前編
(1)
昔々、あるところに、国で一番の名医であり、神と謳われる青年がいた。
彼の治療に掛かれば、不治の病を患った明日をもしれぬ命の者も、大怪我によって全身の血の大半を失い、死を迎えるのもあと僅かという者も、たちまち虫の息だった呼吸を吹き返し、五体満足の元気な身体を取り戻す、とか――
王都の煌びやかな宮殿の傍にある、彼の庵には毎日昼夜を問わず、沢山の患者が押しかけてくる。
しかし、実際に青年が治療を施すのはその中でもほんの一握り、残りの患者は全て追い返してしまう。
青年が治療を受けようと思う基準、それは決してお金などではなかった。
以前、田舎の有力者から目も眩むような大金を積み上げられたが、彼が掲げている基準には到底当てはまらない患者だったため、すげなく追い返したそうな。
それでも一向に減らない患者数に、青年はいささか、否、随分とうんざりしていた。
(――僕は、珍しい病を抱える患者の治療だけに専念したいんだよねぇ……)
世にありふれた病や怪我の治療はもうすっかり飽きてしまった。
誰の手にも負えない、珍しい病をどのようにして治していくのか、ひたすら試行錯誤し、悪戦苦闘する中で快癒させていくのは、何事にも代えられない楽しみなのさ。
僕は、その楽しみを味わう為に、医者になったのに。
青年の願いも虚しく、庵に駆け込んでくるのは、どれもこれも似たり寄ったりな、ありふれた病や怪我ばかり。
何てつまらないのだろうか。
そんなことを思いながらも、青年は今日も庵の玄関先に出ては『どんな病も必ず治します。※ただし、当方の条件に添う方のみ※』という、立て看板を出しに行った。
その日も、青年の意に沿う様な患者は訪れず、追い返す口上のみをひっきりなしに告げ続けた事への疲労感ばかりが増していく一方。
空高く中天に昇っていた太陽が少しずつ西へと傾いていく。
青年が座している、診療椅子の傍の窓から差し込む光の色がオレンジ掛かってきた頃、いつもより早いが、看板を庵の中に仕舞ってしまおうか。
(今日もまた、不毛な一日を過ごしてしまったなぁ……)
心の中で大きくぼやきながら、玄関の扉のノブに手を掛けた、その時。
カチャリと、ノブが反対方向に回った。
僅かに開いたドアの隙間から髪の薄い初老の男性が、おどおどと不安げな顔付きで中を覗き込んでいる。
「あの……、こちらでは、どんな病でも治して下さる、と聞きましたので……」
「はい。この私の手に掛かれば、この世の難病全て快癒させることが可能です」
「そ、そうですか……」
「立ち話も何ですし、どうぞ中へお入りください」
仕事の顔に戻った青年は、男性に中に入るよう、ドアを大きく開いて促す。
ドアを開いたことにより、男性の隣には彼と同じような年頃の女性、恐らく彼の妻だろう――、と、玄関ポーチの隅っこで身を竦ませている若い女性――、きっと彼らの娘に違いない――、が佇んでいた。
「マリー、先生がお呼びよ。ほら、早くこっちへ来なさい!」
マリーと呼ばれた女性は、ひどく怯えた様子でおずおずと扉まで近づいて来る。
どう見繕っても二十歳を越えているだろうに、随分と幼い雰囲気を醸し出している。
理由は不明だが、すんすんと鼻を鳴らして泣きべそをかいているから余計にそう見えてしまうのだろう。
大方、娘が何らかの病に罹っており、両親に連れられてここを訪れたに違いない。
(診察する前からこんなに泣かれていたら、もしも治療を断った場合……。うわぁ、考えるだけでもう、面倒臭いや……)
大体、やけに重症振っている者に限って、実は全然大した病(とも言えない)ではない場合が非常に多い。
話を聞く前からすでに断る算段を立てつつ、青年は親子を診療室に案内したのだった。
(2)
「えーと、今日はどのような理由でここへいらっしゃったのですか??」
診察室に戻った青年は、向かい合わせで並んで丸椅子に座る親子に尋ねる。
父と母の間に挟まれて座るマリーは、まだ泣き続けている。
この様子だと、まともに受け答えなど出来ないかもしれない
ひょっとすると痴人の類なのだろうか、という疑いが、青年の頭にふと擡げ始める。
「実は、娘の事で、相談がありまして……」
「どのようなご相談で??」
まさか、痴人の知能を常人と同じくらいのところまで引き上げて欲しい、とか言う訳ではないだろうな、と、僅かに身構える。
「見ての通り、お分かりになるかと思いますが……。娘は、このように四六時中泣いてばかりいるのです。幼い子供の頃は至ってごく普通の、内気で引っ込み思案の口下手な子というだけだったのですが、思春期を過ぎた辺りから、いつの間にかこのように泣くことしかできなくなってしまったのです。原因は分かりません。本人に問い質そうとしても、涙を流すばかりでろくに言葉を発してくれません。それでも、この間までは仕事をして収入を得て一応は生活が送れていたので、このままでもいいか、と思っていました」
「仕事??」
「はい。見世物小屋の檻の中で『世にも珍しい泣き女』として、一日中町の広場で泣き続けていました」
「……それは……」
何て酷い、親なのに何も感じないのか、と抗議しかけた青年の言葉に、父親は慌てて掌を振って弁解がましく叫んだ。
「あ、あくまで、娘自らが見世物小屋で働きたい、と言ったのです!わ、儂だって、娘が笑いものにされるのは辛かったんです!!」
夫の言葉に同意を示すように、妻もコクコクと何度も大袈裟な動きで頷いてみせる。
マリーはと言うと、相変わらず俯いて嗚咽を漏らしている。
「は、話を元に戻しましょう!その見世物小屋が、先月いっぱいで潰れてしまいまして……、娘の働き口がなくなってしまったんです。そうなると、私達にもしもの事があった場合……、娘は生きていくための糧を失ってしまいます。ですから……」
「娘さん……、マリーさんの泣き続ける病を止めて欲しい、ということですね」
はい!と、力強く返事をしたマリーの両親に、青年はにっこりと爽やかな笑顔を見せつける。
榛色の瞳の奥に有り余る好奇心と探求心をちらつかせて。
(……これは、久しぶりに胸が熱くなる症例!!うわぁ……、治療に掛かるのが物凄く楽しみだなぁ!!)
「分かりました!是非とも、マリーさんの涙を、この僕が止めてみせましょう!!」
「ありがとうございます!ありがとうございます!!こちらこそ、娘をよろしくお願いします!!」
青年の言葉と微笑みを受けて、両親はワッと喜びの声を上げ、何度も何度も青年に礼を述べる。
間に挟まれたマリーの、絶望に満ちた暗い表情と流す涙の量が増えてしまったことに誰も気付く由もなく。