表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/21

患者

 コンコン——。

 ユールベルは息を吸い込んで決意を固めると、立て付けの悪い扉をノックした。

「入れ」

 すぐに、中から短い返事が聞こえた。相変わらず愛想のかけらもない声である。しかし、それさえも懐かしく感じてしまうくらい、長い間、ここを訪れていなかった。ユールベルはもう一度、深呼吸すると、ゆっくりと扉を引き開いた。

 机に向かい本を読んでいたラウルは、ページを繰る手を止め、椅子を回して訪問者の方に体を向ける。そして、ユールベルの姿を認識すると、無表情のまま僅かに眉を寄せた。

「座れ」

 そう言って、顎で丸椅子を指し示す。

 ユールベルは引き戸を閉じて、素直に彼の前の椅子に座った。ギシ、と小さな軋み音が響く。

「おまえほど言うことを聞かない患者もいない」

「うそつき。私以外に患者なんていないくせに」

 溜息まじりで落とされた言葉に、間髪入れずそう言い返したが、ラウルは何の反応も示さなかった。いつものように、無言でユールベルの頭を引き寄せると、抱え込むようにして後頭部の包帯の結び目をほどこうとする。が、いつになく手こずっているようだ。

「下手だな」

「えっ?」

「この包帯の結び方だ」

 それまではユールベル自身やアンソニーが結んでいたが、最近ではジョシュが結んでいる。決して下手ということはないだろう。ただ、固く結んでほしいというお願いをきいてくれているだけだ。反論したい気持ちはあったが、今はあえて口をつぐんだ。

 広い胸に両手を置いたまま、あたたかさと鼓動を感じながら目を閉じる。

 ラウルはしばらく結び目と格闘して、何とかほどくと、大きく手を回しながら包帯を巻き取っていく。覆われていた部分が露わになり、外気に触れてひやりとした。すぐに彼はユールベルの肩を押して体を離すと、手を洗って戸棚から薬と包帯を取り出し、左目とそのまわりを順に診察する。

「目のまわりが少しかぶれている。これ以上ひどくなりたくないなら、こまめに医者に診せろ。私でなくても構わん」

 そう言うと、手早く薬を塗り、新品の包帯を巻き付けていく。そして、再び頭を引き寄せようとするが、ユールベルはラウルの胸を押し返してそれを拒んだ。怪訝な眼差しを送るラウルに、何も答えないまま、丸椅子をゆっくり回して背中を向ける。ラウルも何も言わず、その後頭部に手を伸ばして包帯を結び始めた。

「私、これからもラウルに診てもらうわ」

「だったら真面目に通ってこい」

「ええ、そうするつもり……」

 ユールベルは緊張を緩めるように小さく呼吸をして、言葉を継ぐ。

「私、もうすぐ結婚するの」

 包帯を結ぶラウルの手が止まった。しばらく無言で固まったあと、再び手を動かし始める。

「本当なのか?」

「信じられない?」

 ユールベルは思わず挑発的な口調で言い返した。しかし、わかっているのかいないのか、ラウルはますます神経を逆なでするようなことを言う。

「当てつけか? それとも自棄か?」

「ひどい自惚れね」

 ユールベルは呆れかえった。包帯を結び終わってラウルの手が離れると、くるりと椅子を回す。緩やかなウェーブを描いた金色の髪とともに、後頭部で真新しい包帯がふわりと揺れ、再びラウルに真正面から相対した。濃色の瞳を睨みつけて言う。

「おめでとうくらい言えないの?」

「めでたいかどうかわからん」

 ラウルは素っ気なく答え、包帯の残りと薬を片付け始める。

「……相手は誰だ」

「あなたは知らないと思うけど、私と同じ研究所で働いている人よ。その人はラグランジェ家の人間ではないから、私もラグランジェ家を出ることになったの。おじさまにも許可をもらったわ」

 ユールベルは淡々と説明した。そして、相槌すら打たない無表情な横顔を見据えて話を続ける。

「私、ようやく見つけたの。逃げ込める場所じゃなくて、縋りたい人じゃなくて、一緒に生きていこうと思える人。なぜだかわからないけど、彼と一緒にいると、虚しい気持ちにならずに、穏やかな気持ちでいられるから」

「そうか……」

 ラウルはその一言だけ落とすと、机に向かった。

 ユールベルは目を細めて広い背中を見つめた。そして、音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると、その背中に小さくお辞儀をし、まっすぐ出入り口に歩を進めて扉に手を掛けた。そのとき——。

「ユールベル」

 不意に名前を呼ばれて振り返る。しかし、彼は机に向かったまま、こちらに目を向けようともしなかった。どういうつもりなのかと怪訝に眉をひそめる。長い沈黙が続いたあと、小さくラウルの口が開いた。

「幸せになれ」

 瞬間、ユールベルの右目から涙が溢れそうになった。すんでのところでそれを堪えると、もう一度小さくお辞儀をし、うつむいたまま医務室を出て扉を閉めた。そして、早足でそこから離れると、胸に手を当てて深呼吸しながら顔を上げる。


 ありがとう。

 これまで拒絶し続けてくれて。

 多分、あなたは優しかった——。


 今度こそ本当に大丈夫だと、ただの患者になれると、ようやく心からそう思えた。ゆっくりと階段を下りて外に出ると、目映いばかりの鮮やかな青空を仰ぎ、白いワンピースをひらめかせながら王宮をあとにする。その足取りは、今までにないくらい軽かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ