眠れる魔女は騎士の口付けで目覚める
連載中の「騎士様の初恋は御伽噺の呪われし魔女」の原型になった話です。結局全く別物の作品になってしまったので、短編として載っけます。
『何が国一番の白魔導士よ! 何が国一番の白魔術の使い手よ! 人ひとり助けられないでそれでよく白魔導士が名乗れたものね!』
美しい姫はその輝く陽光のように艶めく金髪を、今は恐ろしい魔女のように振り乱し、紫水晶の瞳を爛々と輝かせる。
『気に入らない……気に入らないわ! お前さえ無能でなければ愛しいあの方は死なずにすんだものを!』
魔法陣の中央、祭壇の上に、贄のように魔力封じの枷を以て括り付けられたシルフィットの頬を、手にした扇子で力の限り打ち付ける。虚ろな目で見上げると、姫は忌々しげに舌打ちし、傍らの魔導士に視線だけで命じた。儀式を始めて、と。
『……悪く思うなシルフィット。お前には気の毒だが、あの方には到底逆らえない』
何の慰めにもならない言葉を掛け、魔導士の男はシルフィットから離れた。
周囲に控えた魔導士らは、かつての同僚だった彼女に一瞬だけ同情の視線を向けると、あとは淡々と術式を展開する。魔法陣は不気味な青白い光を放ち、やがてその光が一気に祭壇に向かって収束する。膨大な力がその身体に流れ込み、体内を蹂躙する凄まじい苦痛に悲鳴一つ上げる間も無く彼女は意識を失った。
◆◆◆
「――っ!!」
声にならない悲鳴を上げて、シルフィットは飛び起きた。読みかけの本がばさりと落ち、経年劣化で傷んだ頁がばらばらになる。それを横目に見てから汗で張り付いた黒髪をかき上げて、重い溜息を吐いた。
嫌な夢だ。数百年も前の出来事を、未だ生々しく思い出せるほどの鮮明な夢だ。長椅子に沈んだまま鬱々としていたが、やがて諦めたように立ち上がると、床に散らばった本に手を伸ばした。
その時、来客を告げる音が響き、シルフィットは顔を上げた。もう一度溜息を吐き、螺旋階段を下って粗末な扉を開ける。
「よう、元気だったか――ってお前、真っ青だぞ。どこか具合でも悪いのか」
濃紺の地に金糸の縁取りの入った騎士服の青年は、亜麻色の髪に縁取られた凛々しい顔を不安げに歪めてシルフィットの顔を覗き込んだ。熱でもあるのかと額に手を伸ばす。
「……夢見が悪かっただけ。大丈夫」
その手をそっと押し留めて言うと、青年――フィリベルト・ファリックは、些か納得のいかないような顔をしつつも大人しく手を引っ込めた。
「あんまり無理すんなよ。辛けりゃいつでも受け止めてやるっつったろ」
フィリベルトはそう言い、今度はシルフィットの手を引いてその華奢な身体を引き寄せる。逞しい腕が肩と腰に回され、顔を広い胸板に押し付けられて、彼女は溢れそうになる想いを必死に押さえつけた。絆されたくはなかったから。
「なぁ、そろそろ俺の求婚、受けてくれる気になったか?」
澄んだ湖水のような蒼い瞳を細めてこちらを見詰める、甘やかな笑みを浮かべた顔。続けられる言葉も、ここ最近のお決まりの流れだ。ただの娘だったなら、もうとっくの昔に頷いていただろうに。でも。
「何度言えば分かるの。私は森から出られない。その申し出を受ける訳にはいかないの。貴方、毎日ここから城に通う訳にはいかないでしょう。寿命だって……違うのよ」
これも、やはり決まりきった返事だった。
「でも、前より呪いの力は弱まってるんだろう。なら、きっと解呪の方法もあるはずだ。必ず探し出す。だから」
「……あまり期待させないで。辛くなるだけだから。もう、これきりにして」
そっと身体を押し戻すと、腕が緩められる。見上げれば、少し傷付いたような顔のフィリベルトと目があった。
「……また、来る。今日は帰るよ」
名残惜しそうに、シルフィットの緩い三つ編みに束ねられた黒髪を掬って口付けを落とすと、静かに扉を開けて出て行った。ぱたんと扉が閉じられ、ややあって、馬の駆けて行く音が遠ざかっていく。
それを聞きながら閉じられた扉に身体を預けると、そのままずるずると崩れ落ちた。顔を覆う。
(――寂しい)
◆◆◆
時を遡る事三百年前。
当時、国には一人の美しい姫がいた。陽光に透けて淡く輝く金髪に、紫水晶のような瞳、白雪の肌、ふっくらと艶やかに赤く色づく唇。御伽噺の妖精のように儚い美貌を誇る姫。
王妃には長年子が出来ず、歳を経てようやく側妃に産ませた美しい姫を、当時の王はことのほか溺愛した。歳を重ねるごとに美しさの増す姫を、王や側妃は蝶よ花よと甘やかして育て、結果、傾国の美女と謳われる程の美しい姫の、しかしその内面は恐ろしく傲慢で我儘になった。些細な理由で侍女や従者を糾弾しては追放し、人知れず処刑された者も数が知れない。十五の歳を数える頃にはすっかり魔女として恐れられるようになった。姫に甘い王は臣下の諫言にも耳を貸さず、ますます姫は増長するのみ。
ある時、姫は一人の凛々しい騎士に恋をした。姫は彼を我が物にと欲したが、既に互いに婚約者のいる身。これを邪魔に思った姫は、自らの婚約者である若き公爵に暗殺者を仕向け、亡き者にしようと企んだ。思惑通りに瀕死の重傷を負った公爵の元に、姫は騎士の婚約者であったシルフィットを呼び付けた。国一番の白魔法の使い手と名高い、城仕えの白魔導士であったシルフィットは、『さぁ、早く愛しいこの方を治してちょうだい』と迫る姫を前に愕然とした。公爵は既に事切れていたのだ。それは誰の目にも明らかだった。既に命無い者を癒すことなど出来ない。だが、姫はなおもシルフィットに迫った。
『どうしたの! 国一番の治癒魔法の使い手と名高いお前が、まさか治せないと言うのではないでしょうね』
側に控えて成り行きを見守っていた者達は、皆一様に悟った。
ああ、シルフィットは嵌められたのだ。公爵を助けられなかった罪を負わされて、彼女は罰せられるのだ。姫の欲する騎士を手に入れる為に。
その予想はそのまま事実になった。
『この無能でありながら国一番と称する痴れ者を捕らえなさい! 愛する人を見殺しにしたこの女を、私自ら裁いてやるわ!』
そうして魔力封じの枷を幾重にも付けられ、王都の北、黒の森に佇む古ぼけた塔の、怪しげな祭壇に括り付けられたシルフィットは、姫に命じられた魔導士達の手によって、恐ろしい呪いを掛けられた。
『ただでは殺さない。死ぬことすら許さない。死ねないまま、未来永劫暗い森でただ独りきり生き続けるがいいわ!』
――儀式の圧倒的な光量に焼き尽くされそうになりながら意識を失う直前に聞いたのは、加虐嗜好を満たして昏い喜びに浸る顔で笑う姫の哄笑――。
それから先の事は、あまりよく覚えていない。
気付いたら塔の外に打ち捨てられ、重い身体を引き摺ってなんとか森の外縁部まで出たものの、どういう訳か身体が強張り足が縫い付けられたように動けず、どうしても森の外へと踏み出せない。無理にでも足を進めようとすれば激痛が走り、それでようやく――森に封じられた事を悟った。
『未来永劫暗い森でただ独りきり――』
最早森から出る事は叶わず、日が傾き徐々に暗くなる森の中、仕方なく塔へと引き返した。古ぼけた調度類が申し訳程度にある塔の小部屋。埃っぽい長椅子に丸くなって夜を明かし、夜明けと同時に起き出して、野草を摘み、木の実を拾って腹を満たす。そんな生活が始まった。時折森の外縁部へ出ては踏み出そうとするが、そのたびに外へは出られない事を思い知らされる。十日と経たずに森から出る事を諦めた。
あとは水場を探し、食物になる野草や木の実を集め、時々魔法を使って獲物を狩り、塔の小部屋に残されていた古布を繕って寝具を作り、とにかくどうにか暮らせるだけの環境を整えた。
塔の地下に刻まれた魔法陣は、綺麗に消し尽くされていた。解呪の方法を探す術は初めから無かった。
時々気紛れに姫が現れては、まるで浮浪者のような暮らしのシルフィットを嘲笑った。ある時はかつてシルフィットの婚約者だった騎士を自らの夫として連れて来た事もあったが、孤独な生活にすっかりと表情が抜け落ち、なんの反応も示さなくなった彼女に興味を無くしたのか、三月もしないうちに来ることは無くなった。
そうして幾年かが過ぎ、鏡に映る自分の姿が老いる事なく若々しいままであることに気付いた時、掛けられた不老不死の呪いが真実であることを知った。
時は過ぎ、塔での暮らしが二十年を数える頃には、治癒魔法に長けた魔女の噂を聞きつけて、時折人が訪ねて来るようになった。この頃には既に、数年前の反乱で王家は滅び、姫は処刑されていた。姫と契った騎士の家も、王家と姻戚関係を結んで増長したことで、この時一緒に滅ぼされた。反乱軍を指揮していたのは、かつて姫と婚約を交わしていた公爵家の若き当主。あの日殺された公爵の、歳の離れた末の弟だったという。
国は穏やかになり、徐々に復興を遂げ、街には賑わいが戻って来る。往来する人で街道は賑わった。そんな中で、森で迷い衰弱した旅人や、探検と称して入り込み迷子になる子供らの数も増えた。それを治癒して外縁部まで案内する。そうして助けられた者達が、癒しの魔女の噂を流すのだった。
魔女の術を求めて森に立ち入る者達の来訪は、シルフィットにとって待ち遠しいものとなった。癒しを求める彼らの訪いは、森に封じられ、孤独に生きるしかない彼女にとっても癒しになった。彼らの中には、謝礼代わりにと新しい衣類や最新の書物、保存食を持ち込む者もあった。ここに来てようやく、人らしい生活が出来るようになり、シルフィットもまた彼らに感謝した。
でも。
中にはシルフィットを気に入ってか、幾度も訪ねて来る者もあった。不老不死の魔女とは言え、見た目はうら若き女。懸想する男も少なくは無かった。でも、そんな男達はむしろシルフィットの心を擦り減らした。初めのうちこそ足繁く通って甘い言葉を囁き愛を乞うが、彼ら自身が歳を重ねて出世する頃には己の人生に有用な妻を娶り、シルフィットの事など無かったかのように、塔への訪問がぱったりと途絶えるのだ。
元より森から出る事の叶わぬ身。彼らの手を取り共に生きるなど、到底不可能な事は端から分かっている。だが、それでも期待する心を止められないのだ。迎えに来る。共に暮らそう。そんな甘い言葉を掛けられれば、否が応でも期待してしまうというのに。
でも、いずれは来なくなる。他の女の手を取って、ここには二度と訪ねては来ない。そんなことが繰り返されるうちに、シルフィットの心はすっかり擦り減ってしまった。
そうして数百年が過ぎ、また一人の青年が現れる。
フィリベルト・ファリックという騎士に成り立ての、まだ少年とも言える年頃の男だった。森の外縁部に程近い村の盗賊討伐に派遣された平騎士の少年。盗賊の毒矢を受け、隊から逸れて解毒も叶わず森に倒れていた彼を助けたのが始まりだった。
『森の魔女の噂は本当だったのか』
治癒を施し、意識が戻ったところで滋養のある薬湯を飲ませると、礼謝とともにそんな言葉が返ってきた。
『婆さんだって聞いてたけど、こんなに若くて可愛いなんて知らなかった』
さらりと言われた台詞に赤面させられたのものだ。
そうしてフィリベルトは、今までの求婚者達のように、暇を見つけては通うようになった。ただ、『俺が必ず呪いを解いてやる』と口癖のように言うのが、今までの男達と異なった。どうやら本気で解呪の法を探しているらしかった。
でも、それを嬉しく思う一方で、どこか諦めていたのも事実だった。
年々彼の騎士服が装飾の凝った物になっていく。順調に出世しているらしかった。最近では胸元の勲章も増えた。
……終わりの日が近い。見目麗しい凛々しい騎士様。将来有望な出世頭。御令嬢方はきっと放ってはおかないだろう。そのうち、彼女らの誰かを見初めて、ここには来なくなる。そうなったら――。
◆◆◆
シルフィットは生成色の長衣に着替え、臙脂色のショールを羽織って、街で売る為に調合した薬を詰めた籠を持った。街の女達と変わらぬ服を纏えば、そこらの女と変わらない。誰も魔女とは思わない。
森を抜け、外縁部から街の中に足を踏み入れる。森の外縁部付近なら、多少なりとも街へ出られるようになったことに気付いたのはここ数年の事だった。さすがに数百年経って、呪いの力が弱まっているのかもしれない。もう数十年か数百年か――すれば、もしかしたら森から解放されるかもしれない。そんな期待をするが、もうその頃にはフィリベルトも居ないだろう。
フィリベルトは来ない。最後の訪問から四ヶ月。また来ると言っておきながら、あれ以来彼の訪いはぱったりと途絶えた。あっけないものだ。彼もまた、来なくなった。噛み締めた唇を隠すようにショールを引き上げ、街道を歩く。
ふと、街が騒がしい事に気付いてシルフィットは顔を上げた。街道沿いに群がる人々。そして隊列を組んで馬を進める濃紺の騎士隊。彼女ははっと息を飲んだ。騎士隊の先頭、一際立派な馬に跨り、ついぞ見た事もない程きりりとした顔つきで前を見据える青年。
――フィリベルト。
「見て、騎士団長様よ!」
「フィリベルト様、なんて凛々しいお姿なの!」
娘達の黄色い声が、耳に飛び込む。
騎士団長。そんなに偉くなっていたの。もう、手も届かない位だわ。
「この間の討伐作戦では、おひとりで飛竜を倒されたそうよ」
「まさに英雄だわ! ああ、素敵!」
「ねぇ、今回凱旋されたら、どなたかとご婚約されるのですって!」
「まぁ、誰かしら、姫様ともご懇意にされてるらしいけれど」
「あら、私は公爵家の御令嬢だって聞いたわ」
「どちらにしてもお目出たい事ね。ああ、羨ましいわ、フィリベルト様のお隣に並べるだなんて――」
足が、震えた。力が抜けて、崩れ落ちそうになる。
姫様――御令嬢――婚約――……。
弾かれたように走り出した。人垣を抜け、街道を横切り、ただひたすらに森の中を駆け抜ける。籠は落とされ、ショールは肩から滑り落ち、結わえた髪が解けて背中に舞う。それでも構わず走り続け、塔の扉を乱暴に開け放って後ろ手に閉めると、力無くその場に崩れ落ちた。
分かっていたことだった。いつかはこうなるのだと、ずっと前から分かっていた。フィリベルトもまた、今までの男達と同じように、いずれは自分の元から去るのだと。森に縛られ、歳も取らず、死ぬことさえ許されない、そんな自分と共に生きてくれる酔狂な者など居る筈が無いのだ。
ただ、やはり――少しだけ期待してしまった。君を必ず助けるからと、真摯な眼差しを向ける彼に期待してしまった。
でも、もう終わりだ。
「……もう、疲れたな……」
彼が終わりにしたのなら、私も、もう、お終いにしよう。
擦り減る心すらも無くしてしまったシルフィットは、のろのろと螺旋階段を上がった。小部屋の棚を開け、小さなラベルの付いた遮光瓶を取り出す。この数ヶ月眠れない日が続き、自ら調合した睡眠薬だ。長い時を生きる中で、耐性の付いてしまったこの身体に合わせた強い薬。水に数滴垂らせば事足りるこの薬を、全て飲み干せば、きっともう二度と目覚める事はない。死なない身体で、ただ永久に、何にも煩わせられずに眠り続けるだけだ。
もう、悲しい事も、寂しい事もなくなる。
蓋を開け、瓶の中身を一息に煽る。焼けるような濃度の薬が喉を通り、十を数える間も無く身体が痺れ、頭に鈍痛が走り、視界が白く染まる。力を失った指先から瓶が滑り落ちて割れる音を遠くで聞きながら――シルフィットの意識は白一色に飲まれた。
これで、ようやく楽になれる――。
◆◆◆
――柔らかい乳白色の世界。ふわふわとした綿に包まれるような温かさ。そして口の中に感じる仄かな甘み。
ふわふわ、ふわふわ。
まるで赤子が母親の腕の中で微睡むような。
夢の中だというのにひどく心地良い。
どこか遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえる。
漂う意識が浮上する。
誰かが呼んでる。誰か――泣いてる?
「……シルフィ」
あの人の声が聞こえる。あの人の、少し掠れた優しい低音が、名前を呼ぶ。
この心地良い世界で、あの人の声を聞いていられる――。
「……シルフィ。起きろ。なぁ……頼むから目を開けてくれよ」
必死に呼ばう声。掠れた声で、そんな必死に、
――ねぇ、なんで泣いているの。
「……シルフィ……!」
震える声が耳をうつ。柔らかい何かが唇に触れ、温かいものが唇を割って口内に差し込まれ、甘いものが流し込まれる。無意識に嚥下して、それから――ふと目を開けた。
ふわふわとした非現実的な世界から、急に引き戻される感覚。
そして、今にも泣きそうに歪められた蒼色の双眸と、視線が絡む。
「シルフィ……! 良かった……!」
横たわったまま頭を抱き込まれ、涙に濡れた頬が擦り付けられる。微かな嗚咽が耳を掠めた。
「フィリ、ベル、ト」
呼ぼうとした声は、掠れてうまく出せなかった。でも、彼は聞き取ったようだった。涙を拭ったその双眸に、ゆらりと怒りが滲む。
「この……馬鹿野郎!!」
朗らかで快活な話し方しか聞いた事が無い彼の、容赦の無い罵声が耳を貫いた。彼はその顔を蒼褪めさせ、綺麗な瞳の下には隈を作り、普段整えられている亜麻色の髪は、今はひどく乱れて跳ねている。騎士服の襟元はだらしなく緩められたまま、よく見れば上着にも皺が寄って薄汚れが目立つ。酷く憔悴した様子で、そんなに心配してくれたのかとぼんやりとした頭の片隅で思った。
「なんで……なんで毒なんか飲んだ! なんであんな馬鹿なことしたんだ!」
「毒じゃ、ないよ。ただの、睡眠薬、」
「睡眠薬を原液で全部飲んだら毒になるだろうが!」
罵声を聞きつけてか、申し訳程度のノックと共に扉が開き、仕立ての良い従者服姿の青年が顔を覗かせた。シルフィットと目が合うと青年は目を丸くし、直ぐに廊下に向かって誰かを呼ぶ声を上げた。
ばたばたと複数の足音が聞こえ、廊下が俄かに騒がしくなる。ばたん、と音を立てて扉が全開になり、白衣の男達や従者、侍女らが駆け込んできたのを見て、ようやくシルフィットは自分が見知らぬ部屋の寝台に寝かされていることに気付いた。
ここは何処、と問う間も無く二人は引き離された。フィリベルトは従者に押し出されるようにして寝台の脇に下げられ、シルフィットの両脇に白衣の男達が跪く。病衣を開けて聴診器を当て、脈を取り、それから片手で全身を撫でるように滑らせて魔力探知を掛けた。一言二言シルフィットと短い言葉を交わすと、白衣の男は立ち上がり、安心させるような柔らかい笑みを浮かべてフィリベルトと向き合った。
「診察の結果、目立った後遺症等も見当たりません。解毒薬が効いたようですね。薬耐性がおありなのも好影響だったようだ。ただ、衰弱が酷いので、当面は安静にされた方がよろしいでしょう。病後食のレシピは後ほどお渡ししますので、具を取り除いたスープ等から始めさせてください」
「……ああ、わかった。ありがとう。世話になった」
医師らは退室し、従者と侍女もまた、何かありましたらお声掛けくださいと言い置いて出て行った。室内に静寂が戻る。
フィリベルトは溜息を吐くと、寝台脇の丸椅子に腰を下ろした。
「ここは俺の屋敷だ。王都のな」
「……屋敷? 王都? どうして、」
森から、森の外縁部、街道沿いの村までしか出入りできない筈なのに。
「お前の呪いを解いた」
「え」
シルフィットは息を飲む。
「どういう……こと?」
「城の資料室に、当時の記録の一部が残されていた。そこに辿り着くのに何年もかかった。平騎士では立ち入り出来ないが、出世すれば閲覧許可が下りる事が分かったんだ。だから、必死だったよ。頑張って手柄を立てて、ここまで来た。騎士団長まで上り詰めてようやく全ての資料を閲覧できるようになった」
フィリベルトはシルフィットの白い手を優しく撫でる。
「……王女に命じられてお前に呪いを掛けた魔導士達な、ちゃんとお前が助かる道を残しておいてくれてたんだ。王女に見つからないように、資料を分散させて、何重にも閲覧制限の術をかけてまで」
撫でられていた手が強く握られる。
「いつか本気でお前を愛する者が来たら呪いが解けるように、術式を一部書き換えていたそうだ。治癒の魔女の噂を流したのも、彼らなんだよ。お前が寂しくないように、森に行く人間を増やそうとしていたんだ」
シルフィットは目を見開いた。
悪く思うな、と最後に声を掛けた上司。
気まずそうに、でも、術を展開する直前、一瞬だけこちらを見てくれた仲間達。
ずっと長い事忘れていたあの時の記憶が、蘇った。
彼らは――王女には逆らえないと言いながら、それでもシルフィットの為に危険を冒してまで、逃げる道を用意してくれていたのだ。
「ここまでくるのに、何年も待たせちまった。ようやく解呪方法を知って、これからって時に邪竜の討伐命令が下りてな。急ごうにも相手の数も場所も悪くてな、気付いたら四ヶ月だ」
握られていた手が、フィリベルトの唇に寄せられる。触れる指先が、熱い。
「凱旋パレードも祝賀会もさっさと切り上げて、いざ求婚だと来てみたら、毒を煽って倒れてるお前を見つけた時の俺の気持ちがわかるか?」
――もう、二度と目覚めないかと思ったんだ。
語る声が、震えて掠れた。形の良い凛々しい眉が、苦悶の形に歪められる。
「なぁ、なんで毒なんか飲んだ」
「……だって、」
シルフィットは目を逸らした。口が乾く。
あの日、あの凱旋の日に見た、まるで知らない人のように凛々しい出で立ちのフィリベルト。華やぐ娘達が口にした、婚約の噂。
「凱旋したら、姫君か公爵家の御令嬢と婚約するんでしょう。婚約を控えた身で、自分の屋敷に他の女を囲っているのは外聞が良くないのではないの?」
あれだけ期待させておいて、捨てたから。
だから、終わらせようと思ったのに。
声が震え、涙が零れる。
「なんで、私なんか助けたの。捨てるつもりなら、どうしてほっといてくれなかったの!」
目を見開いたフィリベルトは、シルフィットの手を握ったまま、片手で頭を抱えた。
「お前な、さっきの俺の話ちゃんと聞いてたか。凱旋後、俺が求婚しに行ったのはお前だ、シルフィ。姫とか御令嬢とか言うのは、俺の部下の方の話だよ。噂話がどっかで混線してるな」
シルフィットの身体がびくりと強張った。フィリベルトは身体を傾げ、両肘を寝台の上につく。髪と髪が触れ合いそうなほどに近い距離から真っ直ぐ見詰められて、息が詰まった。
「呪いが解ける条件も、お前を本気で愛する者が来たら、って言ったろうが。他の女にも気があるような奴なら、そもそも呪いが解けたりなんかしないだろ。移動範囲が森を越えて周辺の街まで広がったのがここ数年だってのもな、その、なんだ……俺がお前に本気で惚れたから、数年前に初めて会ったその時から呪いは解け始めてたんだ」
繋がれたままの手が熱い。
フィリベルトはそっと身体を起こして立ち上がると、寝台の傍らに跪き、繋いだままのシルフィットの手を恭しく引き寄せる。
「シルフィット。俺をお前の騎士にしてくれないか。生涯お前だけを愛し、お前と共に生きる事を誓おう」
――刻の呪いによって長く停止していた生命活動が再開し、体中に生命力が行き渡るような不思議な感覚が身体を巡った。
呪いから、真に解放されたのだと悟った。
「……返事は?」
亜麻色の髪の騎士は、甘やかに微笑んだ。
魔女の目から、雫が零れ落ちる。
「……喜んで。私の騎士様。私も生涯貴方だけを愛し、貴方と共に生きる事を誓いましょう」
フィリベルトは手の甲に口付けを落とすと、寝台の縁に腰掛けた。空いた片手でシルフィットの頬に触れ、滑らせるようにして親指の腹でその唇を撫でた。視線が絡み合う。覆いかぶさるようにして身を屈めたフィリベルトは、シルフィットの少し乾いた唇に、自らのそれを重ねた。ふわり、と甘い香りが口内に広がった。
「甘い……」
「……ああ。解毒薬だ。さっきまで、口移しで飲ませてたから」
「うわあ……」
途端に血の巡りが良くなった顔を思わず隠すと、優しくその両手を拘束された。
「隠すなよ。よく、見せて。俺の、大事な、」
言葉は最後まで言われる事はなく、再び唇を塞がれた。温かい舌が唇を割って口内に侵入する。絡められた舌先に口内を蹂躙され、呼吸すら奪われるように荒々しく求められて、喉の奥から圧し潰したような喘ぎが漏れた。
「……続きは体調が戻ったらだな」
少しばかり紅潮した顔で、艶やかな色を滲ませた声で呟かれて、シルフィットは堪らなくなって肌掛けの中に隠れるより他なくなった。
室内に、若き騎士団長の弾けるような笑い声が響き渡った。
◆◆◆
王都の北、黒い森の古ぼけた塔。
かつて癒しの魔女が棲んだとされるその塔は、主が去ると同時に朽ち果て瓦礫と化した。
英雄と名高い騎士団長は、癒しの魔女を妻として連れ帰り、皆を驚かせたという。
寂しい魔女は、今はもうどこにもいない。
ただ、愛しい騎士の腕の中、幸せに微笑む癒しの魔女が居るばかりだ。
お読みいただきありがとうございました。