03話 狂気への誘い
プレシャス・スタッフ本社での契約から二週間。
僕は彼らが指定した集合場所にやってきていた。
驚いたことに、場所はプレシャス・スタッフ本社の地下駐車場。
しかもそろそろ日付が変わろうという深夜だ。
それにしても、こんな所に呼びつけて、どうしようというのか。
他に誰か居ないか、辺りを見回してみる。
昼間は一般に開放されて賑わっているであろう駐車場も、いまはがらんとして、コンクリートに囲まれた無機質な空間が広がるだけだ。
ひんやりとした空気だけがゆっくりと流れる闇の中。
ぽつりぽつりと寂しげに灯る明かりが、まるで葬列のように見えて、思わず身震いする。
何となく肌寒さを感じてジャンパーの前を閉め、両手をポケットに突っ込む。
右手に当たる、プラスチックの小さなカードが、これから始まるであろうことを否応なく想起させた。
あの契約が終わった次の日、僕は早速、指定口座に金を振り込んだ。
元々は響子との結婚資金にと貯めていたものだが、それも永遠に叶うことは無い。
しかし、奴に裁きを下すための資金になるというなら、まだしも有意義な使い方かもしれない。
契約書には、日時、場所は振込みが確認されてからと記載されていた。
またメールでも送られてくるのかと思っていたら、数日後に堂々と普通郵便で送られてきたのには驚かされた。
少々厚手ではあるが、ごく普通の窓あき封筒。
中身はICチップのついたプラスチック製のカードと説明書が入っていた。
プレシャス・スタッフは、取り扱い業務の一つとして、提携先のクレジットカード発行を行なっている。
使用している封筒のデザインが、これと全く同じなので、配達員が不審に思うことも無い。
説明書には日付と場所、そして本人確認のため参加証明書は必ず持参のことと明記されていた。
これで全ての準備が整ったことになる。
彼女が復讐を望んでいるかどうか知る術はない。
仮に望んでなかったとしても、僕は奴がのうのうと生き続けているのが許せなかった。
「失礼いたします。唯野誠一郎さまでいらっしゃいますね?」
不意に間近から声をかけられ、僕は思案から引き戻される。
気が付くと、片手に携帯用の明かりを持った人物が立っていた。
かなり長身の男だ。
まるで闇に溶け込むような上下ともに真っ黒のスーツ。
目の辺りを仮面で覆っているせいで表情は分からない。
だが、物腰から僕とあまり年が離れていないように見える。
「本日はご参加まことにありがとうございます。唯野さまを会場にご案内する役は、わたくしが務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
まるで一流ホテルマンか何かのように洗練された動作で、片手を前に当てて一礼する。
「それでは、まずは参加証明書を確認させていただけますか?」
僕は無言でポケットからプラスチックのカードを取り出した。
それを見た男は、懐から携帯式のカードリーダーを取り出し、カードにかざす。
「はい結構です。それでは早速会場へとご案内いたします」
男が先に立って歩き始める。
僕はそれに付いて行けば良いだけなのだが、なぜか足が竦んで動けなくなっていた。
本当にこんな事に手を染めて大丈夫なのか。
何度も押し込めたはずの不安がまたしても湧き上がってきて止められない。
「唯野さま、さあ参りましょう」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。
そうだ、臆している場合か。
思い出せ、あの悲しみ、怒り、憎しみを。
奴に、この手で叩きつけられる機会をみすみす逃がす気か。
僕は両手で自分の頬を二、三回叩いて気合を入れなおすと、男の後を追った。
「ところで、会場は近いんですか?」
「はい、そうですね……歩いて十五分ほどでしょうか?」
暗い駐車場に、僕ら二人分の足音だけが響く。
思ったより遠く無いな。
仮に駐車場の外だとしても、そう離れてないのは間違いなさそうだ。
「他の参加者は居ないんですか?」
「お互いのプライバシーを守るために、直接顔を合わせないよう配慮しております。既に半数ほどは会場に着いておりますよ」
僕は集合時間より十分ほど早くここに着いたが、今までこの男以外の誰の姿も見ていない。
参加者たちは、それぞれ違う場所か時間が伝えられて、来たのを確認次第一人ずつ会場に案内しているのだろう。
どちらにしても会場で鉢合わせしたら、身バレしそうなものだが、そこら辺はどうなっているのだろうか?
「着きました、こちらが入り口となっております」
僕が質問をぶつけようとした矢先に、男が扉の前で足を止めた。
駐車場の片隅に設置された金属製の飾りっ気の無い扉。
黄色に黒文字で『危険・高電圧』と大きく書かれた警告プレートが貼り付けてある。
「ここ……ですか?」
「はい」
戸惑う僕をよそに、男はポケットから鍵を取り出し、当たり前のように扉を開ける。
もちろん素手だ。
「お待たせいたしました。中へどうぞ」
「え? でもここ危なくないんですか? その……感電とか」
「ああ、このプレートはダミーですので心配は要りません。主に侵入者避けが目的です」
ということは、中には危険な施設は無いということだろうか?
そうは言われても、やはり何となく入りたくないな。
何故わざわざこんな物を貼り付けておくんだろう。
「お呼びして居ない方に興味本位で首を突っ込まれますと、こちらとしても要らぬ手間が増えますので」
確かにやってることを考えれば、招待していない人間に勝手に入られるのは会社としても不都合)がある。
しかも鍵のかけてある扉をわざわざ無断で開けてまで中を見たい相手が、ただの興味本位であるはずは無い。
おそらくは、警察関係かマスコミ関係。
どちらにしても、見つかったら一巻の終わりだ。
しかし逆に考えると、どうだろう?
最初から場所に当たりがついているならともかく、危険を示すプレートが貼ってあり、鍵がかかっている扉をいきなり調べたりするだろうか?
僕だったら後に回す。
もし、怪しい動きをしている人物を発見しても、関係ない場所を調べているうちに外に連れ出してしまえば良い。
しかも、このプレートなら昼間に見かけても違和感は無い。
「唯野さま、どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」
男の声で我に返った僕は、おそるおそる中を覗いてみる。
中は想像していたよりずっと狭い。
感電しそうな機械などは当然見当たらない。
ワンルームのような大きさの殺風景な部屋、突き当たりに下へと降りる粗末な階段があるだけだった。
明かりに色がついているのか、部屋全体が青く照らされている。
僕を招き入れた男が、内側から扉を閉める。
鍵のかかる、がちゃん! という音が、もう戻れないことを強く意識させた。
狭いな……。
光の色のせいか、見た目よりさらに窮屈に感じる。
男二人で立っていると、息苦しさをおぼえる程だ。
突き当たりの階段も、金属むき出しの無機質なもので、幅は決して広くは無い。
閉所恐怖症の人間であれば、この時点でパニックを起こしてしまいそうだ。
「さあ、この下で皆さまがお待ちです。どうぞ」
僕の横を器用にすり抜け、階段の前に立った男が促す。
さあ行くぞ、覚悟を決めるんだ。
僕は先を進む男の後について、階段を降り始めた。
カツンカツンと二人の足音だけが響く。
ところどころ塗装の剥げた粗末な階段は、つづら折になってどこまでも続いている。
弱々しい青い光が照らす中、僕と男は無言で降り続ける。
降りる……。
折り返す……。
降りる……。
まだ終わりは見えてこない。
上にも下にも続く、階段だけの世界。
同じことの繰り返しで、頭がぼーっとしてきた。
ゆれる影……。
たゆたう青……。
身体が重い……。
息が苦しい……。
暗い……。
抗いがたい、猛烈な眠気が襲いかかってくる。
足が止まり、一歩も前へ進めない。
倒れそうになる身体を支え、前を行く男に助けを求めようと手を伸ばす。
声も出ず、手も届かず、もうだめだと諦めかけた瞬間。
世界は唐突に赤へと転じた。
突き刺さるような、どぎつい赤。
ほとんど眠っていたような頭が、いきなり覚醒する。
容赦なく飛び込んでくる光が、嵐の中の小船のように頭の中を引っ掻き回す。
ここは危険だ!
吹き飛ばされそうな意識の欠片が警戒のサイレンを鳴らす。
とにかく、ここから逃げなくては!
僕は階段を降りる足を速めた。
階段の手すりが、壁が、それらの作り出す微妙な陰が、まるで巨大な生き物の臓腑のように揺れる。
見るな! 呑まれる!
異様な光景を振り払うように目を閉じる。
すると今度は柔らかい生肉を踏みつけるような感触、足にからみつく血溜りのような粘つき。
ありえない感覚が、怖気と共に足から這い上がってくる。
そんなはずはない!
ここは建物の中で、降りてるのは金属製の階段で……。
呼吸が荒くなり、心臓が激しく脈打つ。
頭の中の嵐は、ごうごうといっそう激しく荒れ狂っている。
苦し紛れに顔を上げた僕のすぐ目の前に……奴が立っていた。
寺島圭司!
忘れもしない、響子を撥ねたあの表情を貼り付けた奴が立っている。
復讐! 復讐! 復讐!
身体の奥から狂ったような叫び声が聞こえる。
右腕を大きく振り上げ、拳をたたきつける。
奴の身体が、ぐらりと揺れ、そして消えた。
殺せ! 殺せ! 殺せ!
その先に、また奴が立っている。
まだ生きていたか!
叫び続ける声に背中を押されるように駆け寄り、思い切り突き飛ばした。
無抵抗に転げ落ちていくその先に、さらに先にも奴が立っている。
どけ! 邪魔だ!
殴りつけ、押しのけ、突き飛ばす。
無限に続くかと思うような真っ赤な階段。
叫び続ける過激な思考に身を委ね、愉悦の表情を浮かべる。
蹴り飛ばし、叩き潰し、さらに殴りつける。
口から出た笑い声は、やがて哄笑となり、真っ赤な世界に響き渡った。
僕は夢中で拳を振るう。
いつしか、それが心地よい快感へと変わっていた。
どれだけ奴を葬ったかわからない。
ふと気づくと、僕は異様な世界へと迷い込んでいた。
人の鼓動のように、ゆっくりと明滅する世界。
辺りを、ゆったりと霧がただよっている。
そして、僕はなぜか階段では無く、平らな地面の上に立っていた。
ここが会場なのだろうか?
辺りを見回してみたが、入口も出口も無く、先を歩いていたはずの黒服の姿も無い。
わけのわからない場所に一人ぼっち。
いや、よく見ると霧の向こうに誰か立っている。
遠くて顔は良くわからないが、シルエットで女性だとわかる。
いやそれどころでは無い、あの姿を見間違えるはずは無い。
「響子っ!」
僕は声を限りに叫んで、走り出す。
居るはずは無い、でも確かめずにはいられなかった。
しかし、それを邪魔するように、一人の男が立ちふさがった。
背格好は僕とあまり変わらない。
先ほどまでの寺島圭司とは明らかに違う。
もちろん、前を案内していた黒服でも無い。
俯いているのか、霧が邪魔して顔が確認できない。
だが、確信めいた直感があった。
僕はこいつを知っている……。
こいつが誰なのか確かめたい、しかし響子が……。
僕の中で一瞬の葛藤が生まれる。
それを見透かしたように、男が口角を上げて、にやりと笑った気がした。
……
…………
………………
「……さま! 唯野さま!」
肩を揺さぶられた僕は、ゆっくりと目を開けた。
夢……だったのか?
いつの間に眠り込んでいたんだろう。
ここはどこだ?
「到着いたしましたよ」
そうか、僕は会場へ向かうための階段を降りて、それで……。
どうも頭がぼんやりして、はっきりと思い出せないな。
目の前に居るのは、上下が真っ黒なスーツを着て、仮面をつけた男……
「え? あ、そうか」
身体を起こして、辺りを見回す。
いつの間にか長い階段は終わりを告げ、僕は見覚えの無い小部屋の中に寝かされていた。