20話 昴ちゃんの相談
新年会の次の日、僕は改めて社長の家を訪問していた。
昴ちゃんが、会社の経理業務を手伝うにあたって簿記を習いたがっている件だ。
先日も昴ちゃんに話した通り、最終的に僕が教えることになったとしても基礎は学んだ方が良い。
「それでね、どこで習うのが良いか、もう進路相談の先生に聞いてきたんだ」
昴ちゃんは、テーブルの上にパンフレットを広げてみせる。
昨日の今日で既にこんなものが用意されているということは、かなり前から意思は固まっていたんだろう。
僕への相談は、さしずめ味方が欲しかったといったところか。
「これなんだけど、毎年ウチの高校からも受けに行ってる人がいるところで実績もあるらしいよ」
勢い込んで説明を始める昴ちゃん。
社長が、ちらっとこちらを見る。
「どう思う? 誠一郎くん?」
「そうですね、こういう教室で順を追ってしっかり憶えることは良い事だと思いますし、同じ学校から通ってる生徒が居るのであれば、帰りの方向が同じ子も居るかもしれませんし、安心できるのでは無いですか?」
「そうだな……」
結局、昴ちゃんの熱意に押される形で夜間講座通いが決まった。
ただ、帰りが当然遅い時間になるため、何かあったらすぐ相談するようにと社長に念を押されていたな。
そうして、週三で講座に通い始めて二ヶ月あまりが過ぎた。
「唯野さん、ちょっとよろしいですか?」
事務所でパソコンとにらめっこしていた僕は、奥さんに声をかけられた。
「なにかご用ですか?」
「忙しくしてるとこ、ごめんなさいね」
「いえ、大した作業をやってるわけではありませんから。それより改まってどうしたんです?」
奥さんの話では、昴ちゃんが資格取得を目指して受講を始めたが、成績が伸び悩んでいるらしい。
「あの子、あたくしにはなかなか相談してくれないんですけど、唯野さんには懐いてるみたいですから、一度事情を聞いてみていただけないかと思いまして」
懐いていると言われると、ちょっとこそばゆい物があるが、昴ちゃんが困ってるなら手を貸してあげたいところだ。
「わかりました。教材を見せてもらいながら進み具合を確認してみます。今日は確か講座お休みの日ですよね?」
「そうです。夕飯はうちで食べていってもらって、それからお願いします」
「いつもすみません」
そうして、一日の仕事を終え、社長の家で簡単な夕食をご馳走になった後、昴ちゃんの部屋にお邪魔した。
思ったよりも、すっきりした部屋だ。
入って正面に大きな窓があって、昼間はとても明るそうだ。
左側の壁にはベッド、反対側にはクローゼットと小さなキャビネットがきれいに並べられ、テレビも置いてある。
ベッドにはクッションや動物のぬいぐるみがいくつか置かれ、さすがに女の子の部屋だと思わせる。
キャビネットの方は、雑誌やマンガ、色んな小物なんかが入れてある。
「あんまりきょろきょろしてると不審者みたいですよ」
「え? ああ、そういうつもりじゃ無かったんだ、ごめん」
「やだ、真に受けないでください、冗談ですよ」
昴ちゃんが、にこにこしながらテーブルを出してくる。
カバンから、あれこれ教材を出して、その上に広げていく。
「それで、さっそくなんですけど……」
「え? ああ、そこは、こっちの帳票見た方が追いやすいかな」
「あ、そっか!」
昴ちゃんの表情は真剣そのものだ。
これは、こっちも手は抜けないな。
――
「ん~、難しい……」
問題集と参考書を交互に見ながら難しい顔をしていた昴ちゃんが、力尽きたように机に突っ伏した。
「それでも、少しはマシになった?」
「そうですね、まだわかんない所もありますけど、なんとかなりそうです。ありがとうございます」
「お役に立てたなら良かったよ」
昴ちゃんが上体を起こして参考書を手に取った。
しかし、読むというより眺めるという感じで、すっかり集中力が切れてしまっているようだ。
先ほどから、ぶっ続けで勉強していたのだから、それも仕方がない。
「それにしても、これだけ似たような用語や似たような表がいっぱいあるのに、誠一郎さん混乱したりしないんですか?」
「うん、そこは慣れもあるけど、大抵のことは会計用のソフトがやってくれるから」
「え? じゃあパソコン使えば憶えなくてもできちゃうんですか?」
「そういうことになるね」
昴ちゃんが驚いた声を上げた。
気持ちは、わからなくも無い。
「でも、資格が取りたいなら、ここはキッチリ憶えておかないと難しいと思うよ」
「う~ん、やっぱり逃げられないのか~」
手近にあったクッションを抱え込んだ昴ちゃんが、不服そうにぼやく。
簿記に限ったことでは無いが、資格を取るためには基礎や理論をしっかりと覚える必要がある。
実際の業務で必ずしも役に立つものでは無いが、イレギュラーが発生した時の対応力が違う。
昴ちゃんが、社長の工場で働き続けるのなら僕も手を貸せるが、外に働きに出ることも十分ありうる。
せっかくだからと僕が資格の取得を勧めたのは、この辺が理由だ。
「それはそうと、ここら辺でちょっと休憩しようか」
「そうですね」
そんな話をしていた矢先だ。
「ちょっと入っても良いかしら?」
まるで聞こえていたみたいなタイミングで、ドアの方から奥さんの声とノックの音がした。
「は~い!」
さっきの疲れきった様子は、どっかに吹き飛んでしまったように、ぱっと笑顔になる。
いそいそと開けたドアの向こうには、片手にトレイを持った奥さんが立っていた。
「進み具合はどうかしら? 一休みしてお茶でもいかが?」
まるで昴ちゃんの集中力が切れるタイミングがわかっているかのようだ。
さすが親子だなと感心する。
「こんな時間まで年ごろの娘さんの部屋に上がり込んでて申し訳ありません」
「いいえ、頼んだのはこちらですから。むしろお仕事以外のことでお手間かけてます」
すっかり元気を取り戻した昴ちゃんが、テーブルの上にあった教材を一旦どかして場所を作る。
奥さんは、そこに持って来た三人分のケーキとお茶を並べていく。
「誠一郎さんは、うちの家族みたいなものだから良いの」
「昴、唯野さんに失礼ですよ」
「だって、この前お父さんが、誠一郎くんは、うちの跡取り息子だなって言ってたよ」
低い声で社長の声を真似る昴ちゃんに、思わず苦笑が漏れる。
養子に……いや、そういう意味じゃ無いだろうな。
まあ酔っての冗談だと思うが、そこまで信頼してくれるのは、ありがたいことだと思う。
「そういえば、あのお話は唯野さんに相談してみた?」
三人でテーブルを囲んでケーキをつついていた時のことだ。
ふと、思い出したように奥さんが、昴ちゃんに声をかけた。
「え? う~ん……まだ話して無い」
「何か困りごと? 言いにくい事なら無理には聞かないけど」
「そうじゃないんだけど……」
なんだろう? 昴ちゃんの歯切れが悪いな。
しばらく迷ってた感じだったが、やがて昴ちゃんは、ぽつりぽつりと話を始めた。
――
「ストーカーだって?」
「うん、もしかしたら私の勘違いかもしれないけど……」
ざわりと背筋に嫌な物が這い上がってくる。
「なにかされたの?」
昴ちゃんが首を横に振る。
今のところは危険な事は無かったらしい。
安堵で思わずため息が出た。
「ちょっと前からね、講義受けてるときに誰かに見られてる気がしてたの」
奥さんと僕は、黙って昴ちゃんの話を聞く。
「気のせいかなって思ってたんだけど、きのう帰って来るときにも、ずっと見られてる気がして……それで怖くなって逃げてきちゃって……」
本当なら、とんでもない話だ。
今は日が暮れるのが早い時期で、昴ちゃんが帰ってくる頃にはすっかり夜だ。
しかも、キツネ男の中途半端な取り壊しのおかげで、この辺り一帯は明かりが少なく、暗い路地が多い。
あまり考えたくは無いが、襲いかかろうとすれば、場所はいくらでもある。
「でも、お父さんに相談したら、すぐに辞めろって言われそうで……」
それはそうだろう。
僕が社長の立場でも同じことを言う。
ただ、頑張ってる昴ちゃんの思いも無下にはしたくない。
「それでね、誠一郎さんに一緒に来て、確かめてもらえないかなって」
「重ね重ねご迷惑でしょうけど、わたくしからもお願いします」
二人そろってお願いされたら、断わるわけにはいかないな。
僕がどのくらい役に立つかわからないが、いざという時は【オレ】に頼むこともできる。
『そっちは任せとけ』
(まだ頼むと決まったわけじゃないよ)
『わかってるって、今は邪魔しねぇよ』
【オレ】は、やる気だが、まずは本物かどうかを確認するところからだ。
もしかしたら、相手にその気は無いのかもしれないし、僕が一緒に居れば諦めるかもしれない。
「わかりました。教室に入るというわけにはいかないでしょうから、帰り道に同行するということでよければ」
「ありがとうございます。唯野さんよろしくお願いします」
もしストーカーが本物なら、早急に対策を考えた方が良い。
そのためには、相手の姿を確認する必要がある。
「それじゃ昴ちゃん、明日の夜に迎えに行けば良い?」
「ありがとうございます。色々すみません」
「どうせ家に帰っても退屈してるだけだし、遠慮しないの」
結局その日はそれで終わり、僕は自宅へと帰った。
次の日。
定時に仕事を終えた僕は、昴ちゃんを迎えに行く準備を始める。
「何から何まですまんなあ、誠一郎くん」
「いえ、ついでですから気にしないでください」
「しかし、昴のやつ、なんだって急に……」
社長が、ちょっと不審そうな顔をしている。
「僕も詳しくは聞いてないんですが、なにか帰りに相談があるとか言ってましたよ。買い物かなにかだと思います」
誤魔化すのはちょっと心苦しいが、事実がはっきりしないうちに社長を心配させるのも良くないな。
「そうか、あんまり遅くならないように伝えておいてくれ」
「わかりました。それじゃあ行って来ますね」
「すまんな、よろしく頼む」
こうして、僕は昴ちゃんを迎えに夜間講座の建物へと向かった。




