15話 交渉の行方
「唯野はん今日はえらい気合入ってますなあ、なんぞ良いことでもありましたか?」
「いいえ、おかげさまでさっぱりですよ」
「さよか、なんにしても元気なのは良いことやで、笑ってないと幸運も逃げますさかいなあ」
不幸を運んできてる本人に言われていれば世話は無い。
奴らもわかって言ってるんだし、安い挑発に乗るわけにはいかないな。
今日こそ一矢報いてやる。覚悟してろよ。
「そう睨まんといてな。怖くて話もできまへんわ」
キツネ男は相変わらず貼り付けたようなニヤニヤ笑い。
いつも通り余裕綽々と言ったところだ。
今回の切り札は出しどころが大事だからな、今はこれで良い。
「僕も忙しい身ですから、余計な前置きは、やめませんか」
「それはえろうすんませんな。なら手短にいきましょか」
キツネ男がカバンから書類を取り出すと、こちらに向けて差し出してきた。
おなじみの見積書と契約書だ。
相変わらず訪問のたびに新しいものを作って持ってくるな。
事務所の奥には、既にこれと同じものがうんざりするほど積み上げられている。
額面は変わらないので、いまさら確認する必要も無いのだが、その労力だけには頭が下がる。
「あんさんらにこれを飲んでもらわんと、わてらも商売あがったりなんや」
ざっと見たところ、やはり前回と日付が違う程度で、明細は変わり映えはしない。
向こうにしてみれば、後は押しまくれば仕上がると思っているのだから、買い取り金額は下がることはあっても上がることは無い。当然だな。
書類に目を通す僕の表情を測るように、キツネ男が見上げてくる。
「このまま頑張ってても、お互い得は無いやろ? なんとか考えてくれへんか」
揉み手せんばかりに、へりくだっているのは口から出る言葉だけだ。
腹の中では完全にこちらを見下している。
社長が書類を横から見ながら、事前の打ち合わせ通りに、いかにも困ったという風に眉根を寄せた。
「やはり難しいか? 唯野くん」
「そうですねぇ。何と言われようと……と言いたいところですが」
「せやろ? ここは男らしゅう、どーんと!」
僕らの困っている演技につられて、キツネ男はここが攻め時とばかりに身を乗り出してきた。
いそいそとカバンから何かを取り出そうとするのを見て、僕はおもむろに待ったをかける。
「ちょっと待ってくださいよ。僕らはこの条件を飲むとは言ってませんよ」
キツネ男が不審に眉をひそめた。
「あんさん、まだ条件を提示できる立場や思てるんでっか?」
「もちろんです。あなた方がここを安く買い叩きたいのはわかりますが、だからといって、これではとても承服できません」
社長が頷くのを見て、僕らの間に流れる空気が、にわかに緊張感を増した。
さあ、ここからが勝負だ。
徹底的に、こちらの言い分を通すんだ。
「いくらなんでも、全てをあなた方の良いようにはできません。価格交渉の余地はまだ残ってると思うのですが」
高山の推測が正しいなら、時間の無い奴らは交渉が長引くのを避けたいはずだ。
本当にリミットが近いのであれば、今さら話が振り出しに戻るくらいなら、ある程度の妥協案を引き出せる可能性は高い。
キツネ男は不審感をより強めてはいるものの、未だ本心を見せようとはしない。
もっと揺さぶりをかける必要があるな。
「今さらこんな話になるとは、思てへんでしたわ」
しばしの沈黙。
続きを切り出そうとしない僕らの態度を見て、キツネ男は呆れたように肩を竦めた。
「何を根拠に言ってるのか知りまへんが、ひとまず聞くだけは聞きましょ」
普通に考えたら、突っぱねて高圧的に来るところだと思うが、やはり乗ってくるのか。
「根拠よりも、商売の姿勢に対する問題じゃないか? こんな人を小馬鹿にしたようなやり方が通用するわけ無いだろう」
「これはおかしな事を言いますなあ。商売は儲けてなんぼや、なら安う買って高う売るのは基本やないですか?」
「そういうことでは無く、キミらも客のことを考えて……」
「あいにくと、目には見えない心とやらに興味はありまへんなぁ」
キツネ男は、あくまで高圧的だ。社長の表情が呆れ半分、悲しみ半分で大きくため息をついた。
わかっていたことだが、やはり考えかたがまるで違う。
それなら、こちらも容赦する必要などない。
「それで、さきほどの根拠の話なんですが、実はこんなものがありましてね」
僕はおもむろに書類を一枚取り出すと、キツネ男に見えるようにテーブルに置いた。
「なんやこれ?」
「よく病院なんかで聞く『セカンドオピニオン』ってご存知ですか?」
大して興味も無さそうに書類を見たキツネ男の顔色が、まともに変わった。
おそらく、そこに書かれている数字が何を意味するのか、瞬時にわかったんだろう。
「実は、僕のツテを頼って、あなたがたの同業者に評価額を出してもらったんですよ」
見せたのは、高山に頼んで作ってもらった、この場所の評価資料と見積もりだ。
もし大学ができるという噂が本当だった場合の物なので、かなり高めの金額が記載されている。
もちろん、キツネ男たちが最初に提示してきたものと比べても比較にならない。
「それを作ってくれた人は僕の友人で、なんでそこまでの評価になるのかの理由も全部教えてくれましてね」
「これでも、キミらは真っ当な商売をやっていると言えるのかね?」
社長が批難する口調でたたみかける。
これだけ規模の大きい地上げをかけるからには、リターンも相当なものになるはずだ。
仮に大学ができる話が噂だけの与太だったとしても、それに匹敵するなにかは間違いなくある。
それは、渋々ながらこちらの条件提示を聞いたところからも明らかだ。
ならば、ここは賭けに出る。
「……ところで唯野はん」
「なんでしょう?」
キツネ男が書類から顔を上げた。
見た瞬間こそ、かなりのショックを受けていたようだが、今はその気配は微塵も感じさせない。
「これ、会社名も印鑑もありまへんけど、なんででっか?」
「敢えて載せてないのですが、やはり気になりますか?」
「当たり前や! こないなもん、ちょっとパソコンが使えればいくらでも作れますわ!」
「ほう、ではこの見積書は、うちで勝手に作った捏造だと言いたいんですね?」
僕は皮肉たっぷりに、そう返してやる。
キツネ男は、かまをかけたつもりなのだろうが、そうは問屋がおろさない。
「これは間違いなく本物ですが、会社名はわざと伏せさせていただいてます。その理由は……言わずともわかりますよね?」
これだけ強引な方法で土地を手に入れてるのだから、思い当たるフシもあるのだろう。
具体的な事は何も言わなくても、キツネ男は答えに窮して押し黙る。
「まぁそれで偽物だと思うのならそれも良いでしょう。僕らはこちらの業者と取引しますので、あなた方にはもう用はありません。どうぞお引取りください」
「ちょ、ちょ、ちょう待ちいな。唯野はん、それはいくらなんでも殺生やで」
さすがにこれは効いたらしい。
取り繕うどころか、隣で腰を浮かしかけたゴリラ男を制する余裕も無いようだ。
【オレ】としては、ここで殴り合いにでもなる方が決着が早くて望むところなのだろうが、それでは社長や昴ちゃんに危害が及ぶかもしれない。
せっかく理詰めでここまで追い詰めたのだから、それは避けたいところだ。
「わかりました。では、改めて価格交渉と行きましょうか」
「そうしてもらえるとありがたいわ。わてらもこのまま手ぶらで帰ったら、どうなるか想像もつきまへんわ」
一触即発の雰囲気は、わずかに緩和され、ゴリラ男も改めてソファに座る。
キツネ男の貼りついていた笑みは姿を消し、苦々しげな顔で、改めて高山の出した見積書を手にとると、それをまじまじと見つめた。
「しかし、ごっつい評価額やなぁ、儲ける気ないんやろか……あ、いや言うてみただけやて」
僕と社長の表情が険しくなったのを察したキツネ男が慌てて取り繕う。
いまや、立場は完全に逆転していた。
「ま、しゃーないですわ」
キツネ男は、大きなため息とともに、見積書をテーブルに置いた。
「ワテらもこれに合わせますわ。契約書の作り直しは、ちっと時間がかかりそうやな、明日でよろしいか?」
「何を言ってるんです?」
「は? 何って……契約金の話やろ」
「あなた方の場合これはスタート地点です。当たり前じゃないですか。ここからいくら乗せられるのかと聞いてるんです」
「なんやて!」
さすがに、ここまで強気で来るとは思っていなかったらしい。
キツネ男は、細い目を見開いて驚く。
「唯野はん、それはいくらなんでも強欲やで、ワテらの立場もちっとは考えてくれんと……」
「あいにくと、心とやらに興味はありませんので」
さっきのキツネ男の言葉尻を捉えて言い放つ。
しばしの沈黙、そしてにらみ合い。
不意に、キツネ男が緊張の糸が切れたように、どさっとソファに背を預けた。
「こんなん、ワテらの手に負えまへんわ。上にかけあって来るよって、今日は帰らせてもらってもよろしいか?」
「ええ、どうぞ。色好い返事をお待ちしてますよ」
来た時とは比べ物にならないほど気落ちした様子で、キツネ男は書類を片付け始める。
「ここを諦めるわけにはいかないのか?」
「せやなあ、それも検討に入れてみますわ。ほなな」
のろのろと片づけを終えたキツネ男は、ゴリラ男を伴って帰って行った。
やがてその姿が見えなくなったのを確認した僕たちは、大きく息を吐く。
「どうやら上手くいったようだな」
「そうですね、思ったより効果があったようです」
「あいつらも、これで諦めてくれると良いんだがなぁ」
そう言って、ソファから立ち上がる社長の顔には疲労の色が濃い。
早く決着をつけて安心させてやりたいところだが、このまま奴らが引き下がるかどうかは微妙なところだ。
むしろ、これで諦めるようなら、おそらくここまで話は拗れていまい。
だが、今回は大きな収穫があった。
交渉の主導権が、こちらに移ったことだ。
予想するに、奴らが高山の評価額を上回ることは相当難しいだろう。
仮にそれを上回る見積もりを持ってきたとしても、それを不足として一方的に突っぱねることができる。
今までの投資に対する回収額と、ここを高く買うことのリスクを秤にかけた時に、地上げの規模を縮小するという選択をとる事は充分にありえる話だ。
そこまで漕ぎ着けられれば、この工場を守ることはできる。
『そう上手くいけば良いがな』
(僕の考えが間違ってるとでも言うつもりか?)
『いや、そうじゃねえけどよ』
どうも【オレ】の歯切れが悪いな。
(まだ奴らが何かやってくるって言いたいのか?)
『オレも確信があるわけじゃ無ぇんだが、随分とあっさり引き下がったなと思ってな』
(それは、あいつらに打つ手が無くなったから……)
『ま、それもあるんだろうが、オレはてっきり脅しの一つもかけて来ると踏んでたんだかな』
ドキンと心臓が大きくひとつ鳴った。
僕が無意識のうちに押し込めていた可能性のひとつを引きずり出された気がしたからだ。
奴らが話し合いを放棄し、リスク覚悟で危険な賭けに出た場合……
警察に連絡をしておくべきか。
いや、まだ何もしてない相手を、どうやって通報するって言うんだ。
今までのは、あくまで交渉の範囲内で、恐喝ですら無いんだぞ?
『ま、そうは言っても、今のところは相手の出方待つしか無いんだがな』
(いやしかし……)
『オレとしては、いっそあのゴリラが闇討ちにでも現れてくれりゃ気分良く殴れるってもんなんだがな』
いや、強引な手に出られるなら、とうの昔にやってるはずだ。
奴らには、もう金も時間も無いはずなんだ。
それでも商談という土俵から降りようとしないのは、それができない何かの理由があるんだ。
そうに決まってる。
僕は、ともすれば湧いて出そうになる不安感を強引に押し込める。
「どうした、唯野くん? ぼーっとして」
気が付くと、社長と昴ちゃんが心配そうな顔をして僕を見ていた。
「今日は疲れたろ? 仕事も無いし早く帰って休んだらどうだ?」
「そうですよ、無理して倒れられたら、うちが困るんですから」
そうだな、いい加減な推測だけで、わざわざこの二人を不安にさせる必要は無い。
今できることは、せめて僕が細心の注意を払うことだけだ。
「そうですね、それでは申し訳ありませんが、今日はこれで」
「ああ、そうしなさい。たまには酒でも飲んでゆっくり寝るのも必要だぞ」
「ありがとうございます」
一抹の不安を抱えながらも、僕は帰路についた。
その日の晩は、これまでの疲れが一気に出たのか、ベッドに潜り込んだ直後に意識を失うように眠り込んだ。
そして、あくる日の朝、いつものように工場へと向かった僕は、己の甘さを後悔するハメになった。




