひどく汚れているようには見えなくなっていて、よく乾いていた。しかもこの前は、とう子さんに控えめではあるが笑顔まで見せていたのだ。


 椎奈のいじめはずっと続いた。僕は未だに見ているだけだ。


 同じ家、同じ食事、 カーテン越しの隣部屋、 運命共同体。罪悪感がないわけではない。しかし助けようとは思えない。


 なぜ?自分が次のターゲットにされるからか?とう子さんと仲良くしている椎奈に嫉妬しているのか?


 ある日、事件が起きた。朝、いつも通り教室に入る。


「えっ…」


 黒板に書かれていた文字をみて、全身に電気が走ったように感じた。


「な、なんで…?」


 名取椎奈と北河千紘の名前。それをピンクのチョークがハート型に囲む。


「いやいやいや…なんで?」


 僕は、クラスメートの方を見ながら必死に呟いた。


 椎奈が教室に来た。黒板を見つめる。そしてその時初めて、椎奈は目を大きく見開き驚いた顔をした。見たことのない表情だった。


 クラスの男子が言う。


「お前らぁ、結婚してんだろ?」


「え?」


「だっておんなじ家に帰ってるところ、オレ見たんですけどー?」


 言葉を失った。クラスメートは次々に勝手なことを言い始める。


「双子でもないのに、なんでおんなじ家に住んでるのさぁ」


「お前、ずっと名取椎奈の味方だったんだろ?」


「僕は…」


 僕は、その時、完全に正常な判断が出来なくなっていた。自己防衛。まずその本能が働いた。


「な、なわけねーだろ、こんな奴!汚ねぇし貧乏くさいし生きてる価値ないだろ!そんな奴の味方、僕は絶対にしない」


 クラス中が静まり返った。


 数秒後感じたあの感覚。喉元が締め付けられるようなあの感覚。視界から色が消えたような気がした。


 何やってんだ僕は。


「だよな、お前わかってんじゃん」


 その日から僕は、椎奈をいじめた。今まで連んできた友達から離れ、クラスの中心にいる男子と女子と一緒に連むようになった。


 いじめは放課後。椎奈をみんなで取り囲み、バケツで水をかける。椎奈の背負っているランドセルを掴み、振り回しては汚い泥の水たまりに投げ飛ばす。砂利をかける。罵倒する。


 僕も一緒になって全部やった。手は震えていた。


 椎奈は悲鳴一つあげず、やられるがままだ。


 大体いつもそれは午後5時前に終わる。夕暮れは僕の目を焼くように、ギラギラとしていた。


 あの時の僕はもう自分が何者なのか、何をしているのか半分わからないまま毎日を過ごしていたような気がする。そして嫌なほど夕焼けだけが目に残る。


 一つ、疑問に思った。なぜ椎奈の濡らさせた服は、帰宅する頃に綺麗になって乾いているのだろう、と。その日の僕はいじめが終わった後にこっそり椎奈の後をつけた。


「そういうことか…」


 人気のない公園で服を脱ぎ、蛇口をひねって必死に洗っていたのだ。きっと寒い思いをしながら服が乾くのを待ってる。椎奈がこちらに気付いた。


「あっ、え、いや違う」


 自分でも何を否定したのかわからなかった。


「………」


「どうして家に着く頃には服が…綺麗になってんのかなって思って」


 ボロボロの椎奈は長い前髪を目に垂らしたままこっちを向く。僕は心臓が引きつった。


「は、早く、家に帰ればいいだろ!」


 椎奈は何も言わない。


「とう子さんたちに言いつければ!?」


「………」


「何か喋れよ!」


「…………」


 その日のことはとてもよく印象に残っている。カラスの鳴き声をバックグラウンドに僕が初めて1対1で椎奈と取っ組み合いをした日だ。先に手を出したのは僕だ。


 宙を舞った。そう、一瞬にして僕は投げ飛ばされた。


「ゲホッゲホッ」


 綺麗な一本。気が付けば視界が茜空になり、1秒後、背中にどっしりとした衝撃が走って咳き込む。


 椎奈は仰向けに倒れた僕の顔をのぞき込んできた。髪の毛が夕日に透けてキラキラと輝いている。そして言った。


「運命共同体って、何だと思う?」


彼女の第一声がそれだった。とても綺麗な声だった。


「は…?」


綺麗な、水晶玉のように透き通った目だった。


「運命共同体って、どういうことだと思う?」


綺麗な、顔立ちだった。


「何が言いたいんだよ!」


 ただただ悔しかった。自分より小さい体の女の子に背負い投げされたことが。テストと点数でいつも負けることが。自分よりも高い運動神経が。

いじめられても平然としていられる強さが。


 全てにおいて、悔しかった。


 僕は必死に立ち上がり掴みかかっては投げ飛ばされ、掴みかかっては投げ飛ばされを繰り返した。夕日が沈みかかり、辺りが薄暗くなってしまったこともしばらく気付かないくらいに。僕はまたもや仰向けになっている。


「はぁっ…はぁっ…」


「はぁ…はぁ…」


 お互い限界がきていた。


 ーー俺たちは今日から運命共同体だ。


 その言葉の意味を僕は一度だけ、とう子さんに聞いたことがある。


 ーーその意味は千紘くん、あなた自身が見つけることよ。


 正直、都合の良い返され方をされたな、と感じた。本当はとう子さんもよくわかってないんじゃないか。亮さんしか答えを知らないんじゃないか。そんな気がした。僕は呟いてみた。


「運命を…共にする……同じ体………?」


 そのまんまだ。小学生らしい考えだ、と当時の自分でも思えた。


「もしかして、わからない?」


「……まあ、うん」


 椎奈は立ち上がり私も、と一言いう。


「辞書にはね『 所属する人が、繁栄するときも衰亡するときも運命をともにする組織や団体。また、その関係にあること』ってあったの」


 なんだか難しい。小学生には早すぎる。バカな僕にはもっと早すぎる。椎奈は純粋な目で言う。


「家族ってことなの?」


「いや、それは違うと思う。亮さん、家族ではないってはっきり言ってたし」


 そういうと椎奈ため息と一緒にそうなの、と呟いた。


 これが僕たちの記念すべき初会話だった。椎奈は表情こそ固いが、意外と喋る子なのかもしれない。


 あれから家に帰っても、椎奈はいじめられてる素振りなど一つも見せずに平然とした顔で過ごしていた。


 言うなよ…僕がいじめてるって。頼むから亮さんととう子さんには言うなよ…。


 家にいるときの僕はそんなことばかり考え、バカな恐怖心と戦っていた。


 あぁ、何やってんだ。椎奈が可哀想だ。いや、何言ってんだ。僕がいじめてるんじゃないか。今日やった算数のテスト、椎奈だけ100点だったなぁ。そういえば、椎奈は夜遅くまで何してるんだろう。どうして、孤児院に、いたのかなぁ。


 次の日の朝早く、僕は朝ご飯を食べてすぐに登校した。


 誰も来ないうちに、僕が昨日みんなに言われて隠した椎奈の上靴を下駄箱に戻す。椎奈の机に書いた悪口を必死に消す。右手が釣りそうになった。


 これは罪悪感だ…


 これは背徳感だ…


 いや、これはただの罪滅ぼしだ…


 僕はあの日から、椎奈のことをいじめようとする度に、胃に油を流し込んだような気分になった。自分でやっておいて、自分で朝早く処理する生活。


「バカだ…」


 やがて、その気持ちは見透かされ、次のターゲットは僕になった。そのおかげで椎奈がいじめられることは無くなったけれど、今まで僕が椎奈にしていたことをクラスの中心人物に全部された。


 僕は必死に耐えようとしたが、椎奈とは違い、いつもぐずぐずと泣いてばかりいた。


 どうしても苦しくなる。嫌でも、脳が堪えろって命令しても、喉のあたりが詰まって苦しくなる。


 公園に寄っては服を洗って乾かしてから帰った。服を脱いで下着で待ってる時の寒さは、とてつもなく虚しくて辛かった。


「千紘くん、なんだか元気がないね。学校で何かあった?」


 とう子さんには心配される始末。


 お母さん、お父さん…きっと僕は罰があたったんだね。お母さんみたいにみんなにも好かれてないし、お父さんみたいに強い男にはなれなかったよ。


 どうすればいいかな?


 先生に言えばいいのかな?


 でも自分もいじめてたじゃん。


 亮さんやとう子さんに言えばいいのかな?


 でも自分も椎奈をいじめてたじゃん。


 みんなに、いじめる時に手を抜いてごめんなさいって言えばいいのかな?


 それは絶対違う。椎奈に…


「ご、ごめんなさい…」


 僕は静まり返った夜、ベッドの上で独り、そう呟いた。


 いじめは謝って済むものではない。逆に考えて、みんなが僕に謝ってきたとしても許せないから。


 じゃあもうどうすればいいんだよ。


 もういっそのこと死んだ方が楽だったりして…


 そんなことも考えるようになった。そんな、夏の日の朝。


 僕が家を出た後、後ろから椎奈が走って追いかけてきた。太陽がコンクリートを焼いている。蝉が歌っている。


「千紘」


 出会ってから3ヶ月。初めて名前を呼ばれた。彼女の綺麗で透き通った声は一瞬涼しさを感じさせた。


「………」


 相変わらず怒ってるんだか、困ってるんだかわからない表情をしていた。正直椎奈と顔を合わせるのが辛い。さんざんいじめておいて、今度はこっちがいじめにあっているのだから。


 きっと、ざまぁくらいには思っているんだろう。


「私ね、わかったよ」


「何が?」


「運命共同体のこと」


「ふーん。良かったね」


 別に何も椎奈は悪くないのに、嫌な感じの態度をとってしまうのは、僕のどうしよもないこの毎日と夏のじめじめとした暑さのせいだったのだと思う。


「うん!」


 ちょっとだけ、微笑んだ気がした。夏を思わせないくらいの椎奈の真っ白い肌と群青色の空がとてもよく合っていた。


 どうしていきなり話しかけてきたのだろう。椎奈が話しかけてくることなど、今まで一度もなかったのに。


 運命共同体。椎奈にとってはこの言葉がそんなに重要なのだろうか。僕はただ亮さんが、俺たちは家族ではないぞ、ということを伝えたかっただけに過ぎないのでは?と軽く考えている。


 わかったよ、ということは亮さんに答えを聞いたということなのだろうか。何だかその日の朝の椎奈はとても機嫌がよかったようにみえたからきっとそうだ。


 だが、驚いたことはそれだけではない。


 椎奈がクラスメートに挨拶をしていたのだ。


 いじめられなくなってからも普段と変わりなく独りで過ごしていたはずなのに、心機一転でもしたのだろうか。話しかけられたクラスメートは驚きつつも、椎奈とちゃんと話していた。まあ時々見せるクラスメートの苦笑いから察するに、椎奈と話が噛み合ってなさそうなことだけは何となくわかったけど。


 一体椎奈はどうしちゃったのだろう。


 昼休み。僕はなぜか椎奈に手を無理やり引っ張られ、体育館に繋がる人のいない裏階段に連れて行かれた。


「いきなり、どうしたの?」


 そう聞いても何も喋らず、黙ったまま階段に座る。僕も何となく座る。やがて椎奈は自分の持ってきていた本を読み始めた。そのまま昼休みが終わった。


 当時の僕はきっと、実は椎奈が僕をいじめる奴らから守ってくれていたなんて思いもしなかったのだろう。


 そして、放課後。いつものように4、5人の男子とギャラリーの女子が僕にどぶ水をかけようとしてきたその時だ。


「千紘をいじめるなーーー!!」


 僕の前に立ちはだかり、小さな体で、大きな声で、叫ぶヒーローの姿だった。


「椎奈…?」


「千紘が辛いなら、私もそれを背負う!」


 もう一度、叫ぶ。


「それが、私なりの運命共同体なの!」


 この時、この物語の主人公は彼女なんだと確信した。


 椎奈は僕を取り囲んでいた男子たちを得意の背負い投げで飛ばした。周りの女子も含めみんな、椎奈の強さを見て怯えていた。


「千紘!」


 椎奈は走りながら僕の手を取り、走り出した。足がもつれそうになった。


「え、ちょ、椎奈」


「逃げるよ!」


 あの時の夏の日差しはまだ高く、雲一つない青空が僕たちを迎えるように。


 学校を背に。歩道、信号、木陰、川、土手、田んぼ畑。蝉の鳴き声と僕たちの息づかいがよく聞こえた。椎奈は疲れ切った表情で聞いてくる。


「大丈夫?千紘」


「……えっ」


「怪我は?」


 そんなことよりも、椎奈の変わりように混乱していた。僕は首を横に振る。


「毎朝私の上靴とか探してくれたり、机拭いてくれてたりしてくれて、嬉しかった」


「なんで知って…」


「ありがとう」


 表情は固いし、相変わらず淡々と喋るし、声の調子も変わらない。けれど椎奈の声にはとてつもない温かさを感じた。


「僕が椎奈の靴とか机とか…嫌なことも…したし…」


「いいよ。仕方がなかったんだよね」


「そ、そんなこと…」


目が熱い。泣きたい。いや、もうきっと泣いていた。


「大切なのは私たちが運命共同体ってこと」


 さっき僕を助けてくれた時に言った言葉。


 ーー千紘が辛いなら、私もそれを背負う。


「千紘はどう思う?」


「僕は…ごめん、よく考えたことなくて」


「私、考え事を始めると解決するまで何も出来ないの。今回だってそう。ずっと孤児院にいたのにいきなり亮さんに連れ出されて、しかも俺たちは運命共同体だ、とか言われて」


「うん…」


「その意味をずっと考えてて、でも千紘がしてくれたことを見てやっとわかった」


 椎奈の顔はいつでも真剣だった。


「これからは千紘が辛いときは私もそれを背負う。千紘が嬉しいときはきっと私も嬉しい」


 椎奈は少しだけ困った顔をして言った。


「私、みんなと考えてること全然違うのわかってるのに、何にも不安にならないの」


「だからもし私が道を間違えそうになったら、正しい方に導いてほしいな」


 最後に、右手を僕の前に差し出して。


 夏の夕暮れを背にして。


「私と、運命共同体になってくれませんか?」




 椎奈は僕の背中に体重をかけながら横になった。


「ちょ、重い…てか近い」


「いいじゃん、何年の付き合いだと思ってるの?」


 高校1年生の僕たちは今でも変わらず運命共同体だ。


 あれからもう4年も経った。


 椎奈と僕の関係は、お互い背負い背負われる関係。ずっとそれでやってきた。


 きっと友達よりも、カップルよりも、もしかすると家族よりも深く付き合ってきたように思う。


 椎奈の表情の固さはお墨付きだが、笑った時はすごく可愛いし、最近は髪型にも服装にも気を使っているようだ。


 いきなり中学3年生の時に身なりに力を入れ始めたため、クラスの友達に「イメチェン?」と聞かれていた際に、「千紘がやれって言うから」とデカい声で言いふらしていたときには焦ったが、そういう所も含めて僕は大好きだ。


 とは言ったものの、僕の気持ちは一向に伝わっていない。


 一度、中3の時に思い切って告白したのだが、「ありがとう。私も好きだよ千紘のこと」と真顔で返され、あ、これはダメなやつだと落胆した。


 僕にとっての運命共同体は、椎奈を支え、導くことだ。


 椎奈は相変わらず、悩み事をする度に口を開かなくなってしまうから、そういう時に僕は椎奈のことを支えている。


 そんな僕たちだけど、中学でも高校でもお互いうまくやっていけてると思う。みんな椎奈への対応の仕方も考えてくれているし、それで困ってしまった時には僕に相談しにきてくれる。


「ねえ、千紘」


「何?」


「明日、学校帰りにお友達とパフェを食べにいくの」


「よかったね。楽しんでおいでよ」


「うん。それでさ、チョコバナナ味とイチゴソース味と迷ってるんだけど、どうしたらいい?」


 相変わらず悩みの種は大きいときもあれば小さすぎる時もある。でもそれが椎奈だから、僕はこれからもどんな相談にも乗っていくつもりだ。


「椎奈はチョコ好きだったよね」


「うん。千紘ならどっちが食べたい?」


「僕はチョコバナナかな」


「じゃあ私もそうする」


 お母さん、お父さん。


 僕はお母さんほどたくさんの人に好かれている自信はないし、お父さんみたいに強くてたくましくもない。


 でも椎奈にも、一緒に暮らす運命共同体のみんなにも、好かれている自信はある。


 それに椎奈のことだけはどんなことがあっても守りたいと思っている。


「私は…不安にならない自分が不安」


 椎奈は昔からこういうことを言う。


「でもね、最近は、千紘が側にいてくれない時が一番不安」


「そういうこと言われると勘違いしたくなるんだけど…」


「どういうこと?」


 こういうことに関しても、椎奈はいつだって真顔で、真面目に聞いてくる。


「なんでもないよ」


「最近千紘はそういうのが多い」


「ごめんごめん」


 椎奈はまだ不機嫌そうだ。


「で?」


「え?」


「どういうことなの?」


 問題が解決するまで一歩も引かないのも椎奈らしい。


「……まあ、一緒にいたいのかなって思うっていうか」


「そうだけど?」


「え?」


「私は誰よりも千紘とずっと一緒にいたいと思ってるよ」


 そういうことを言われる度に僕は、内心けっこう喜びながらも、こりゃ、脈なしだ、とダメージを負うのだ。

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