02話 非道の契約
翌朝、日が昇るが早いか、僕はプレシャス・スタッフ本社ビルの前に立っていた。
身だしなみを整え、勢い余って部屋の掃除まで始めてしまったのだが、それも終わってしまえば最早やることがない。
矢も盾もたまらず始発に飛び乗ってしまったというわけだ。
結局、一睡もしなかったのだが、まったく眠くならない。
むしろ秋の気配を感じる少し冷たい風のおかげで、普段より頭がはっきりしてる気さえする。
それにしても実際に見ると大きな建物だ。
敷地を贅沢に使って緑も配置し、白を基調とした壁は前面がガラス張り。
何も知らずに見たら、リゾートホテルかと思うような佇まいだ。
エントランスの自動ドアは、安全対策のために偏光ガラスになっているのか、中の様子は覗けないようになっている。
始業直後だと思うのだが、ひっきりなしに人を飲み込んでは、また吐き出す。
さすが人材派遣業を中心に、保険やファイナンスなど手広くやっているだけのことはある。
僕は、右手のスマホを見た。
既に画面には、例の受付IDが表示してある。
やっぱりイタズラか何かに騙されているんじゃないだろうか。
昨夜から何度もメールを確認したというのに、また弱気が頭をもたげてくる。
電話で事前確認などの手段があれば良かったのだが、個人情報保護と成りすまし防止の関係で、担当部署の番号を開示していない旨が書かれていた。
社内のシステムがそうならば、代表連絡先の番号にかけても電話を回してもえらえないだろう。
もし受付にメールを見せて、プレシャス・スタッフの名前を騙る偽物で無関係だと言われたら。
こんな良くあるイタズラを信じてやって来たのかと、憐れみの目を向けられたら。
想像するだけで、頭が熱くなって来た。
入り口を前にしているのに、どうしても一歩が踏み出せない。
今日はひとまず帰って、もう少し調べてから出直そうか。
――とりあえず聞いてみて違ったらごめんなさいで済むでしょ? 迷ってても何も変わらないわよ。さ、行きましょ。
響子の声が聞こえた気がした。
目尻を下げ、ちょっと困ったような顔で、僕の背を押してるような。
そうだ、帰ったところで同じことを繰り返すだけだ。
ちゃんと前に踏み出さないと。
気合を入れなおし、僕は入り口のドアをくぐった。
一歩入ると、広くながら開放的な空間に圧倒される。
吹き抜けの大きなロビーは、窓から降り注ぐ陽光で明るく清潔感があり、絵画や観葉植物などがそこここに配置されている。
左手には、ついたてで区切った応接ブースが、正面奥には受付カウンターがあった。
カウンターの中には、落ち着いたグレンチェックの制服に身を包んだ女性が何人か座っており、訪れる人々を柔らかな笑みを崩さずに、次々とさばいていた。
会社のイメージは瀟洒。嫌味や気取った感じではなく好感が持てる。
とても復讐などという後ろ暗い話とは結びつかず、メールが偽物ではないかと、また疑念に囚われてしまった。
ふと、手の開いた受付嬢の一人と目が合ってしまい、軽く会釈をされる。
ここで逃げ出そうものなら、完全に不審者だ。
僕は、意を決してメールに指定されていた専用受付カウンターの前に立った。
「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用件でしょうか」
淀みなく挨拶する受付嬢。
もうこうなったら腹をくくるしかない。
僕は返信メールが開いたスマホを相手に見えるように差し出した。
「この件の受付は、こちらでよろしかったですか?」
なるべく平静を装って確認を取る。
偽物だと困るのだが、もし本物だったら、それはそれでとんでもない事に足を踏み入れているのではないかと、今さらながら不安になる。
「お預かりさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ……はい、どうぞ」
僕はスマホを受付嬢の方に向けて手渡した。
「ありがとうございます。確認いたしますので、少々お待ち下さい」
スマホを受け取ると、画面を見ながらパソコンのキーボードを叩き始める。
まさか、本当に受付が通るなんて。
いま目の前で手続きが進んでいるという事実に、緊張でじっとりと汗が滲んできた。
「唯野 誠一郎さまでお間違いありませんでしょうか。何かご本人確認できるものはお持ちですか?」
僕は財布から、運転免許証を取り出して手渡した。
指でなぞりながら、一通り確認した後、はい結構ですとスマホと一緒に返される。
「それでは、すぐに担当の者が参ります。それまで、あちらに掛けてお待ち下さい」
案内に従い、椅子に腰掛ける。
仕事の関係で、こういうやり取りは慣れているはずなのだが、用件のせいか、どうも落ち着かない。
なんとはなしにロビーを行きかう人たちを眺めていたが、その服装は様々だ。
人材派遣の斡旋を行なっているのだから当然なのだろうが、これなら僕のような目的の人間が出入りしていても、第三者には確認のしようも無い。
変にコソコソするより気付かれ難いのかもしれないな。
「失礼いたします。唯野さまですね、お待たせしまして申し訳ありません」
不意に声をかけられて振り向くと、男が一人こちらを向いて立っていた。
青みがかったスーツをぱりっと着こなし、自信に満ちた笑顔を浮かべている。
歳は僕と同じくらいか、もうちょっと上か。
何かファイルのような物を小脇に抱えている。
「初めまして、本日ご説明を担当させていただきます。失礼ながら名刺はお渡しできませんが、ご了承いただけますと幸いです」
商習慣としては、名乗りもせず名刺も渡さないというのは失礼にあたる場合もあるが、この用件ならむしろ当然の対応だろう。
復讐の手助けなんて、どう考えても非合法だし、プレシャス・スタッフとしても大っぴらもにやるわけにはいかない。
であれば、物証はなるべく少なくしておきたいところだ。
もちろんある程度の対応は考えているのだろうが、もし警察にでも駆け込まれれば、どこから都合の悪い情報が漏れるかわからない。
対応の慎重さが、これから行なわれるであろう話に説得力を持たせていた。
おそらく、こちらの情報はかなり正確に把握済みだろう。
なにしろ、あんなメールを僕の本名で送ってくるぐらいだ。
主導権は明らかに向こうにある。
何があるかわからないうちは、下手な素振りは見せないのが得策だ。
「はい、問題ありません」
「恐れ入ります。それでは詳しいお話は、こちらでさせていただきます。どうぞ」
男の後をついていくと、ロビーの応接ブースではなく、別室へと案内された。
普段は少人数の打ち合わせなんかに使われていそうな部屋で、折りたたみ式の長机と椅子が並べられている。
応接ブースでは、話している内容が第三者に聞き耳を立てられると困るからだろう。
「どうぞ楽にお掛けください」
僕と男は机をはさんで向かい合わせに座った。
男がファイルを机に置いて話し始めた。
「本日はご足労いただきまして、まことにありがとうございます。弊社イベントの主旨はご理解いただけましたでしょうか?」
「メールの内容は理解しているつもりです。ですが、その前にあなた方は僕の本名やメールアドレス、なによりあの写真をどうやって入手したのですか?」
「疑問に思われるのは当然とは思いますが、その点につきましては弊社の守秘義務に触れるのでお教えできません。ただ信頼できる筋からの情報であるとだけお話しておきます」
やはり、そう簡単には教えてもらえないようだ。
ただ、信頼できると明言したということは、たまたま流出した情報のような偶然に頼ったものでは無いということだ。
つまり個人情報の入手方法について、ルートなりシステムなりが出来上がっているということになる。
加えて、メールに書いてあった通り、警察からの身柄引き渡しが可能なら、とても一企業で持てるような力とは思えない。
ここは確認の必要がありそうだ。
「では念のため、企画の概要についてから、お話いたします。簡単には、参加いただいたご遺族の皆さまの無念を犯罪者に直接晴らす場を設けさせていただきます」
「それはメールにも書いてありましたが、本当にあの男はここに居るんですか? 写真だけではどうにも信じられなくて」
「寺島 圭司の横に写っていた運転免許証はご確認いただいておりませんか?」
「写っているのはわかりましたが、はっきりと確認できなくて」
「それは失礼いたしました」
男はファイルから小さなカードを取り出すと、こちらに差し出してきた。
「こちらが写っていた運転免許証の本物です。どうぞご確認ください」
手渡された免許証の顔写真は間違いなくあの男のものだった。
名前もメールに書かれていた通り、寺島 圭司となっている。
これがここにあると言うことは、身柄をプレシャス・スタッフが拘束しているのは本当なのか。
「お返しします、ありがとうございました」
「信じていただけましたでしょうか?」
「はい、ひとまずは」
「それで結構です」
僕から免許証を受け取った男は、それをファイルにしまう。
いま見せられた免許証が偽造の可能性もあるが、それは確認のしようがない。
本物であることを前提にしなければ、話が進まない。
「メールには、詳細は来社時にと書いてありましたが、具体的には何をやるんです?」
「とある会場にお集まりいただいて、そこに犯人である寺島 圭司を抵抗できない状態にしてお出しします。後は殴りつけるなり、踏みつけるなり、ご遺族さまの好きにしていただいて構いません」
男はごく当たり前のように説明するが、とんでもない話だ。
ある程度予想はしていたが、何かのはずみで人の命が失われるかもしれないのに何の抵抗感も抱いていない。
いくら犯罪者の命といえど、あまりに人道に反するのではないだろうか。
「ちょっと待ってください。それでは相手が大怪我、場合によっては死んでしまっても良いということですか?」
「具体的なお話はできかねますが、この企画の主旨は、あくまでご遺族さまのお気持ちを晴らすためのものですので」
プレシャス・スタッフ側から見たら、人の命もビジネスの道具なのか。
こんな話に乗って大丈夫なのだろうか。
確かに殺したいほど憎んでいる。徹底的にやれるなら望むところだ。
進むべきか否か、相反する感情がせめぎ合う。
「とある会場というのはどこです?」
「それは契約成立後にご説明という規則になっております」
「参加したら帰って来られないなんてことは……」
「それは絶対にありません。お約束いたします」
あの男に復讐できる。しかもこの手で思う存分だ。
待ちかねた機会、だが勢いのまま契約して良いものかと押し留めるような不安が拭いきれない。
「一つ確認してもよろしいですか?」
「はい、今の時点ではお答えできかねる事もございますが」
「もしですよ……もし、いま参加を取りやめたら、どうなりますか?」
ここまでの話を信じるならば、参加者には金銭以外のリスクがない事になる。
お膳立てがあまりにもうますぎやしないか。
出直して、じっくり考えてみた方が良いかもしれない。
それも、この男の答え次第なのだが。
「そうですね、唯野さまはまだ契約を交わしておりませんので履行すべき義務はありません。参加されないのであれば、このままお帰りいただいて結構です」
「本当に良いんですか?」
「もちろんです。ここでの事は内密にお願いできれば我々としてもありがたいですが、話したとしても誰も信じないでしょうから、強制はいたしません」
あっさりとそう言われ、僕は拍子抜けした気分だった。
ここまで聞いたら、契約するまで帰れないくらい言われるかと覚悟していたが、どうもそうではないらしい。
確かに、場所も開催日時も不明、それどころか本当にやっているのかもわからない。
しかもクリーンな企業イメージも加われば、とても信じてもらえそうもない。
せいぜい、僕の頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。
「でも、よろしいんですか?」
「何がです?」
「もし唯野さまが参加しなくても、企画は開催されます。寺島 圭司がもし死んでしまった場合、唯野さまが直接ご無念を晴らす機会は永久に失われますよ」
僕は思わず言葉に詰まった、確かにその通りだ。
この集団リンチのような企画は、希望者が居れば僕の参加に関係なく行われる。
主催者側がストップをかけないのならば、寺島 圭司は死ぬ可能性は極めて高い。
結果として響子の仇討ちは僕の知らない所で果たされて終わるのだ。
となれば、今の僕に保留という選択肢はない。
自分の手でそれを行うか否かだけだ。
どうする? 決めるなら今しかない。
まるで僕の葛藤を見透かしたように、男がふっと表情を緩めた。
「大切な人を亡くした唯野さまは、人一倍に命の重さを理解できていると存じます。ですがだからこそ我々は心から唯野さまの助けになりたいのです」
男の真摯な声が心に染み込んで来る。
僕の辛さに寄り添ってくれている、そんな気さえしてくる。
「沢渡 響子さまを失った悲しみを癒すお役に立ちたい。そうしなければ前に進めなかった方々を私どもは何人も見てきました」
あの男の最期をこの目で見なければ、僕は前に進めないかもしれない。
そして、その機会はまさに今決断するしかない。
迷って見逃せば、またあの部屋で夜に潰されて……そんなのは嫌だ!
「一つお話を忘れておりました。参加しても、唯野さまが犯罪者として追われることはありませんので、ご安心ください」
心の天秤が大きく揺らいだ気がした。
「……わかりました、契約します」
ありったけの勇気を振り絞り、それだけを伝えた。
答えなんて最初からこれしかないんだ。
「ありがとうございます、それでは早速、契約書のご用意をいたします」
男は一礼すると、ファイルから書類を取り出しペンを添えて差し出してきた。
氏名、年齢、住所、電話番号……ごく普通の契約書だな。
一通り記入して、最後の『契約内容に同意します』の項目に、若干力をこめてチェックを入れる。
「はい、問題ありません。ありがとうございます」
男は受け取った書類に目を通して、ひとつ頷いた。
「こちらが契約内容の詳細資料になります。支払い方法および期限が記載されておりますので、確認をお願いします」
「わかりました」
ざっと重要そうな項目を確認してみると、設定された期限まであまり日数がない。
今日この場で参加の有無を決めさせる腹づもりだったのだろう。
となると、開催される予定の日も、そう遠くないのかもしれない。
「これで手続きは終了です。特に質問などはございませんか?」
「いえ、大丈夫です」
「それではご健闘をお祈りいたします。このたびはありがとうございました」
男が立ち上がった。たったこれだけで契約は終了らしい。
あまりにも事務的であっけない。
呆然とする僕を促すように、男は先に席を立ってドアを開けた。
「玄関までお送りいたします」
男の丁寧なおじぎに見送られ、背中で自動ドアが閉まる。
こうして僕はプレシャス・スタッフの本社を後にした。
あのメールは紛れもなく本物だった。
後は金さえ振り込めば、あの日に振り下ろせなかった拳を、やっと思う存分やつにぶつけられる。
小さく震えが来るのは恐怖か、それとも歓喜だろうか。
これで響子の……そして僕自身の無念を晴らせる。
そうしたら、その先はどうなるんだろう……。また前を向いて歩き出せるんだろうか。
僕はマンションへの道を辿りながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。