09話 声の正体
はっと我に返った僕は、あわてて両手で頭を抱えた。
これ以上蹴られたら、大けがじゃ済まないかもしれない。
しかし、僕の身体にそれが襲ってくることは無かった。
さっきまで頭にガンガン響いていたはずの、男たちの笑い声も聞こえない。
おそるおそる手を下ろして、辺りを見回した僕は愕然とした。
カーテンも閉めない大きな窓からは、いつかの夜のように車のヘッドライトが行き交うのが見える。
ここは……僕の部屋だ。
間違いようが無い、僕はいつの間にか自室のリビングに明かりも点けずに立ちすくんでいたのだ。
夢……のはずは無いな。
さっきまで地面に転がされていたような埃と擦り傷だらけの服。
それに、身体中が蹴られた痛みに悲鳴を上げている。
コンビニの前で、男たちに袋叩きにあっていたのが、ついさっきのような生々しさだ。
誰か警察でも呼んでくれたのだろうか。
それにしては、真っ暗な部屋で一人で立ってるなんて、どう考えてもおかしい。
これではまるで、僕が気を失ったまま、一人で歩いて帰ってきたみたいじゃ無いか。
何か得体の知れない物に直面したような恐怖と不安感が、心の奥から這い上がってくる。
と、とにかく何かして落ち着こう。黙っていると押しつぶされそうだ。
まずは部屋の明かりを点け、カーテンを閉める。
そこで、自分が靴のまま室内を歩き回っているのに気付いて、慌てて脱いだ靴を玄関へと放り出した。
あちこちについた靴跡を雑巾で拭って歩いてるうちに、頭が少々冷静に戻ったのか、ふと思い出す。
そうだ、声だ!
気を失う前に聞いた声、力を貸すとか何とか言ってたな。
あんな状態だったっていうのに、やけにハッキリと聞こえたあの声は、一体どこからだったんだろう?
『ようやく思いだしたか。察しが悪いにも程があるぜ』
突然、頭の中に響いた声に、僕は文字通り飛び上がった。
「誰だ! どこに居る!」
こいつだ! あの時の声!
どうやって僕の家を知ったのかわからないが、僕をここまで連れてきて、どっかその辺に隠れているに違いない。
押入れか! バスルームの中か! それとも……
『そんなところにゃ居ねえよ』
再び声が聞こえた。
頭の中に直接響くような声。さらに、僕の考えてる事が、この声の主には筒抜けになっている?
そんなわけがあるか!
むくむくと頭をもたげてくる嫌な予想を僕は必死で否定する。
『わざわざ挨拶にも行ってやったのに、もう忘れちまったのか? つれねえなぁ』
何の前触れもなく、いきなり視界が暗転する。
気付くと、僕は今までと全く違う場所に立っていた。
「夢じゃ……なかったのか」
願わくば、これも夢であって欲しいと思いつつ、僕はそう呟いた。
ゆっくりと生物的に明滅する赤、うっすらとたゆたう霧。
そこは、昨日見た不思議な空間そのものだった。
いつの間にか、僕の目の前には、あのにやにや笑いを浮かべた奴が立っていた。
相変わらず僕と同じ顔、背格好、そして服装。
違うのは、僕の服が埃と擦り傷だらけなのに対して、奴のは着古してはいるものの、きれいなままということだ。
『もう初めましてじゃなくて良いだろ? 四回目だしな』
四回目?
昨日の晩と、今日のコンビニ前と、今と……これで三回。あと一回は……。
『正解だ』
僕の想像を裏付けるように、奴がそう言った。
「やっぱり、あの時に僕をけしかけたのは、お前だな!」
あの会場で寺島圭司を前にして迷っていた僕を後押しした声。
観客たちの狂騒に飲まれてわからなかったが、改めて考えてみると、喋り方といい声といい、こいつに間違い無い。
『けしかけたとは失礼なやつだな。どうせあの話に乗ったってことは殺す気まんまんだったってこった。オレは後悔しないように、ちょっと後押ししてやっただけだぜ?』
僕は思わず言葉に詰まった。
あの時、こいつが後押ししなければ、僕は一歩も動けずあの場に立ち竦んだまま全てが終わっていたかもしれない。
結果的に人を殺めることが無かったとしても、たぶん僕は今とは違う後悔を抱えて生きていくことになっただろう。
しかし!
「だいたい、お前は誰で、ここは一体どこなんだ!」
迷いに決断を出せないまま、僕は強引に話題を変える。
このままだと、奴の言う事を全て鵜呑みにしてしまいそうだ。
それだけは危険だと、さっきから僕の頭の中で警報が鳴り響いていた。
『自己紹介はしたはずだったんだがな、まあいいや。オレは唯野誠一郎だ、そしてここは、お前の意識の中ってやつで、オレの住処でもある』
とても信じ難い話ではある。
が、この不可思議な空間といい、僕自身の考えたことが奴に筒抜けであることといい、否応なしの説得力を持って僕を攻め立てる。
外から入って来たのか、それとも僕の中から分かれたのか、それはわからない。
しかし、目の前のこいつは、間違いなく僕自身だ。
「目的は、なんだ?」
とにかく、こいつが何故僕にそっくりの姿で、しかも僕の中に居座ってるのか。
それだけは、どうしてもはっきりさせておきたい。
『目的か? そうだな……お前さんを助けるランプの魔人ってとこか』
「ふざけるな!」
こいつのふざけた口調は、何故か僕の神経を過剰に逆撫でする。
『ふざけてなんかいねぇさ。まあ聞け、これは取引だ』
「取引だって?」
『そうさ、お前にとっても悪い話じゃないと思うぜ』
てっきりもっと自分勝手な言い分だと思っていた僕は、取引という言葉に少々興味をひかれた。
話くらいは聞いてやっても良いかもしれない。
そんな風に考え始めていた。
「どんな取引だ?」
『そうこなくっちゃな』
警戒心を解かない僕の声色など気にする風も無く、にやりと笑みを浮かべる奴。
『お前さん、あまり強気な態度に出られないせいで、色々と理不尽な思いをしてるだろう?』
「そんなことは……」
『誤魔化したってだめだぜ、例えばさっきのコンビニ前の話だ』
さっきの悔しさが思い出されて、自然と言葉に詰まる。
『威勢は良かったんだがな、あれじゃあだめだ』
「お前なら、もっとうまくやるって言うのか?」
『もちろんだ。さっきの奴らも、お前の代わりにきっちりと礼をしといてやったぜ』
ざわりと毛が逆立った。
こいつの言うことが本当なら……。
「お前……もしかして、僕の身体を動かせるのか?」
『ああ、もちろん条件付きだがな』
奴が、あっさりと肯定する。
それならば、昨日の夜も、そして今日も、いつの間にか自分の部屋に居る辻褄が合う。
しかし……。
「あいつらはどうなったんだ?」
『まさか逆襲されるとは思わなかったんだろうな、驚いた顔が見ものだったぜ。今頃は病院にでも駆け込んでるんじゃねえか?』
「なんてことをしてくれたんだ」
『おや? てっきり溜飲が下がったと思ったんだが、違ったか?』
ドキリとした僕は、思わず奴の顔をまじまじと見つめた。
あの理不尽な暴力に対して制裁が下った。
僕の中にある暗澹とした気持ちの一部に、喝采を上げる相反する部分があるのを自覚したためだ。
『な? 悪い事ばっかじゃねえだろ?』
僕は再び言葉に詰まった。
『それにな、お前さえ望めば、お前の起きてる時に交代もできるんだぜ? 最初にランプの精って話をしたのもそのためだ』
つまり、僕が望めばいつでも助けてくれるってわけか。
なんとも都合の良い話だな。
「逆に僕が望まなければ、勝手に交代できないって言うのか?」
『まあ……そうだな、そんなとこだ。さっきみたいに意識を失ってる時は別だが心配すんな、あまり無茶はしねえよ』
ちょっと引っかかる言い方だけど、嘘は無さそうだ。
信用できないという思いと、待ち望んでいた餌をぶら下げられたような誘惑が、頭の中で葛藤する。
こいつの言いなりになってはいけないと危惧する気持ちはある。
しかし、理不尽な思いを跳ね除ける力というのは、僕にとって抗い難いものだった。
「……わかった」
『取引成立だな』
「ああ」
一瞬、取り返しのつかない事をしたのではないかという後悔が頭をよぎるが、それもすぐに彼方へと消え去った。
『じゃあな、必要になったら呼ぶんだぜ』
満足そうに一つ頷いた奴が、相変わらずのにやにや笑いを浮かべながら片手を上げた。
その途端、ふっと、身体が浮き上がるような感覚。
目を開くと、いつの間にか自分の部屋に戻ってきていた。
左手を自分の胸辺りに当ててみる。
今度は夢じゃない。
自覚できた今ならわかる、奴は確かに僕の中に居る。
一抹の気持ちの悪さと、それを圧倒するかのような歓喜。
相反する感情が僕の中で渦を巻いていた。
不安感と期待感、様々な感情に苛まれながら、僕は奴を何て呼ぼうかなどと、ぼんやりと考えていた。