桜の町
その町は、桜であふれていた。
公園にも並木道にも、桜がずらりと生えていた。桜が町の名物だった。あまりに桜が多いので、一本きりの老木などは、ほとんど見向きもされなかった。
駅の近くの道ばたにも、ぽつりと老いた桜があった。毎年花を咲かせても、誰にも感心されないので、桜はすっかりすねていた。
(私など、もうどうでもいいのだ。こんないじけた老木など、花開いても意味などないのだ。この町には桜があふれているのだから)
もうこの年、この春限り、花を咲かすのをやめてしまおう。
桜はそう心に決めて、最後の春に最後の花を開かせた。桜が満開になった頃、一人の幼い男の子が、老木のそばを通りかかった。男の子は三輪車をこぐ足をとめ、つぶらな瞳で桜を見上げた。そのままであんまり長く見つめているので、桜はくすぐったくなった。
(何だ、こやつは。何故それほどに私を見るのだ)
桜は訳を訊ねたくなり、一人の女の姿をとって、子供の前に現れた。いきなり目の前に着物姿の若い女性が現れたので、男の子はつぶらな瞳を、落っこちそうに見開いた。
「幼子よ。何故それほどに、この桜を見続けるのだ」
「……この花が、すごく綺麗だったから」
「綺麗だと? 桜など他にいくらでもある」
おどおど答えた男の子は、自嘲気味の桜の言葉に、むきになって言い返した。
「でも、この桜は、他のよりずっと綺麗だもん! なんか、めいっぱい咲いてるって感じがしてさ……」
思いがけない言の葉に、老木は目を見開いて、それからそっと微笑んだ。
(ああ、そうか。「これが最後」と、私がいつになく気を入れて咲いたから、そのひたむきさがこやつの心を捉えたのか)
「……ありがとう」
礼を言う女性に首をかしげて、男の子は当然の疑問を口にした。
「ねえ、お姉さん、誰?」
「私か? 私は、この桜の木の精だ」
桜の言葉に、男の子は得心したようにうなずいた。
「そっか。だからお姉さんも、そんなに綺麗なんだねえ」
不思議を不思議と思わぬ年ごろの子供に言われ、桜の精は苦笑した。
「ませた事を言いおって。こう見えても私はかなりの年寄りだ」
「ふーん、年寄りのお姉さんか。ねえお姉さん、ぼくの友達になってくれる? そんで、毎日いっしょに遊んでくれる?」
「……すまぬ。私が人の姿をとれるのは、花をつけている時だけだ」
「ふーん? じゃあ花が散るまで遊んでよ。そんで、来年花が咲いたら、またお姉さんに会いに来るから!」
そう言って笑う男の子に、桜も微笑んでうなずいた。
それから季節が一巡りして、次の年がやってきた。もうじきで花の季節という時に、その地に大きな地震があった。地震の後は、町から人の姿が消えた。町は飢えた動物であふれ、その動物にえさをやり続けていた、たった一人の人間も、いつか町から姿を消した。(いつ来るのだ、幼子よ。来年花が咲いたなら、遊びに来ると言うたでないか)
桜は、毎年花を咲かせた。花を咲かせて、待ち続けた。
花は、自分の生えている町の名前を知っていた。その町の名は、福島県の富岡町。町の名前を知ってはいても、桜は町が地震のために、その後の原発の事故のために、人の住めない場所になったと知らなかった。
(来年は、一体いつになったら来るのだ)
そう恨み言を唱えつつ、桜は毎年花を咲かせて待ち続けた。
長い長い時が過ぎた。いつからか花見を楽しむ人の姿も、見られるようになってきた。
何十年目かの春が巡って、桜は最後の花をつけた。これが、本当に最後の花だった。来年も花をつける気力は、木には残っていなかった。
そんな枯れかけの桜の前に、一人の老人が現れた。老人は家族らしい人達に支えられ、やっとのことで桜の幹によりかかった。
あの少年だ。桜は一目で分かったが、もう人の姿に変化する事は出来なかった。
末期のがんに侵されている老人は、ただ一輪開いた花に目をとめた。
「ただいま、お姉さん」
老人はかすれた声で呟いて、懐かしそうに微笑んだ。
(了)