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遺志を抱く雛

作者: ろっか

 鬼さんこちら、手の鳴るほうへ―――


 手を鳴らしてくれる相手すらいない私は、いったいどうすればいいというのだろうか。



* * *



 海に面した高い生け垣は、強い海風から村の建物や作物を守るためのもの。

 閉ざされた村を守る生け垣の向こうに、冬になる度に冷たく荒れ狂う海が広がっている事は、幼い頃から知っていた。

 夏の間はたくさんの魚を与え、恵みを与えてくれる海も、冬の季節になればその顔を一変させる。それはこのあたりの人間ならば子供でも知っている。

 そしてもう一つ。村人たちの常識。

 浜から見える小さな島。

 四季を通して変わることのない激しい潮の流れにより、外からの一切を受け付けない、遠目にも茶色く荒涼としているのが見て取れるその場所を鬼ヶ島と呼ぶ。

 島に住む鬼たちは、やってきた人間喰うのだと言い伝えられ、昔から村の子供たちは悪さをすると「鬼ヶ島に連れていくぞ」と叱られた。

 鬼に喰われた人間など知らないし、鬼を見たという人間もいない。それでも「鬼ヶ島に連れていくぞ」は子供たちにとってなによりも恐ろしい言葉だった。

 寝床で母が聞かせてくれたであろう昔話。その声はもう思い出せなかったけれど、他の子供がそうであるように、ヒヨもまた鬼ヶ島に恐怖する子供時代を送った。

 冬の流行病で他界したという母の記憶はほとんど無い。

 それでも父親がいたから、大丈夫だった。困った事があっても、なんとかなった。

 しかし数年後、父は漁に出たまま帰ってこなかった。

 父は鬼ヶ島に流れ着いて、鬼に喰われてしまったのだと思うにはもう無理がある程には、ヒヨも大人になっていた。

 日々は容赦なくすぎてゆく。

 生きなければならない。生活しなければならない。そのためには自分で働く必要がある。

 例えば自分が良家の子女だったならば、婚礼の話が出てくるような年齢。だが、ヒヨは慎ましやかに暮らす平民でしかなく、縁談なんてものは夢物語でしかない。

 泣いてあり得ない夢を見ていても、野菜は育たないし家畜も太らない。ましてや飢えなんてしのげない。


 わたしは、生きるのだ。


 指が白くなるほど強く拳を握りしめて、ヒヨはそう決意した。



* * *


 チュウアン・ヒヨオルタの一日は、朝の食事をとった後に庭の小さな花壇に水をやることから始まる。

 彼女の記憶の中の母親は、いつもその花壇の手入れをしていた。

 そのほんのわずかな長方形の地面は、彼女とその母親をつなぐ数少ない遺物だった。

 雀の涙ほどの面積ながら、花を絶やさないように考えて作業をするのは楽しかった。

 続けて家の中の事を片づけて、何も無ければ畑の管理をする。大切な食料が育つ場所も、花壇と同じくらい熱心に手入れをした。

 午後になれば隣町の酒場へ給仕の仕事に向かう。

 彼女がそこでする仕事は客への給仕のほかにもうひとつ、歌うこと。

 娯楽の少ない田舎において、彼女は客に請われればその歌声を披露した。

 踊りも楽器もできないけれど、密かに歌だけは自信があった彼女にとって、歌を請われることで少なからず自尊心は満たされたし、何より歌うことは楽しかった。

 家にいても、もう誰かに歌を歌うことなど無い。歌声をほめてくれた父親がいないのだから。

 そんな酒場の仕事は、店の閉店を待たずに終わる。それが、彼女の一日の業務の終わりだった。

 あとは同じ村から来ているもう一人の少女を連れて、ランプの明かりを頼りに家路につく。

 しきりに「夜道が怖い」と繰り返す連れに「大丈夫よ。なんてことないわ」と繰り返すのは、時に面倒くさい。

 夜道が怖くない人間など、果たしているだろうか。一体どれだけこの道を通えば、この子はこんな弱音を吐かなくなるんだろうとうんざりする事もあった。

 それでも、彼女は連れの少女が「こんな暗い道を帰るのはいやだ」と言うたびに努めて優しく諭した。

「大丈夫よ。何も起こりやしないわ」

 何もありはしない。私がいるから。ひとりで帰るわけじゃないのよ?

 だから、大丈夫。

 そう長い時間を待たずに、その少女は酒場のある町の若者に見初められ、嫁ぐことになった。

「良かったわね」

 その一言にあらゆる意味を乗せた。

 幸せになりなさい。同じ場所で働いていたのにどうしてあなただけ。きっと弱音を吐きながらでも頑張ったご褒美よ。あなたは、もうあの暗闇を歩かなくていい。けど、どうしてあなただけ。どうして、どうして私には迎えが来ない。なぜ、私はまだ暗闇の通い路から解放されないのだ。どうして、なぜ、何故、私には。

 心の奥から生まれてくる黒い感情を、祝福の笑顔で上塗りして言葉を放つ。

「おめでとう」

 祝福すれば、それは真実になる。

 これは真実にするべき感情なのだ。ちくりした胸の痛みは、そうやってかき消した。

 かくして、ヒヨオルタはひとりで家路を歩くことになった。


* * *


 

「夜の酒場に働きに行くのなんてやめなよ」

 そう言ってきたのは、村長の娘だった。

 ヒヨと彼女は同い年で、幼い頃から一緒に遊んだ仲だった。親しくしていたし、互いに親友だと思うような関係だったがヒヨが酒場で働くようになってからこっち、村長は二人が親しくするのを快く思っていないようだった。

 酔っぱらい相手に商売する店で働く、まだ若い未婚の女などろくな娘ではない。

 そういう考えの大人は多い。眉をひそめられる事もある。

 狭い村の事だ。ヒヨの境遇を知っている人ばかりだし、時に同情の目で見られる事のほうがずっと多いが、それももう慣れていた。

 哀れみの目で見られる事なんて、これが初めてじゃあない。

「大丈夫。危なくなんてないから」

 畑を耕す手を止めて、側に立つ友人を見る。

 何度も繰り返し口にしてきた「大丈夫」という言葉と共に笑顔で答えた。

 が、きれいに身だしなみを整え、自分とは大違いの上等の服を着た友は違う、と言いたげに首を振った。

「あたしね、今度山向こうの町の地主の息子とお見合いすることになったの。でもね、お見合いなんて形だけ」

 そう長くないうちに婚礼をあげる事になってるの、と言ったその顔は、ひどくつらそうだった。

 噂はヒヨも知っていた。親友に見合いの話が来ていること。相手の家柄も申し分なく、その話がうまい具合にまとまるのではないかという事も。

「でもね、形だけのお見合いでも、やっぱりしなきゃいけないし、こっちのほうがどうしても家柄が下なんだって。だから、ちょっとでも良く見せなきゃいけないみたい」

 言葉を失ったヒヨに、一旦言葉を区切って彼女は続ける。

「父様がね、言うの。ヒヨとはもう金輪際会っちゃだめだって。夜の酒場に働きに出てるような子と親しくしてるような娘だって思われたら、それを許してるような家だって思われたら、なめられてばかにされるって。それじゃあ困る、って」

 その言葉を告げる友人の声は震えていた。長年の付き合いでも、初めて見るほど、震えていた。

 きれいな顔を涙に歪めて父の言葉を告げた、その様子を見ればわかる。彼女は、父親の言葉に納得していない。けれど、父親という存在に逆らうことは許されない。

 だらかこそ、胸は抉られるようだったが冷静を装った。

 ここで自分が取り乱したら、もっと彼女を困らせてしまう。

「村長さんの言うことは、本当だから・・・仕方ないね・・・」

 泣きそうな顔を笑顔に上塗りしたかったが、困ったような笑顔にしかならなかった。

 チュウアン・ヒヨオルタという娘は、身寄りもないしお金もない。だから夜の酒場に働きに行っている。

 それは変えられない事実だ。

 事実だけれど、仕方がないけれど、仕方がないとは思いたくなかった。

「ごめんね、ヒヨ・・・ごめんね」

 生活のためにヒヨがそれを選んだ事を、親友たる彼女は知っている。簡単には辞められない事も。

 しきりに謝罪の言葉を繰り返す親友に、「気にしないで」と答えることしか出来なかった。今まで何度もそうしてきたように「大丈夫」で上書きする事を、喉が拒んだ。

 本当は、自分も泣きたい。声をあげて泣きたい。

 悪いことなんて何一つしていない。後ろめたいことなんて何もない。けれど、世間の目は許してくれない。

 全部、後ろからついてくる。

 歩んだ道が、辿ったものが。今に繋がるあらゆる事象が、ヒヨをかたどる枠になって圧迫してくる。

 逃れられない宿命として、それは一生ヒヨの肩に重くのしかかってくるのだ。

 どうにもならない事なんて、これまでにもたくさんあった。それを耐える事にもとっくに慣れていたはずなのに、今回に限ってたまらなく苦しくて、悲しい。


 大切なものが、ひとつずつ無くなってゆく。

 身体の熱が奪われるような感覚と共にそんな予感にも似た思いが、一瞬だけ頭をよぎった。


* * *


 おねえさん、と訪ねてきたのは、いつか隣町に嫁いでいった夜道を恐れる少女だった。

 年齢よりも若く見える彼女は、最後に会ったときよりも少し痩せているように見えた。

「どうしたの?」

 思わぬ訪問者に問うと、彼女は困ったように笑った。

「苦しくなって、家出してきちゃいました」

 望まれて嫁いでいったはずの彼女の顔は晴れない。少し不思議に思って、ヒヨはじっと彼女を見た。

 この娘は、つらい事があるとすぐにこんな顔をしたと思い出す。

「幸せそうに、見えないわ」

「ヒヨねえさんは、いつも何でもお見通しですね」

 やはり困ったような笑顔のまま、彼女は足下の土を蹴った。

「私、あちらの家族に好かれてないみたいで。やっぱり、酒場で働いていた女なんて外聞も良くないし・・・その程度の女なんだろ、って言われちゃうと、答えようもないです」

 ゆらりと揺れた瞳に、この子はこのまま泣くのではないかと思った。

 だから、聞きたくなった。

「後悔しているの?」

 夜道から解放された娘は、幸せになれるのだと思っていた。

 祝福されて、望まれて、幸福の道を歩くものだと思っていた。

 けれど目の前の娘は幸福には見えない。

 結婚が決まったときの、あふれんばかりの幸せに満ちた笑顔は、どこにも感じられない。

 しかし、ヒヨの問いかけに、彼女はしばらくの間のあと歯を食いしばって首を左右に振った。

「後悔は、しません・・・」

 絞り出すようにそう言って、真っ赤になった目がヒヨを見た。

「だって、私は、ヒヨねえさんをひとりで残して、逃げたから」

 その言葉に、ヒヨは耳鳴りに近い感覚を覚える。

「おねえさんだって、帰り道は怖いに決まってるのに、いつも大丈夫って、言ってくれた。でも私、もうあそこを歩きたくないから、結婚したの。おねえさんが、今度はひとりになっちゃうって、わかってたのに。だから、私、後悔なんてしちゃ、いけない」

 言葉を区切るようにゆっくりと告白する声は、だんだん小さくなってゆく。

 幸せだと言い切れない彼女の答えは、あの時ヒヨが望んだものだった。

 ずるい女。ひとりだけ幸せになるおまえなんて、不幸になってしまえ。

 ほんの少し、そう願ってしまった気持ち。言葉にできなくて、祝いの言葉で隠したヒヨの本心。

 妬んだ事は真実だった。気づかれていないと思っていた。

 なにも考えていないような娘は、こちらの気持ちなど想像もしていないんだろうと思っていた。

 けれど俯いた娘はスカートを握りしめて言う。

「わがままな私より、ヒヨねえさんのほうが、たくさん苦労してるから、おねえさんこそ、幸せにならなきゃいけないのに」

「ありがとう・・・でも私はだめね。きっと幸せにはなれないわ」

 人を見下してばかにして、その不幸を望むような事をする人間が、幸せになどなれるはずがない。

 不思議そうにこちらを見てくる妹のような娘の手を握りしめ、ヒヨは今度こそ心をこめて言った。

「大丈夫よ。あなたは我慢できる子だから。すぐに幸せになれるわ」

 

 もしも彼女の答えが肯定だったとしても、ヒヨは納得しただろう。

 けれど、彼女の本心を知ることも、こうしてその幸せを願うことも無かったに違いない。


* * *


 “村長の娘”の婚礼は、それからちょうど半年後に執り行われた。

 美しい婚礼衣装も、嫁入り道具も最上のものが用意され、嫁いでいく花嫁を祝福しようと、村人たちはこぞって村長の邸宅を訪れ、祝いの品を納めていった。

 村で一番立派な村長の邸宅は、村じゅうから集まったたくさんの人で賑わっていた。

 花嫁を送り出すための前夜の宴が終われば、明日は輿入れ先からの迎えが来る。そして迎えの使者の先導で、花嫁は長い行列をつくって今まで育った家を後にする。

 ましてや今日は村長の娘の嫁入り。前夜の宴は、ここしばらくで一番華やかかつ豪華なものであろうことは、簡単に想像できた。

 ヒヨも自分の持つ一番上等な服を着て、親友の婚礼を祝いに村長の家へ向かった。

「会うな」と言ったという村長の言葉を守り、あの日以来一度も会っていない。

 けれど今日くらいはいいだろう。

 お嫁に行ってしまえば、もう会えなくなる。

 最後に、一番美しく着飾った友人の晴れ姿を祝う事くらいは許してもらえるはず。

 よく手入れのされた生け垣の葉は、秋の色に染まっていた。

 あかあかと松明に照らされた家の中からは賑やかな声が聞こえてくる。

 祝いの客人のために開かれた門の前には、祝いの品を受け取るための祝台と呼ばれる台がある。客人はめいめいに何かしら祝儀を用意して行くのが礼儀とされているため、ヒヨは花束を持ってきていた。

 これが成人した男ならば酒や狩りで得てきた動物だったりするが、女子供の場合は大抵手紙や花を持ってくるのが通例になっている。

 ヒヨも祝台の前まで来て、受け人に祝いの言葉と共に花束を献上する。

 通常、祝儀を預かった受け人は、客人を門の中に受け入れる。

 しかし、今日は違った。

「ヒヨオルタ、おまえは中には入れるなと、旦那様にきつく言われているんだ」

 古くからこの家に仕えている、顔なじみの使用人は、ハレの日に不似合いな難しい表情で告げた。

 言われた意味がわからずに困惑するヒヨに、彼は続けた。

「お嬢様には、会わないで欲しいと」

「え・・・」

 でも、と呟いた言葉に、男は首を振る。

「お前が来たら台無しになってしまうんだよ。言葉だけは、お嬢様にも伝えておくから、帰りなさい」

「でも、お嫁に行ったらもう会えなくなるかもしれないのに!」

 嫁いだ女は、もうあちらの家の人間になる。簡単に実家に帰る事もできない。

「最後に少し会って、お祝いを言うのもだめなんですか!?」

 食い下がればなんとかなるかもしれない。

 そんな期待は見事に裏切られた。

「だめなものはだめなんだ。旦那様にも家まで送り届けるようにと言われている。もう暗い。送っていこう、ヒヨオルタ」

 ぐいと腕を捕まれて、ヒヨは今来た道を引きずられるようにして歩く。

「・・・嘘! 送っていくんじゃなくて、私が戻ってこないように家まで連れて行けって言われたんでしょう!?」

 言われなくてもわかる。

「放して! ほんの少しだって言ったじゃない! ひとめ会うのも許してもらえないの!?」

 捕まれた腕をふりほどけば、使用人の男はため息をついてヒヨを見た。

「わかっているなら、おとなしく帰ってくれ、ヒヨオルタ。なあ、わかるだろう。お前とお嬢様じゃあ身分が違いすぎるんだよ」

 貧しい村。その中でも、ヒヨは特に再下層の暮らしをしている。

 誰もが知っている。

「せめて、お前の親父さんが生きてりゃあ違ったんだろうがね」

 一人遺された娘は、夜の仕事に出ている。

 村中の誰もが知っている。

 そういう仕事をする娘など、ろくな家の人間じゃないと言われていることもヒヨは知っていた。

「お嬢様には、ちゃんと伝えておくから。ヒヨオルタが祝いに来たと」

 握りしめた指先が冷えていくのを感じる。

 口を結んだまま、目の前の男をじっと見つめた。

「私は、何もやましい事なんてない」

 低く言うと、男は再びため息をついた。

「関係ないんだよ、ヒヨオルタ。お前の身が潔白であろうとなかろうと。お嬢様がお前とどんなに親しくても。ただ、お前が夜に仕事に行く、一人で暮らす娘だという事実が問題なんだ」

 胸が苦しくて、頭が痛い。

 よくわからないどす黒い感情が沸き上がってくるのを感じる。

 ヒヨは、賑やかな声のするほうをゆっくりと振り返り、再び目の前の男を見た。

 あの賑わいが、憎い。

 全部なくなればいいのに。

 自分に何も残らなかったように、あのプライドの高い村長を形作るこの村も無くなってしまえばいい。

 親も、友もいない。そんな村なら、無くなっても構わない。

 胸の中で破壊の衝動が暴れるのを、ヒヨは止められなかった。

「きっと後悔する。こんな事してたら、村長さんはきっと後悔する事になるから」

 精一杯の恨みを込めて低く言い放つ。

 無くなればいい。じわじわと、ゆっくり、やがて最後には全部無くなってしまえ。

 そして、初めて、村長も気づけばいい。

 自分がどれほどそれらを愛していたか。どれだけ大切に思っていたのか。

 大切なものが無くなっていく、身を切るような苦しさを、あの男も思い知ればいい。


* * *


 穏やかに晴れた晴天の下を、花嫁行列はゆっくりと進んでいった。

 遠くからそれを見送って、もうそれが見えなくなってしまってから、ヒヨはうずくまって泣いた。

 悔しくて、悲しくて、自分を取り巻くいろいろな事をどうにも出来ない自分がはがゆい。

 もう子供でもないのに、子供のように何もできない。

 けれど泣いていても時間は過ぎてゆくから、ヒヨは義務的に日々の作業をこなしてゆく。

 家事を済ませ、畑仕事をして、そして夜はまた酒場で歌う。

 そうしなければ、生活できない。

 いつの時もそうだった。

 ヒヨの悲しみとは無関係に、日は過ぎる。ただ泣いていてはそのまま野垂れ死んでしまう。誰も助けてくれない。生きたければ、自分でなんとかするしかない。

 それが嫌だと泣いても、死ぬのはもっと嫌だった。生きているうちは、まだ終わりたくない。

 何度繰り返しても終わらない、日々変わらぬ日常こそ、ヒヨが生きている証。


 しかし異変は数日後に訪れた。

 まず村長の家で飼われている家畜が次々と死んでいった。その数日後には田畑の作物が枯れていった。

 そしてその異変は、村長の土地を中心にして村中に広がっていった。

 折しも季節は実りの秋。

 収穫された農作物は冬を越すための大切な食料となる。にも関わらず、どの畑にも豊かな収穫は無かった。

 今年は豊作である。村人たちの予想は、たったの一週間で裏切られた。加えて家畜まで死んでしまっては、彼らにはどうする事もできない。

 一体どうした事かと村民会議が開かれ、そしてそれはヒヨのところにも報せを運んできた。


 夜も更けて、細い月がうっすらと照らす夜道を、ランプの灯を頼りに家路を辿る。

 この頃はひとりで歩く夜道にもすっかり慣れてしまっていた。

 おかしな事もあるものだと酒場ではここ数日村の噂話でもちきりだった。あらゆる憶測が飛び交う噂話をどこか他人ごとのように感じていたヒヨは、だからこそ予想もしていなかった。

 村民会議を終えた村人たちが、各々松明を手に自分の家を取り囲む日が来るなど、夢にも思っていなかった。

 どうしたんですか、と驚きも露わに彼らを見るヒヨに先頭に立っていた村長が答える。

「ヒヨオルタ、お前の仕業か」

 村の長という肩書きに合う、よく通る声があたりの空気を震わせた。怒りに光る男たちの目がヒヨに向けられ、思わず一歩後ずさる彼女に向かって、指導者の声は放たれた。

「この俺が後悔する事になると、そう言ったそうだな? つまりこれは、お前の仕業か!」

 怒声にも似た声に、ヒヨはびくりと肩を震わせた。

 村長の言葉には覚えがある。確かに言った。

 こんな事をしていたら、きっと後悔することになる。

 けれど、それをこんな形で実行する人間がいるだろうか。冬の備蓄はともすれば生死にすら関わるというのに。

「どうして・・・私がこんな事をして、どうなるっていうんです。困るのは私たちじゃないですか。子供だってこんな事しない」

 それは彼らも重々承知している事だ。

 悪質ないたずらだとしても、度が過ぎている。

 しかし、村長は怒りの響きでもって闇を震わせた。

「お前だから、怪しいんだ。お前はいつでもこの土地を出ていける。引き留めるものが無いからな」

「は・・・?」

 一瞬何を言われたのか意味を測りかねた。

 けれどすぐに彼らの言わんとする事を理解して、ヒヨは怒りに体が熱くなるのを感じた。

「私が親無しだから、悪さをしてもすぐに逃げることができると。代わりに罰を受ける人間もいないから、何かあればこの村から逃げ出して罪を帳消しにする事ができると。そういう事ですか!!」

 負けじと声を張り上げて、涙が出そうになった。

 誰がそんな事をするだろうか。

 生まれてから今まで、この村で生きてきた。喜びも悲しみも、全てがこの村に、この家にある。

 たとえ家族がいなくても、この家を捨てて逃げるなんてこと、今まで考えた事も無かったのに。

「私はそんな事しない!」

 ひときわ大きく言い放って、ヒヨは目の前の男たちを睨みつけた。

 絶対に負けない。泣いたりするもんか。そう自分に言い聞かせるように背筋を伸ばして地面を踏みしめる。

「帰ってください。もう夜も遅いです」

 話は終わりだと言わんばかりに切り出せば、男たちの中から声があがった。

「お前の家の花壇と畑は枯れちゃいない。これが何よりの証じゃねぇか!」

「そんなのたまたまだわ!! 言いがかりよ! 私じゃない!!」

 反射的に言い返すが、ざわめきはまるで波のように広がる。それを受けて村長は再び口を開いた。

「ヒヨオルタ、我々は村民会議の結果を報告しに来たのだ」

 妙に仰々しい口振りに、ヒヨは訝しげに村長を見る。

 何を言われるのか、想像もしたくない。けれどひとつだけ、確信を持って言える事がある。

 今から自分が聞かされる内容は、ろくなものじゃない。

 胸が苦しい。聞きたくない。けれどよく通る村長の声は、村人たちが出した結論を高く言いあげる。

 現在、村で起こっている畑や家畜の異常の事。

 誰の家でどれだけの被害が出ているのか。最初の予想よりも収穫がどれだけ減ったか。それにより考えられる今後の問題。

 そして、そられの元凶となったものは、チュウアン・ヒヨオルタであると。

 言葉を無くすヒヨに、村長は容赦なく続ける。

「我々村民会議はこの事件の元凶であるチュウアン・ヒヨオルタは鬼であったと決議し、この者を鬼ヶ島へ還す事により事件の解決をはかる事とする」

「私が、鬼・・・?」

 目を見開いて呟いたヒヨに、縄が巻かれる。

 痛いほどにきつく縛られながら、ヒヨは男たちを見渡した。

「私が、鬼だっていうの?」

 意味がわからず茫然と繰り返した問いに、誰かが答えた。

「お前が呪ったんだろう!」

 何かに急かされたような声が耳に刺さる。ヒヨは「ちがう」と小さく首を振ったが、届かなかった言葉の代わりに、別の声が彼女に刺さった。

「お前が村を呪ったんだ! 元は人間だったかもしれないが、お前はいつの間にか鬼に変わっちまったんだよ!!」


 それから、縄を引かれ浜辺へ連れて行かれた。

 抵抗する気力も無ければ何かを答える気にもなれず、ヒヨはなされるがままに目隠しをされ、轡を噛まされてから、村の神社に仕える宮司たちと共に小さな舟に乗せられた。

 鬼を島に還すという儀式は夜にのみ行われるという。

 揺れる舟の上、ヒヨの耳に流れてくるのは鬼と共に呪いを島に残し、再び村の豊穣を祈る宮司の祝詞。

 やがて舟が岸に着くと、今度は鬼ヶ島に怒りを静めるように祈る祝詞が唱えられ、ヒヨは舟から降ろされた。

 足下のごつごつした石の感触は、浜から見た鬼ヶ島の印象そのままだった。

 縄が解かれ、人の気配が遠ざかってすぐに、乗ってきた小舟が再び海に出る音を聞いた。

 それでもヒヨは、しばらく立ち尽くしていた。

 いい加減波の音に耳が痛くなってから、のろのろと腕をあげ、轡を外す。

 自由になった口から、潮のにおいのする空気を胸いっぱい吸って深呼吸をすると、またゆっくりと目隠しを外した。

 闇から解放されて目に入ったのは、広い海と、金色の日の出。

 そして朝の光に浮かび上がる向こう岸。

 外したばかりの目隠しの布を握りしめて、じっと向こう岸を見る。

 高い生け垣に守られた、海のそばの村。

 私を鬼にした、小さな村。


「私が呪ったというなら・・・」

 胸の中がどす黒く染まってゆくのがわかる。

 だからこそ、真に自分が鬼だったならばと願う。

「もしも私が、本当に村を呪ったというのなら・・・」

 悲しみと恨みと、そして憎しみを込めて、自分が暮らした対岸を睨みつける。

 あそこには、幸せも悲しみも全てがあった。繰り返される毎日と共に生があった。

 けれどここはどうだろう。

 この干からびた小石の岸には、見捨てられた鬼の島には、絶望しかない。見る限り、この場所に生へ繋がる道は無い。

 こんな場所に自分を追いやったあんな村、滅んでしまえばいい。

 まるごと、世界ごと、あんな村も滅んでしまえばいい。

 鬼と言うのなら鬼になってやろう。

 呪ったと言うのなら、本当に呪ってやる。

 鬼が人を喰うと言うのなら、私はあなたたちを喰ったりしない。

 代わりに、あなたたちの実りを全部奪ってやる。

 枯れ果てた終焉の島で、ただで終わったりしない。

「私はあなたたちを呪ってから眠りについてやる!!」

 宮司の祝詞など意味なんてない。あんな祈り、なんでもない。それ以上の祈りでもって、あの高い生け垣に守られた村を呪ってやる。


 全部、滅んでしまえばいい。


 あらん限りの恨みを込めて、ヒヨは叫んだ。

 陽の昇る海は金色の光を反射して、朝日に包まれた世界はとても美しかった。

 これまでに彼女が見た、どんな海よりも美しかった。

 だからこそ、余計に滅んでしまえと思えた。

 美しいものも、汚いものも、全部枯れて散ってなくなってしまえ。

 不思議と涙は出なかった。

 代わりに呪詛の言葉を放ったヒヨは、体じゅうの力が抜けるのを感じた。

 今まで感じたことの無いようなその感覚に、彼女は自分の命が尽きるのだと直感する。

 世界を呪ってから死んでやる。

 自分がそう願ったからだと、頭のどこかで納得して、ヒヨは目を閉じた。

 願って言葉にした事は現実になる。

 恐ろしい夜道の安全も、夜道を恐れる娘の苦労や幸福も、家のために嫁いでいった娘の幸福も、娘の幸福のために何かを切り捨てた男の不幸も、村のために誰かを鬼にした村人の不幸も。

 心から願って言葉にすれば、それは全て現実となって訪れる。

 その報いがやってきたのだ。

 呪ったのは、確かに自分だった。けれど、幸せを願ったこともあった。

 謝罪は遅く、もう償うにも力は及ばない。何より恨みと憎しみの心は到底取り消せやしない。

 それならば、世界と共に終わるのもよしとしようではないか。

 本当に自分の呪いで世界が滅んでしまうのなら、共に逝こう。

 

 チュウアン・ヒヨオルタ。彼女が聴いた世界の終わりの音は、繰り返される波の音だった。

 よせては返す波の音に乗って、彼女の呪いは対岸に届き、大地が枯れていくのはその後の話。

 飢えた大地では作物など育たず、人々が土地を捨てた後、小さな村がいっそう小さく、そしてより貧しくなってから、残った僅かな人々は子供たちに話すようになった。

 鬼ヶ島には、呪いを唄う鬼が棲んでいる。

 その鬼の唄った呪いで、大地は日々枯れてゆき、それは今も徐々に内地へ広がっているのだと。


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