08話 社長の愛娘
どこか遠くで聴こえる鳥の声、容赦なく差し込んでくる光。
朝、だな。
頑強に抵抗する瞼をむりやり押し上げると、いつもの自室のベッド。
まぶしいのは、カーテンを閉め忘れたせいらしい。
昨日は、どうやって帰ってきたんだっけな?
どうも記憶が混乱してるみたいで、良く思い出せない。
僕は、筋肉痛に悲鳴を上げる身体を無理やり起こす。
まるで水でもかぶったように、寝汗でびっしょりだ。
なんとも気持ちが悪い。
ええっと、昨日は工場で仕事をして、夜は社長の家で晩ご飯をごちそうになって、それで……。
床に脱ぎ散らかした服を眺めながら、昨夜の記憶を順にたぐっていく。
そうだ、まだ終電が間に合うからって、歩いて帰ったんだったな。
はっとして、僕は自分の胸に手を当てた。
僕に生き写しの男、霧の中で明滅する赤い光、言いようのない異物感。
こうして改めて考えてみると、とてもではないが現実離れしすぎてて、信じられるような代物では無い。
「くだらない、おとぎ話じゃあるまいし」
あんなもの、夢に決まってる。
たぶん、酔いと疲れで覚えてないだけで、きちんと帰ってこれたんだろう。
自分のベッドで寝てたのが、何よりの証拠じゃないか。
まずはシャワーでも浴びて、頭をすっきりさせよう。そうすれば、こんな事どうでも良くなる。
僕は、夢の残滓を振り払うように、ことさら勢い良くベッドから降りた。
工場での作業は、昨日に引き続き倉庫の整理だ。
乱雑に積み上げられた部品は、それこそ指先で摘める電子部品から、一人ではびくともしないような大型の装置まで様々だ。
興味のある物事に集中すると、回りが見えなくなって、片付けどころでは無くなるんだと社長が昨日話していたな。
正直なところ、どれもこれも僕には用途がさっぱりわからない。
これだけ色々な物を一人で扱えるとは、やっぱり叩き上げの人は凄いもんだな。
さて、選り分けたこの箱は、どこにしまったら良いかな?
「あ、それなら向こうの棚に同じようなのがありますから、そこにまとめたら良いですよ」
箱を持って、きょろきょろしてた僕に意外な所から助け舟が入る。
振り向くと、社長の娘さんが、お茶の乗ったトレイを片手に倉庫の戸口に立っていた。
「おつかれさまです。お茶を淹れましたから、一息いれませんか?」
トレイを持ったまま、僕の方に歩いてきた。
足元に色んな物が落ちてるのに、よく転ばないもんだなと、妙な所で感心する。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます。ええっと……」
差し出された湯のみを受け取りながら、僕は内心冷や汗をかいていた。
なんてことだ、昨日の夕食の時に聞いたはずなのに、名前が全く思い出せないぞ。
「あ~、もしかして名前覚えてもらえて無いんですか? ちょっとショックだなぁ」
「いや~、人を覚えるのは自信があったつもりなんですが、不覚にも……」
ちょっと拗ねたような顔をする娘さんに、僕は思わず頭をかく。
いやはや格好悪いところを見せることなってしまった。
「ふふ、冗談ですよ。ゆうべは、お父さんに、だいぶ飲まされてましたものね」
「記憶を無くすほど飲んだつもりは無かったんですが、面目ないです」
「気にしないでください。昴です、改めてよろしくお願いしますね」
娘さんは、にっこり笑って自己紹介をしたが、その表情がすぐに微妙なものに取って代わる。
「女の子で昴なんて、変わった名前だと思ってませんか?」
「そんなこと無いですよ、きれいで良い名前だと思います」
これは本心だ。
実際、男女どっちでも似合う名前で、今まで学生時代のクラスメイトや仕事先なんかで両方とも会ったことがある。
「ありがとう、ちょっと安心した。お父さんが、私が産まれる前から決めてた名前らしくて、女の子だって言われても無理に押し切っちゃったらしいの」
「お父さん……あ、いえ、社長は星が好きなんですか?」
「そりゃあもう、本当かどうか知らないけど、この仕事をやってなければ、天文学者になりたかったっていつも言ってるの」
頭の中で、白衣を着た信楽焼き……もとい、社長の姿を想像してみる。
うん、やっぱり作業着の方が似合ってる気がするな。
「ちょっと前に探査機か何かが帰ってきたってニュースになってたでしょ? あれ見て、次のには、ワシの作った部品を採用してもらうんだって大騒ぎになっちゃって。ここがこんな状態なのも、半分はそのせいなんですよ」
顔にしわを寄せて社長の口真似をする姿に、思わず苦笑が漏れた。
「昴さんは、社長のことが好きなんですね」
「あの……年上の人に『さん』付けされると、なんだかくすぐったいです。『ちゃん』付け、いっそ特別に呼び捨てでも良いですよ」
「いや、それはさすがに社長に怒られそうです。じゃあ、昴ちゃんで」
「はい、じゃあそれでお願いしますね」
何が嬉しいのか良くわからないが、昴ちゃんはすこぶる上機嫌だ。
「うちはみんな家族みたいなもんですから、他人行儀は良くないですよ?」
これは本当にそう思う。
まだここに通うようになってから二日目だが、良い意味で雰囲気が緩い。
銀行勤めの頃のビジネスライクな感じではなく、どちらかというと学生時代に近い。
ときおり息苦しいと思いながら働いていた僕には、こっちの方が合うかもしれないな。
「仲が良いのは結構なんだが、唯野くん、手が止まってるぞ」
僕と昴ちゃんが驚いて振り向くと、いつからそこに居たのか、倉庫の入り口に社長が立っていた。
口元が、にやにや笑っていて、咎めるというより、ちょっと悪戯してみたという感じだ。
「もう! 唯野さんは、ずっと作業しっぱなしだったんだから、ちょっとくらい休んでも良いじゃない」
慌てて湯呑を置いて作業に戻ろうとした僕を見て、昴ちゃんが頬を膨らませた。
「いや、すまんすまん、邪魔するつもりな無かったんだがな。それより昴、おまえ夕飯の買い物頼まれてなかったか?」
「あっ、いっけない、忘れてた! ごめんなさい唯野さん、それじゃあ頑張ってくださいねっ!」
トレイを抱えた昴ちゃんは、大慌てで、ぱたぱた走って行ってしまった。
ぴょんぴょん跳ねるポニーテールが、なんだかリスみたいで思わず笑みが漏れる。
「良い娘さんですね」
「ああ、遅くにできた子供でな。まさに目の中に入れても痛くないってやつだ」
社長が、ちょっと照れたように後ろ頭を掻いた。
あの年頃だと、自分が遊ぶのに一生懸命だったり、親を下に見てたりと言った話も少なく無いのだが、いまどき珍しい子だと思う。
「唯野くん、断りなく娘に手を出したら、承知せんからな」
「いえ、心配ありませんよ、大丈夫です」
「そ、そうか……」
思わず強い口調が出てしまったせいで、社長が面食らった顔をしている。
冗談なのはわかっていたが、止められなかった。
「あ、いえ……すみません」
「いや構わんよ、わけありなんだろ? そうじゃなきゃ銀行勤めのエリートさんが、こんな中小の工場に流れてくるわけが無え」
響子のことは話して無いはずだが。
僕は社長の察しの良さに舌を巻いた。
そして、触れられたくない所に気を使ってくれるのは、とても嬉しかった。
「ま、さっきは余計なこと言っちまったが、無理せずやってくんな。二日目で倒れられたら申し訳ないからな」
社長は、そう言い残すと工場の方へと戻って行った。
そんなこんなで、今日一日の仕事を終えた僕は、帰宅の途についていた。
箱を上げたりおろしたり、右に左に運んだりと、慣れない仕事で足腰が運動不足であることを主張している。
明日からジムにでも通うか。電車を降りながら、そんなことを考える。
夏も終わり、秋の気配を色濃く感じさせる通りは、もうとっぷりと日が暮れていた。
普段とちょっと違う道を通って、コンビニへと向かう。
今日の晩飯を調達するためだ。
料理ができないわけでは無いんだが、この調子ではキッチンに立ってるだけでもきつそうだ。
添加物が云々とか語るほど健康に気を使ってるわけでは無いし、今日は弁当でも買って簡単に済ませることにしよう。
昼夜を問わず、煌々と明かりを灯すコンビニの傍らには、何故か三人ほどの男がしゃがみこんでいた。
男たちが着ている、刺繍入りの派手な色をしたジャンパーが目に痛い。
この手の輩に関わるとロクなことは無い。
顔をしかめて踵を返そうとした時には、もう遅かった。
「よう、そこの兄ちゃん!」
男の一人が僕の姿に気づき、立ち上がってこちらに歩いて来る。
僕は内心で舌打ちをした。
今さら無視するわけにもいかないし、こんな調子では走って逃げるわけにもいかなそうだ。
だらしない歩き方のその男は、威嚇するように、必要以上に僕に近づいて立ち止まる。
「なあ、俺たちサイフ無くしちまって、帰りの電車賃が無えんだ」
男の意図を悟ったのか、残りの二人が、にやにや笑いながら立ち上がった。
「悪いけど、金貸してくんねえかなぁ」
まるで肉食獣のように、歯を剥きだしにしてくる。
ヤニで黄色く汚れ、おまけに息もひどい匂いだ。
「なあ、人助けだと思ってよぉ」
「ほんの紙切れ一枚か二枚で良いんだ、頼むぜ兄ちゃん」
残りの二人が、僕を取り囲んでくる。
なにが「ほんの」だ、返す気など無いくせに。
しかも、こいつらが今まで座っていた場所には、酒の缶や菓子の袋が散乱している。
財布が無いなんて嘘なのは一目瞭然だ。
「持ち合わせが無いんです、申し訳ないですがお金は貸せません」
なるべく男たちを刺激しないように、慎重に言葉を選ぶ。
「あ? 嘘ついてんじゃねえぞ。財布出してみろや」
「なんでそこまでしなきゃならないんです?」
「確認するためだよ、口応えしてんじゃねえよ」
正面の男が、よこせとばかりに僕に向かって手を出した。
なんでこんな社会に迷惑ばかりかけてるような連中に絡まれてるんだ。
僕は何も悪いことはしてない。
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「そんな必要はありません。どいてください」
「あ? そんなん通るかよ」
「どけって言ってんだ!」
不意に爆発した僕の剣幕に、男たちがぽかんと口を開ける。
驚いたのは僕自身も同じだ。
こういうとき、普段なら徹頭徹尾下手に出て、なんとか見逃してもらおうとしてたのだが、何故か理不尽に対して湧き上がった怒りを止められなかった。
まるで誰かに背中を押されたような気分だった。
「てめぇ、ナメた口きいてんじゃねえぞ!」
正面の男が、僕の胸倉を掴んで引き寄せる。
その手を引きはがそうとするより早く、拳が僕の頬にめりこんだ。
二、三歩よろけて、そのまま倒れる。そこへ所構わず容赦なく叩き込まれる爪先。
げらげらと笑う男たちの声を聞きながら、僕は身体を丸めたままどうすることもできなかった。
全身を痛みが走る、もうどこを蹴られているのかもわからない。
しかし、内から溢れ出る怒りは、それさえも忘れさせるほどだった。
こんなことが許されてたまるか!
『やっちまえよ』
できることならやってる! こんな理不尽が通るなんておかしいじゃないか!
『なら手を貸してやるぜ』
誰だ? どっから話してる?
聞き覚えのあるような声に意識を向けたその瞬間、こめかみにめり込んだ爪先のあまりの衝撃に、僕の意識は闇の底へ落ちて行った。