10話 【オレ】との共棲
翌朝、僕はいつも通り喧騒に包まれた駅で電車を待っていた。
ゆうべは良く眠れなかったせいで、油断するとすぐ出そうになる欠伸をかみ殺す。
身体の方は幸い大事には至らなかったようで、一晩経つとだいぶ痛みが引いていた。
『オレが途中で代わってやったおかげだぜ? 感謝するんだな』
(うるさい! 余計なお世話だ)
頭の中に響く声に、僕は乱暴に言い返す。
僕が奴に話しかけたいと思うと、頭の中だけに声が響く感じなので、言い返すという表現は的確では無いかもしれない。
とにかく、奴との会話は、僕がうっかり声に出したりしなければ、周りの人には全く聞こえないらしい。
僕はこの勝手な居候を、一人称の違いから【オレ】と呼ぶことにした。
文句の一つも言われるかと思ったが、特に逆らう気も無いらしい。
自分の呼び名なんて、どうでも良いと思ってるのかもしれないな。
昨日の出来事については、朝のTV番組や新聞の地方欄なんかも確認してみたが、特にニュースになってはいないようだった。
取り返しのつかないような事態にならなかったようで、僕はひとまず胸をなでおろしていた。
『しっかし、マメなやつだな。あんなのどうなってようが、どうでも良いじゃねえか』
(冗談じゃない! もし大変な事になっていたら、僕はどう責任を取れば良いのか……)
『何言ってんだ、ひとつ間違えば、お前自身がそうなるところだったんだぜ?』
僕は思わず返答に詰まった。
確かにその通りだ、やつらの蹴り方には微塵の容赦も感じられなかったし、それで僕が大怪我をしたとしても、別にどうするわけでもなかったろう。
運が悪ければ、そのまま命を落とすことだって、ありえない話じゃない。
ぞくりと背中を寒い物が走り抜けた。
(いや、だからと言って、それでも……)
言いかけた言葉は、突如あがった複数の悲鳴によって遮られた。
ホームの前の方、線路のすぐ手前に人だかりができて、大騒ぎになっている。
子供が落ちたぞ! という誰かの声で、僕はようやく何が起きたのか理解した。
大変だ、いま電車が来たら、とんでもない事になる。
頭ではわかっていても、恐怖に竦んだ足は、一歩も前に出ようとはしない。
線路際に居る野次馬たちは、ただ下を眺めているだけで、助けに降りようとする者はおろか、引っ張り上げようと手を差し伸べる者すら居ない。
しかも悪いことに、その人垣に邪魔されて、駅員らしき制服姿の男たちもそこに近づけないでいる。
このままでは確実に人身事故だ。
なんとかしなきゃ! なんとかしなきゃ!
気ばかり焦るが、もどかしい程に何もできない。
『だらしねぇやつだな、見てらんねえぜ!』
突然、頭の中で【オレ】の声が響く。
『なんとかしてやるから、今すぐオレと代われ』
(え? でも、それは……)
自分の身体が自分以外の意思で動かされようとしている、その抵抗感と嫌悪感で、気弱な言葉が口をついた。
『落ちた子どもを助けてえんだろ! 時間がねえんだ、早くしろ!』
【オレ】の声にも焦りの色が滲む。
僕の脳裏に、倒れた響子の姿が浮かんだ。
そうだ、今は迷ってる時じゃない。
このまま黙って見ていたら、またあの時みたいに後悔する。
(わかった、頼む!)
急にぐいっと肩を掴まれて後ろに引き倒され、そのまま穴にでも落ちていくような感覚。
あまりの勢いに、よろけて手足をばたばたさせたが、それは僕の意識の中だけだったらしい。
僕の意思とは無関係に、【オレ】が主導権を握った身体は前へと走り出していた。
「じゃまだ! どけ!」
行く手を塞いでいる人たちを男だろうが女だろうが関係無く押しのける。
容赦なく浴びせられる迷惑そうな視線も意にも介さない。
そうして、野次馬を力ずくで排除した【オレ】は、駅員の制止の声も聞かず、一息でホーム下へ飛び降りた。
「はやく逃げろ! 死んじまうぞ!」
線路上にうずくまった子供は、【オレ】の声を聞いても驚いた目でこっちを見るばかりで動こうとしない。
怪我でもしているのか、片足を押さえ、茫然と線路の真ん中に座り込んでいる。
【オレ】が、ちっ! っと舌打ちをして立ち上がった、その時だった。
遠くから響いてくる音。
こちらを見ている子供の目が恐怖で大きく見開かれた。
いや、見ているのは僕の姿では無い、その後ろから迫る電車だ。
【オレ】が全力で子供に駆け寄った。
普段、ホームの上では聞いたことも無いような大きさの電車の走行音。
耳をつんざくような警笛。
激しく火花を散らしているであろう、急ブレーキの金属音。
まるで物理的に圧し掛かってくるような恐怖に、僕は振り返ることもできない。
しかし、そんな僕とは違い、【オレ】は迷うことなく子供を小脇に抱え上げると、走ってきたそのままの勢いで退避スペースへと転がり込んだ。
その直後、電車が轟音と共に僕のすぐ横を通過し、朝のまぶしい光を遮る。
まさに間一髪だった。
目の前には、見たことも無い近さで並んでいる電車の車輪。
急ブレーキのためか、はたまた排気ガスか何かなのか、なんとも表現できない嫌な匂いが漂っている。
薄暗くなった退避スペースの中で、僕も【オレ】も、しばし呆然とそれを眺めていた。
あと一瞬遅かったら、この下に……。
車輪の下で真っ二つに轢き潰された自分を想像して、改めて恐怖が這い上がってくる。
『やれやれ死ぬかと思ったぜ、なかなかスリルあったな』
そんな僕をバカにするような暢気なセリフを吐きながら、【オレ】は小脇に抱えた子供を地面に降ろした。
子供は、自分がどうなったのか理解していないようで、半ば焦点の合わない目で、ただただこちらを眺め続けている。
それはそうだろう、あんな体験をすれば、誰だってショックの一つくらい受ける。
(冗談じゃないぞ! 一歩間違ったらどうなっていたと思ってるんだ!)
僕は声を荒げて食って掛かった。
【オレ】の、まるでゲームでもやっていたかのような現実味の無いセリフに腹が立ったせいだ。
『なんだよ、そこのガキを助けたかったんだろ?』
(それは……そうだけど)
『だから力を貸してやったんじゃねえか、むしろ感謝して欲しいくらいだぜ』
それにしたって、やり方と言うものが。例えば駅員に言うとか、他にも……
『バカかお前? そんなんで間に合うわけねーだろ。だいいち駅員はとっくに気づいてたじゃねえか』
僕は思わず言葉に詰まった。
あの時、駅員は雑踏にまぎれて線路に近づけないでいたし、【オレ】があの速さで飛び込んでギリギリだったのだから、他に方法があったかと言うと難しいと言わざると得ない。
頭ではわかっているが、それにしたって……。
『わかったか? わかったら、とっとと代われ。オレは事情説明とかそういう面倒な事は苦手なんだよ』
(え? あ、ああ……)
『ほんじゃ、よろしく頼んだぜ』
はっと気づくと、僕は退避スペースの砂利の上に座り込んでいた。
さっきまでの身体が勝手に動くのを傍観していたような感覚ではない。全力疾走して切れそうな息も、痛いほどに疲れきった足も現実の物として感じる。
このまま戻れなかったらどうしようかと考えていた僕は、思わず安堵のため息をついた。
その後、ようやく退避スペースから助け出された僕は、いくら子供を助けるためとはいえ、危険過ぎるということで、こっぴどく怒られた。
駅員さんの言うこともわかるし、僕自身も【オレ】の強引なやり口に肝を冷やしたのだから、反論のしようもない。
ただただ平謝りに謝るしか手立ては無かった。
結局、手続きだ何だと昼過ぎまで拘束された僕は、仕事先に大遅刻するハメになった。
当然社長に事情を話さねばならず、こちらには呆れられた。
曰く、普段の僕からは、とても信じられないらしい。僕もそう思う。
「身を挺して人助けをする度胸は買うが、あまり危険な事はするな。大事な社員に死なれたらワシが困る」
社長は冗談っぽく言ってくれたが、僕のことをとても心配してくれているのに思わず頭が下がる。
午後からは仕事をする予定だったが、今日は休んで良いから、念のため検査を受けて来いと社長に病院を紹介され、そちらに出向くことになった。
これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
その日の夜、僕は自分の部屋で一人晩御飯を食べながら、今日のことを思い出していた。
【オレ】は疲れたのか、手を頭の下に組んでごろりと横になっているイメージが伝わってくる。
寝ているのだろうか?
初めて会った時、その態度や口調で、僕は【オレ】の事を粗野で暴力的なチンピラのような人物だと思っていた。
とても好きになれそうもない。それどころか、およそ思いつく限り、一番遠ざけたいタイプだ。
暴力を振るって、他人を傷つけて、それが楽しいなんて、とてもじゃないが理解できない。
でも【オレ】は、子供を助けたいと言う僕の意思に応えた。
僕に恩を売っておきたかったのか?
それだけであんな危険な真似ができるもんなのか?
少なくとも、他人はどうでも良いと言う様ないい加減な奴では無いということか?
様々な疑問が僕の頭で渦を巻いていた。
僕は【オレ】が好きではない。
今でもそれはあまり変わっていない。
それでも、僕の中で、ほんの少しだけ【オレ】に対する考え方が変わろうとしていた。




