第8夜 ―抗えぬ、そこにある闇―
『刻だ―』
『刻が来たら貴様らヴァンパイアを全てこの手で蹂躙してやる―』
彼はそう言い放った。
エステント・リーヴァ
あの時、橘ヶ谷学園に転校してきた1人の男。
そして―
「くっそがあぁぁぁぁ!!」
畳へと拳を叩きつけた。思い切りだ・・・
何を悔やむ―
手も足も出す事が出来ず圧倒的にやられた事?
違う―
「まだ・・・何を迷ってるんだ。俺は・・・」
あの時、蹴り上げたテーブルを盾にしてあいつへと近づき一撃さえ当てていれば勝てる―その確信さえあった。
なのに――出せなかった。
今更何を迷う、何故手を出すことが出来なかったか・・・ただそれだけが頭の片隅に焼き付いて離れようとしない。
何があっても迷わない――いつの日かそう誓ったはずなのに
「おはよー!!雅人く・・・ん」
いつもの通り同じ時間に俺の部屋に入ってきた杏樹。
さぞ驚いた事だったろう。
彼女の視界に映るのは転がる二本のジュースの缶、そして一面にぶちまけられたその中身。
そして情けなくうずくまる俺・・・
「雅人・・・君?」
「・・・おぅ」
しばらくの間沈黙が続いた。それもそうだろう、こんな光景では。
「なん・・・かさ!」
なんとか笑おうとした、それがかえってよくなかったのか自分でも分かるぐらいバカらしい顔をしていたのだと思う。
杏樹はそんな俺を見てか何も喋ろうとはせず中に踏み入って中身が零れて空になった缶を拾い集めている。
「ジュース・・・こぼしちゃってよ!テーブルなんかに突っかかるとか馬鹿らしいよな、俺!!まぁ待ってろって。すぐ行くからよ!」
――滑稽だ
ピエロのように振る舞い、自らをバカにしそれでもなおかつ笑う。
だけどそれほど信じようとしていた・・・
(なんでだよ・・・)
いつものように笑い通せばどれほど楽か、だけどそれが出来ないのが人間だ。
だけど彼はまるで機械のような眼で俺を下した。
蹂躙する―と
(お前に何があったんだ・・・)
その思いは何なのか、どこから来るものなのか、今はまだ分からなかった。
分かろうともしない自分がいた。
「んじゃ・・・行こうぜ」
ただ冷めたようなドアを閉じた。
「ねぇ、雅人君!」
「あ?どした?妙に元気だな・・・」
杏樹といえばいつも通りに明るそうだ。
それは俺には無いもので今となっては心の拠り所のようなものになっている。
「・・・・・」
「・・・」
「・・・・・」
「喋れ!!」
ビシィッ!!と空手チョップ一閃である。
今のはツッコミとしては芸人に並ぶぐらい素晴らしいものだ。
「痛いぃ!?・・・痛いです」
「いいから喋りやがれ。それも簡潔に!」
「・・・・痛いです」
ちょっと強すぎたのだろう。
杏樹は頭を押さえながら地べたに座り込んだままだ。
「ん゛〜・・・」
かと思えばいきなり顔を上げてこちらを向き頬いっぱいに空気を詰めて俺の方を見つめる。
本人としては怒っているのだろう・・・けど他の人から見たらどうやっても笑える姿である。
「わ、悪い悪い。んで何だっけか?」
そんなある意味必死な姿にある意味で圧倒された俺はとりあえず折れる事にした。
それで納得してくれたのだろうか杏樹も起き上がってくれた。
凄く単純すぎる・・・
そうして歩き始める俺にそれこそ必死に追いつこうと走って追いかけようとしている。
しかしどんくさいといえばどんくさいがそれはそれで・・・
って何俺バカな事ほざいておりますか!?
「ま〜さと君!!」
それはまさに不意な一言だ。
スピードといいタイミングといい今の俺を『落とす』には造作もないような強烈な口調だった。
「ま〜さと君!」
また、だ。
どうしてコイツは・・・こうもいかにもなタイミングで狙ったかように俺の心を揺れ動かすんだ。
俺ってそんな趣味が―とまで自分を疑ってしまうほどに、だ。
しかしそこで疑問が湧いた。
(なんか・・・変だな)
疑問と言うよりは直感のようにそれを感じた。
(若干、声が変な気がするんだが?それに杏樹は・・・)
その聞く事に慣れた声の中で微かに生まれた変化は俺の中で過敏に反応していたのだ。
「ま〜さと君!」
俺の後ろから幾度となく聞こえる声に対し、即座にそれに反応する。
そして振り向く。次の瞬間には心の壁が崩壊したような―そんな気がした。
「ま〜さと・・あ゛」
「あ・・・じゃねーよな・・・やっぱりお前かノエルさんよおぉぉ!!」
杏樹のものであった声は実はノエルの口から発せられていたものであった。どうりで変なわけか・・・
「おっはよぉぉぉ〜!!お兄ちゃん!」
ふうぅぅぅぅぅぅぅ、とそのまま一年ぐらい時が過ぎて欲しいとさえ感じさせるほどの長いため息であった。
毎度の事ながらコイツはふぉんとにもう・・・
「ん゛っん゛っん゛〜!?」
何を考える・・・ノエルは激しく咳払いをし始める。一体何に気を止めてほしいのやら私にはもう分かりかねます。
「お兄ちゃん!ノエルねぇ!!他の人の声真似なんかが出来るようになったんだよ!とりあえず今やってみたのはこやつの・・・」
『こやつ』とノエルが指して言っているのはどうやら杏樹の事らしい。しかしそんな事してなんになるやら・・・?
「雅〜人くん!!」
「は〜あ〜い?・・・・ってあぁぁぁあぁあ?!!ややこしすぎるんだよテメェぇぇ!!」
なんのために!?んな事もう考えてられっかぁ!あっちにも杏樹、こっちにも杏樹って混乱してしょうがねぇ!!
「雅〜人くん?あれ?」
「参りました・・・もう十分っす」
文字通りお腹いっぱいです。
もう許して欲しいと懇願した時・・・その思いは伝わった。
「なんで謝るの?ただノエルは・・・お兄ちゃんの好きなパターンを探してみようと思っただけなのにね。・・・雅人君!」
全然思いが欠片も伝わって無かったようで何よりです。
「・・・もうやめてください!!」
意外、本当に意外だった。
その声は俺とノエルの間を割ってはいるように光臨した。
精一杯の勇気、その言葉が相応しい杏樹の一言だった。
「杏・・・樹?」
「雅人君・・・嫌がってますよ」
震えるような声でノエルの前に立ち尽くす。その様子をまるで怖がらないようにノエルは対照的に鼻で笑っているほどだ。
「フフっ、小娘が出しゃばっちゃってノエルの前に立って何をしようって言うの?」
本当だ。冬だから寒くて手が震えているとかそういうわけでもなくただ単純に杏樹も恐怖しているのだ・・・
「雅人君は・・・」
手だけでは無い、体全体が震えている。そんな中で放ったその言葉。
「渡しません」
その言葉に俺は感動していた。普段は何もしないようなやつなのに・・・何故かこの時だけは違って見えた。
えぇ、その言葉が来るまでは―ですけどね。
「雅人君がいなくなったらご飯を用意してくれる人がいなくなりますからね・・・」
人間、本気で悲しいと思ったのはどんな時ですか?
僕はこんな時です。
by 俺
とそんなおふざけもほどほどに時は進みます。
「ふふふ・・・」
流石ノエル、杏樹の馬鹿げた言動に対しても挑発に乗らず余裕しゃくしゃくといった様子だ。
まぁ普通であればそうでなきゃ困るんだが・・・
「それじゃあ一層負けてられないわね・・・!!」
このアホ娘・・・なんか勝負に乗っちゃいましたよぉぉぉぉ!!
今・・・確実に分かった。
この2人、どうみても『一緒』だ・・・
「っと待て!はい、ちょっと待てぇぇ〜!」
そりゃ一時中断させざるをえないだろうな、このバカっぽい雰囲気は。
「ところでお二人さん、何に対して争ってるのか言ってみ?」
「ん・・・」
「ん〜〜」
うわっ真剣に悩んでるよ!真面目なぐらい真剣だ!
「何に対して・・・ですか?」
「そうだよ!もう何に対してとかよく分かんなくなってきてってか・・・あぁあ!もうわけが分からん!とっとと学校行くぞ!!」
俺もこの通り制御不能だ。どうにかしてくれ。
いやほんとどうにかしてと・・・
「んでこれは何よ?あぁ?」
「こら!小娘が、お兄ちゃんにこれ以上近づくな貴様!ほらお兄ちゃんも嫌がってるし!シッシッシッ!!」
「はいはいお前の事だ。落ち着けノエル」
右腕が引きちぎられるぐらい捕まれている。
どうやらノエルはさすが人間離れしたような握力を持って俺の右腕を引きちぎようとしているのだろうな。絶対に離そうとはしない。
ついでに杏樹に対して厳重と言っていいほど素晴らしいセキュリティーの警戒網をしいている。どうやら半径5m以内は蟻一匹すら入れないらしい。
そのおかげか杏樹との距離はどんどん離れていく・・・
それに比例するようにノエルはギッチリと腕を掴んで離さない。こりゃ尋常じゃないわ・・・俺だって痛いもんは痛いってのって!
痛い!痛たたたぁ!?
「痛った・・・?」
明らかに――ノエルの表情に変化が表れていた。
いつもの、さっきまでの明るい表情から何か悲しいものを見つめるような深く悲しい顔。
それは一度だけ見た・・・
孝太郎の見舞いに行く前、振り払うようにして拒んでしまったノエルが俺に向けた氷のような瞳。
忘れる事は無かった。
「・・・わい・・・の」
「・・・ん?」
微かに、震えるような今にも消えてしまいそうな声―
「・・・怖いの」
ノエルは確かに言った。
「お前・・・?」
普段の様子からは感じとれないような、普通じゃないその雰囲気に俺は微かではあったが違和感を覚える。
震えていたのか・・・それだけにその一言に確信が持てなかった。
「なぁ・・・」
「な〜んて!!ビックリした?お兄ちゃん!今朝からドッキリ企画をお届けしたノエルでしたぁ!!」
勇気を振り絞って声を掛けようとした。が、返ってきたのは元気であるいつものノエルであった。
「はぁ?・・いや・・・それドッキリにもなんにもなってないし、てないし、それにさ・・・」
「いや〜いや〜いや〜、今日はまたお兄ちゃんの違った表情が見えてノエルも嬉しい限りです!ご協力ありがとうお兄ちゃん!」
一切、言葉を通そうとはしなかった。
その姿は今の俺にも似ていた。
「そ〜言えばお兄ちゃん?今噂になってるあの『事件』って知ってる?」
「は?事件・・・?なんだよいきなり」
「そう、今すんごい噂になってるでしょ?あの『連続無差別意識不明事件』!」
「なんだその凶悪そうな言葉を無理やり取っ付けたような怪しい事件は。つうか俺の部屋にテレビなんか上等なものはないぞコノヤロウ」
冗談はさておいて、本当にそんな事件など耳にした事は無かった。
杏樹の『あれ』以来―
「そっかぁ・・・でも凄い気を付けて。ほんと危ないの・・・お兄ちゃんにもしもの事あったら」
「もしも・・・?」
「お母さんにも言われてる・・・この事件は何か変だって。絶対何かあるって・・・」
その緊迫した言葉から推測される通りこの話はよほどの事なのだろうか―全てはノエルの瞳が物語っていた。
「一昨日から今朝まで6人、若い人間から老人子供まで・・・そしてノエル達みたいなこの街に住むヴァンパイアまで犠牲になってる。ニュースとかではまだ発表されてないみたいだけどもう凄く噂になってる・・・」
――ヴァンパイア
その単語が耳についた時俺は態度を改めた。
「分かるよ、お兄ちゃん。『信じられない』んだよね」
まさにその通りだ。今挙げられたように人間ならば―ましてや老人子供ならば話は分かる。
だがその単語一つに問題があるのだ。
「ヴァンパイア、が・・・」
「そう。信じられない話だけど」
ノエルが冗談を言っている様子は―無い。
ヴァンパイア、それだけに関しては自分が十二分にも分かっている。自ら体現し、そして対峙した。
シュベルヌ、シュリア・・・いずれも人の域を越え、人外としてこの世に位置しているものと対峙したのだ。
『コレ』と対峙する意味、それは『死』そのものなのだと。
人を殺す事に躊躇すら無く、そしていかに残忍に生命を踏みにじる。それが人外というものなのだ。
それが―
「信じられない話よね、ほんと。でも起こってしまった事なの・・・」
「どうなってる」
「え・・・」
「犯人と犠牲者は・・・どうなってるって聞いてんだ!!」
吠える―
朝の寒気は飛び散り、もう冬になろうとするその季節に地を覆うアスファルトは確かに熱を帯びようとしていた。
「確かな事はまだ・・・でもみんな魂が抜けたみたいに抜け殻になってるって・・・今分かってるのはそれだけ、それに―お兄ちゃん?」
既にそれ以上の言葉はもう必要無かった。故に向かう矛先は変わる―
ジャリッと乾いたアスファルトを右足で噛み締める。
「充分、だ」
ただその一言を吐き捨てる。目線はもうノエルを捉えてはいない。
そして動き出す。地面を―アスファルトを駆り次には踏み抜く。全身に巡る血管がたぎるように熱くなるようだ。
『蹂躙する―』
それがアイツの示した答えであるならそれは仕方がない。
だったらその答えを俺は――砕く。
初めて生まれた負の意味での『殺意』はこの抑えきれぬ体を駆り立てるには充分過ぎた。
頭は考えるのを止めた。
文字通り真っ白に―
それぐらいがちょうどいいと俺は思った。
「また・・・かぁ」
深く、ため息をつく。吐いた後は自らに対して何が笑えるわけでもないのにただ笑った。
「ノエルちゃん・・・でいいよね?」
後ろから誰かに声を掛けられた。
唐突ではない、先ほどから後ろにずっとついていたのだから。
「何よ、狼女。近寄らないでちょうだい。ノエルの鼻がひん曲がっちゃうから――」
言葉は遮断される。それに何かを感じた。杏樹の瞳だ。
「それはあれ?なんで自分が狼女だって事を知ってるのかって顔?答えは簡単よ。全部お母さんが教えてくれたの・・・全部ね」
「違う」
「はぁ?何よ。それとも何?お兄ちゃんとノエルの仲に嫉妬した?」
「違うの・・・」
「じゃあ何よ!?はっきりいいなさいよ!!」
「ノエルちゃんは何を隠してるの・・・」
間を置いて、それでも拍子抜けした一言だった。
「何を・・・って何そのバカな質問」
「違うの!ノエルちゃんは何かに怯えてる・・・私とは違う何かに・・・!!」
「ふざけないでっ!!」
怒鳴りつけるようにノエルは息が途切れるほどに強くそれを吐いた。
そうする事で全てを拒絶した。
当たり前のように会話が止まった。
そこに元々会話など存在していなかったようにそこに静寂が走る―
「ふざけないでよ・・・」
ノエルは怒鳴るのを止めた。そして疲れた様子で杏樹へとその背を向けた。
途中、冷淡な視線が送られる。
だけど―
そこには悲しみしかなかった。
「おい!雅人ぉ!」
校門を過ぎた辺りで走り込む俺の名前を叫び追いかけてくる声がした。
百樹の声だ。
その声に反応する余裕などは無く、気付いた時にはそれは遠ざかっていきそして消えていた。
学園へたどり着く。
生徒が巻き起こす喧騒すらもう耳に入らない。
吐く息からは季節を表すように白く霧がかったような息が広がる様子が窺える。
玄関、歩みを進めた先に教師達が連なっている。
それもそのはず今日は今日も加わった挨拶運動の日だ。
教師である宮穂 武の姿を捉えた時俺はそうだと思い出した。
「こら、山本雅人、お前も今日は挨拶運動の係の1人だろ。早く準備を・・・お前、どこに」
言葉は途切れた。俺は歩むのをやめようとはしなかった。理解したように宮穂 武も一旦は喋るのをやめた言葉を続けようとはしなかった。半ばそれは呆れに近いものだ。
玄関に踏み入った。
やはり朝だというのに他の生徒達の声が響き校内に活気というものを生み出している。
そんな学園の雰囲気から見たらとても合うとは思えない、その無機質なげた箱から中履きの靴を取り出して履く。
呼吸を置き、辺りを見渡した。
見つけようとしている人物はただ1人だ。
そこに焦りはなかった―
だけど高騰した思いはそれだけに重く、止む事を知らずに爆ぜようとしている。
再び見渡した先に人の集まる1つの空間が在った。
見た限り女子の集団で構成されており端から見たらウルサい限りなのだろう。
だけどきっとそこに『アイツ』がいると根拠のない確信が告げていた。
珍しく内履きをちゃんと履き、廊下を踏みしめる。
そこにある女子の集団を手でかき分けるようにして足を進めていく。
「・・・君か」
確かにソイツはそこにいた。
おそらくは朝早くから来たにも関わらずここにいる女子によって質問責めにあっていたのだろう。
でも既にそんな事は関係なかった―
ソレを思い切り振るう。
鈍く鋭い音と共にソイツは、リーヴァは廊下に倒れ込む。何の迷いも無く降られた拳は十分なほどに『響いていた』
「立てよ・・・」
低く、恐らくは殴られたリーヴァ本人にしか聞こえないような高さの声を放つ。
数秒してやっとの事でか状況を理解した女子の集団が1人、また1人とかすれたような悲鳴を漏らした。
「リーヴァあぁああぁぁぁぁ!!」
獣は吠えた―
鎖から放たれたようにそれは爆発し牙を獲物へと向ける。
しかしそれは雅人にとっては『今』の怒りの矛先でしかなかった。
女子の悲鳴はそこで止まり、まるで愛する母親にしかられ意気消沈した子供のような表情になっている。
異質な雰囲気と悲鳴を感じてか玄関から教師達が宮穂 武を先頭に走ってきた。
「おい・・・お前らなにし―」
その凄惨な状況を見てか一目で見てわかる状況で問題を起こしたであろう雅人へと声を張り上げ止めに入ろうとする。
――その目だ
そうしようとさせないものがそこに存在していた。
だから誰も止める事など出来る筈もなかった。
そうした中ゆらりと、ただ1人だけ動き出す者がいた。
リーヴァは立ち上がり口元から僅かに滲んでいた血の後を手で拭った。
何も無かったように、しかし言葉だけは確かに怒りを露わにしていた。
「酷い事だと思わないか・・・理由も無しにいきなり。どういう事か説明してもらいたいものだ」
「説明・・・だぁ?」
お互いに全くの引けを取ろうとはしない。
そこにいた誰もが分かるように今はまさに一触即発といったところであろう。
必然に静寂が訪れる。
「それは殺意か・・・?山本雅人」
抑えきれぬその思いの重さを集約したように瞳に殺意が宿る。
それは威嚇のようなものではなく確かに体全体に帯びるような明確で分かりやすい敵意であった。
「君が何に対して怒りを覚えたかは分からない。だがこれだけは―――っ!?」
時が爆発する。
人知をも凌駕するスピード、それを超える。
一瞬、遅れて雅人が立っていた位置から砂塵が舞う。それは見る者全ての視界を遮る。
しっかりと握り締めたその右拳は一直線にリーヴァと言う目標へと向かい、そして一撃にて倒す――筈だった。
「・・・・ガハァッ!?」
そこにある答えは違った。
飛び散りまるで花びらのように舞う『朱』と言う色。
伏していたのは雅人だった。
「まるで猪のようだな。猪突猛進と言う言葉は君の為にあるような言葉だ」
吐き捨てるように向けられる言葉。
たった1つの情も無くまるで道端に落ちているゴミに対して吐き捨てるように―
「・・・やるじゃねぇか。クソが!!」
他の者には見えていない世界がそこにはあった。
研ぎすまされた右の拳は真っ直ぐにリーヴァの顔へめがけ、そしてなぎ払うように向かっていった。
だがそこまでだった。
結局それは届かず逆に拳を受ける結果となった。
何があったのか―リーヴァという男にはそれは愚問だった。
向けられた拳、それは単に『直線』でしかない。
直線はその名の通り『まっすぐな線』でしかなく、それを避けた時それは再びリーヴァへと向かう事は無い。
故に避けるのは容易い事であり、その無防備になった雅人の顔面に拳を入れるのは簡単な事だった―
「また来るか。その分かりきった攻撃をいつまでも続ける気があるなら来ればいい・・・何度でも」
問いかけは自信の現れでありそこに誇張などは無かった。
絶対の自信、それがリーヴァの突きつける問いかけと言う名の言葉だった。
その問いかけに答えるように雅人は立ち上がる。
そこには半ば笑みを浮かべる雅人の姿があった。
リーヴァはその笑みの理由が分からなかった。実際のところ分かったところでどうなるわけでもないと理解しているからだ。
「一撃・・・たった一撃入れただけで俺に勝ったとかほざくんじゃねぇだろうな・・・」
膝に手を置き力を入れやっとの事で立ち上がったのだ。
リーヴァの一撃は確かに効いていた。
そんな状況下で雅人が放った一言にリーヴァは気圧される事はない。
だがそれでもなおその言葉には力があった。
「ざけてんじゃねぇぞ・・・来いよ」
階段を指差す。
それが何を意味するのかは分からない。
「その階段を登っていけば君が勝てる、そうとでも言いたいのか?」
もっともな一言だった。
実際に全く根拠も無い自信の表れである。
しかしそこにはそれに乗るリーヴァの姿があった。
階段を登る雅人を追うように一段、また一段と歩んでいく。
二階、三階と歩みを進めていくごとに辺りにざわめきが走る。
びっしりと各々の階は生徒達で埋め尽くされていく。
蹴られ飛ばされたコンクリートに叩きつけられるドアの音。
無機質でいて乾いた金属音は校内中に児玉して鳴り響いた。
屋上のドアを越え淀んでいた灰色の校舎に光が入る。
その光の先にはまた、無機質なコンクリートの壁や錆び付きかけたフェンスが広がっているだけだ。
「1つ聞くぞ・・・」
鉄製のドアを閉めた後、低くも力強い声でそう言った。
「お前・・・何をした」
「何、を?」
あらかた予想がついていた問にあっさりとしたまるで興味などは微塵もないような態度で告げる。
「なるほど、そういう事か。
だが――君は勘違いをしている・・・僕はまだ何もしていない。言ったはずだ――刻が来たらと」
「勘違い、そう言うんだなお前・・・普通の人間を巻き込んでか!?」
「そうか・・・」
ゆっくりと距離を取り始める。それに気付いたか雅人も応じて動き始める。
「ヤツか・・・動いたのは」
ヤツ、と言う単語に思わず体が反応していた。
「何を言ってんだ。おい」
言い切るより一瞬早く雅人は駆ける。
怒りを露わに飛びかかろうと距離を縮めあと少しでも、あと一歩でも踏み込めば捕らえられた。
だが返ってきたのはその洗礼だ。
たった昨日同じものを雅人は受けていた。
深く抉り込む刀のような斬撃。
それは――肘だ。
「ぁガァっ!?・・・かはっ――」
馬鹿げたスピードだった。
それは体の内側から衝撃が二倍、三倍にも膨らみそして爆ぜる。
時が経つごとにそれは顕著に表れ痛みがハッキリと脳内を通り信号となって全身へと伝わる。
「どうした。僕を殴りたんじゃないのか?座ってばかりじゃ何も出来ないだろ?」
余裕の表れだった。
まさにその通りだったのだから・・・
「ふざけんじゃ・・・ねぇ」
マトモな状態ではない。それは確かだった。
雅人は自分の肘を支点にし上半身を起き上がらせ必死にやっとの思いで立ち上がった。
「マトモじゃないな。起き上がるだけでも必死な筈だ。そうまでして僕に向かう。その理由が全くと言っていいほど分からない・・・聞いてみようか。何故―そうまでする?」
嘲るように笑う。実際のリーヴァの態度としてはそうではなかったが端から見ればそうにしか見えない。
「ざけんじゃねぇ・・・」
やっとの事で雅人は壁にもたれ掛かるような形で起きる、と言うよりは這い上がった。
一歩、また一歩と両の足を引きずるようにして徐々に進む。
その確実な一歩はリーヴァの元へと届いていた。
「まだ・・・聞いてないんだよ」
足が上手く噛み合わないのか、雅人は左足に突っかかり前に倒れ込んむ。
それは止められる―
真正面に立ち尽くすリーヴァが抱え込みそれを阻止した。
半ば、呆れていた。
何故にこうまでするか―それが理解出来ない。
「何をする気だ・・・」
かすれるような声、詰まり今にも消えそうな声だった。
「答え・・・やがれえぇえぇぇ!!!」
拳が振られる。
最早体力の欠片すらも見られない様子だった。
故に――そこに奇跡などは無い。
拳がリーヴァの顔へ届くより先に手のひらが『添えられた』。
それは最初から届きはしない拳だった。
だがそこには――
「意外に長くかかったものだ・・・もう一時限が始まっている」
何故かは分からない。
こんな茶番は自分にとって何を得られるわけでもない。得られたからと言ってそれははっきり言って大したものではない。
――だから茶番だ
(ヤツが言っていたよりも特にどうと言う事も無かった。やはり彼の能力を少し買いかぶりすぎてるように思えるが・・・)
予想はどうやら外れたようだ。
それを明確に示すように今の現状がこうして『結果』としてここに存在しているのだ。
しかし別のものが疑問として生まれていた。
(何故・・・発現しない)
大いなる疑問だった。
リーヴァは認識していた。山本雅人はほんの最近だとはいえ――ヴァンパイアとして『発現』した紛れもないリーヴァにとっての憎み忌むべき標的、獲物である。
それは『ヴァンパイア』を倒す事で果たされるもので『人間』としての山本雅人を倒す事は意味の無い事だった。
だがそれは仕方がない。感情を押し殺してまでもコレはやらねばいけない事なのだ。
リーヴァには『成し遂げねばならぬ』事がある。
それは彼女を、レミアを殺したヴァンパイアを一掃し同じ痛みを与える。
蹂躙する――
それは恐怖だ。
恐怖が全てを覆い尽くす。戦慄と混沌とが混じり合い、まるで『死』を具現化したように降りかかる。
ゆっくりと――そして徐々に染み渡るように浸食する。
そこにあるのは確かな――死――のみだ。
「な・・・んだ」
揺らめき、確実に迫り来る恐怖と言う名の感覚を確かに感じた。
「何が起こっている・・・一体何が―――」
言葉は続かない。それは最早当たり前の事だった。
―彼がそこにいたから―
「―――っ!!」
瞬間、空間が爆発する。必然にそれが狼煙となった。
何が起こったか、そんなものばどうでもいい事だった。
考えるという事・・・それはこの局面ではそれこそ死を意味する。
リーヴァにとって『思考』する事は物事を『確実』へと運ぶ材料なものだと考えていた。
それを否定されたのだ。
そうだ。そう言わんばかりの事態が起こる。
左腕から滴る赤い雫。しかしそれは最早雫とは到底言えない量の血液である事は明らかだった。誰から出ているかそれは分かりきった事―
「ははっ・・・恐ろしいな。酷く恐ろしい・・・」
その言葉の恐ろしさ、それはリーヴァの左腕から流れ落ちる血液の量を見れば明らかなものだった。
震えるリーヴァのその声は自分の置かれた状況を克明に物語っていた。
ヴァのその声は自分の置かれた状況を克明に物語っていた。
本当の人外を――
『ソレ』を纏う辺りの空気は揺らめき全ての生き物は息絶えようとしていた。
コンクリートのタイルの隙間から必死に『生きたい』と生えていた植物は枯れ果て黒く荒んでいく。
纏うものはそれだけではない。
絶望――それが全てを蝕んでいく。
「なるほど・・・」
その状況、リーヴァは理解した。
危機を感じた、そんなものではない。
それはすでに死と対面しているのだ。
その意味を理解した―と
妖しく、そしてソレへ向けられる銀を纏いし狂気の刃。
二挺をして構成された美しき銃身の獣は鎖から今まさに放たれようとしている。
「そうか・・・」
リーヴァは笑う。何がおかしいのか、それは第一に自らに問いかけられた。
答えは出ない―当然だ。
この問いに答えなどは無い。
「ソレが『お前』か――山本雅人!」
時は動く。
放たれるは戦慄、山本雅人であった『ソレ』は雅人の四肢を軋ませ肉体の限界をこえようとする。
片足を一歩踏み出しクラウチングスタートのような体勢を作り上げる。
やった事はそれだけだ。
それだけの『行動』とは到底言えない単純なただの動きの中で丈夫であるはずのコンクリートは破砕音と共に砕け、粉々に飛び散り空へ舞う。
重力と言うものは便利なものだ。
それは地球を構成する物理であり万物はそれを覆せない。
砕かれたコンクリートの破片もそうだ。
宙に浮いたそれもやがては1秒とかからずに真っ直ぐ、元あった場所へと落ちる。
だが――違った。
それは『線』だった。
ただ真っ直ぐに音も無く引かれたライン上を駆ける。
それは飛ぶと言うよりは進んできた。
コンクリートの破片は姿を消し、そこに巻き込まれる。
二挺を構える。
既にその時は銃を構える判断が遅い、と感じる事さえが『遅かった』。
左腕から流れ落ちる血液を纏いながらその銃身はなおも美しく輝く――
銃身を構成する金属と金属とが僅かに擦れあう音。
僅かにそれを聞いたのちリーヴァは躊躇わずトリガーを引いた――
はずだった。
時が停まる――
風は鳴くのを止め、
雲は動くのを止め、
全ての生き物は静止していた。
鳥も、木も、川のせせらぎも―
全てだ。
まるで死んでいるかのように―
リーヴァはその瞳を疑った。
トリガーを引いて確かに放った銃弾はその銃口から僅かに顔を出し今にも目標へと向かい貫かんとしていた。
だがそれは、それ以上進まなかった。
――何故
手が覆っている。
確かにその瞳に映っているのはその場面だ。
手は銃身を覆い耳障りな摩擦音を放ちながら佇んでいる。
誰の手だと、リーヴァはそう疑問を感じた。
誰が銃弾を止められるものかと、そう疑問を感じた。
答えは『ソコ』にある。
「真祖・・・アルベリウス エル・・・ヴィレイナ」
その言葉に対する答えは返ってこない。
返ってくるはずなどないのだ――
「君は、何を願う」
奇怪な問いだ。
求めてもいない問いがそこにあった。
「君は、何を祈る」
また、その問いだ。それの指す意図すら読み取れぬうちにそれはリーヴァの瞳に恐怖をもたらして魅せた。
「――――!?」
ソレは事切れていた。
先ほどまでリーヴァが対峙し死すらも脅かした、いや確実な『死』であったソレが力無くその場に伏している。
山本雅人であったソレからは既に生気の一片すらも感じる事は無かった。
「何を――」
それから言葉は発する事が出来なかった。
発していれば確実に今の瞬間『死んで』いた。
「なるほど」
嗤う
一片の悪も無く、一片の善も無く、それはただの笑うというだけの行為に過ぎなかった。
故に『空』である事にリーヴァは本当の恐怖の意味を知る。
「さすが本物といったところか・・・」
その言葉に意図は無い。ただ感じたありのままの感覚をそのまま吐いただけの事だった。
刹那――銃身を向ける。一瞬の迷いも無く目の前の脅威であるそれを抹消するため、それを弾こうとする。
だが、出来ない。
五本の指は目に見えないものに打ちひしがれたように動かなかった。酷い事に体は正直だった。
しかしそこにある殺気だけは消え失せる事だけは無かった。
銃口だけは確かに目標へと反れる事無く真っ直ぐと向けられている。
それが今リーヴァに出来る『最期』を覚悟した行為だった――
「懸命―」
吸血鬼は嘲笑う。
「適した判断ね」
それは咲き狂う花のように―
「・・・待て!!」
踏み入るように人外へ叫ぶリーヴァの怒号。
意外、と思ったのかそれが止められる事は無かった。
「貴様は―」
ピンと張り詰められた空気の中、リーヴァは放つ。
「知っているのだろう。ソレを――」
理解と言う意味に言葉は必要無かった。
その吸血鬼はその『意味』を知りながら笑い、『意味』もなく笑ってそう告げた。
「いずれまた逢おう、その時は――」
その言葉を最後に吸血鬼は消えた。
時が戻る。全ては生を取り戻したように動き始める。
風は冬の訪れを告げるように冷たく鳴き、
雲は灰色を彩り、
全ての生き物は生きていた。
鳥も、木も、川のせせらぎも
そう―全て
ただ1人―
復讐鬼は哭く―