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荒波

「ユールベル、データの集計は進んでる?」

「はい、まもなく終わります」

「じゃあ、終わったらジョシュに送ってね」

「はい……」

「よろしくー」


 ユールベルは実習生として魔導科学技術研究所に来ていた。あと半年ほどでアカデミーを卒業し、その後、ここで勤務することになっているのだ。

 社会に出てやっていける自信など、彼女にはなかった。

 だが、そうしなければならないとサイファに諭された。それが社会のシステムなのだという。ユールベルも18歳になり、成人となった。いつまでも子供のままでいてはいけないのだ。

 両親から受けている金銭的援助も、アカデミー卒業後に打ち切ることに決定された。つまり、自分が働かなければ、生きていくこともできないのである。

 サイファは困ったときは手を差し伸べてくれる。だが、決して甘やかしてはくれない。

 そのことについて不満があるわけではない。自分のためであることはわかっている。ただ、漠然とした不安が自分を苦しめていた。

 しかしまだ三日目だ。こんなところで挫折するわけにはいかない——。


「集計……終わりました」

「ああはいどうも」

 ジョシュはモニタから目を離すことなく、投げやりに答える。

 ユールベルは彼が苦手だった。

 自分も愛想はない。だから、そのことについてはとやかく言うつもりはない。だが、彼の場合は、単に愛想がないというだけではなく、棘というか、あからさまな敵意のようなものを感じるのだ。それは自分にだけ向けられているように思う。最初に会ったときからそうだったので、原因すらもわからない。

「いつまでもそんなところに突っ立ってるなよ」

 嫌悪感を含んだ声でそう言われ、ユールベルはハッとして急いで席に戻った。うつむいて小さく溜息をつく。

「ジョシュは人間嫌いなんだ。気にすることはないよ」

 突然、耳元で囁かれ、全身がぞわりと粟立つ。

 同じフロアで仕事をしているレイモンドだ。

 ジョシュよりも幾分年上の30歳くらいだろうか。彼は何かとユールベルを気に掛けてくれる。優しいのかもしれない。だが、そのコミュニケーションの取り方が、ユールベルには馴染めなかった。距離が近すぎるのだ。くっつかんばかりに顔を近づけてきたり、腕や肩に触れてきたり、親しくもないのに無遠慮に私的な空間に踏み込んでくることに不快感を覚えるのである。

 そんなユールベルの心情をわかっているのかいないのか、レイモンドはさらに肩に手をのせて続ける。

「今度ゆっくり相談にのろう」

「……いりません」

「遠慮することはない。そうだ、今夜一緒に食事でもしながら話を聞くとしよう。いい店を知っているから予約をしておくよ。仕事が終わるころに迎えに行くから」

 ユールベルの拒絶などお構いなしに、レイモンドは勝手に話を進めると、白い歯を見せて片手を上げ、自席へと戻っていった。

 ——どうしよう……。

 ユールベルは口をきゅっと結んでうつむいた。断りたいのに上手く断れない。自分の言い方が悪かったのだろうか。どう言えばわかってもらえるのだろうか——そんなことを考えていると、不意に頭上から声が降り注ぐ。

「次の仕事」

 ジョシュはぶっきらぼうにそう言うと、数枚の書類をユールベルの机に投げ置いた。

 いつもであればそれだけですぐに立ち去るのだが、今回はいまだそこにとどまったままである。ユールベルは不思議に思って顔を上げた。

「あいつはやめておけ」

 ジョシュは不機嫌な顔のまま、ぼそりとそんなことを言う。

 それが何を指してのことか、ユールベルにはすぐにわかった。しかし素直に聞く気にはなれなかった。今までほとんど拒絶に近い態度をとっておきながら、突然、それも仕事以外のことで干渉してきたことに、何か怒りのようなものが沸々と湧き上がってきた。

「あなたには関係ない」

 うつむいて眉根を寄せながら反発する。

 ジョシュは何も言い返さず、表情も変えず、静かに自席へと戻っていった。


 自業自得——。

 ユールベルは心の中で溜息をついた。

 行きたくはなかったが上手く断ることができず、またジョシュに対する意地もあり、仕事が終わったあと、レイモンドに誘われるまま食事に出かけることになった。

 彼が予約していたのは、研究所からほど近いところにある、優雅な雰囲気のレストランだった。出される料理も手が込んでいて上品なものばかりだったが、ユールベルはほとんど上の空で、きちんと味わうことができなかった。こういう店は初めてということもあり、どうにも馴染むことができず、居心地の悪さを感じていたのだ。

 しかし、理由はそれだけではない。

 レイモンドは相談にのると言って食事に誘ってきた。だが、いざ来てみると、そういう話題はまったくなく、ひたすら自分の話ばかりしていた。その内容は、自己顕示欲を満たすためだけのもの——平たく言えば自慢話である。ときどきユールベルに話を振ってきたが、それも仕事とはまったく関係のない、ラグランジェ家に関する話題のみである。別に相談したかったわけではないが、彼の意図がわからないことに少し気味悪さを感じていた。


 二時間ほどして外に出ると、あたりはすっかり闇に包まれていた。遠くの空に小さな星がいくつか瞬いているのが見える。

「遅くなってしまったな。家まで送るよ」

「ひとりで帰ります」

「男に恥をかかさないでくれ」

 レイモンドは白い歯を見せて言う。彼の言っていることは理解できなかったが、面倒なのでもう何も言い返さなかった。相手の言うことも聞かず、一方的に事を進める彼には、何を言っても無駄だと思ったのだ。

 ユールベルが歩き始めると、レイモンドもその隣に並んで歩調を合わせる。

「今日は楽しかったな」

「…………」

 ユールベルは沈黙というささやかな抵抗を試みた。

 それでも彼は気にする様子もなく、細い肩に手をまわして力を込める。意にそわず、ユールベルは彼に寄りかかることになった。離れようとしたが、彼の腕がそれを許さない。

「僕たちは相性がいいようだ」

「そんなこと……ないと思います……」

 無視を続けようと思ったが、堪えきれずについ反論してしまう。

 しかし、それすらも彼は軽く受け流した。

「ユールベル、僕は決心したよ」

 そう言うと、ユールベルの両肩を掴んで自分と向かい合わせる。

「結婚しよう」

「……えっ?!」

 ユールベルはさすがに驚き、素っ頓狂な声を上げた。

「君と出会った瞬間に運命を感じた。そして君とこの素晴らしい夜を過ごして確信した。僕の伴侶となる人は君しかいない。愛しているんだ。もう片時も離れたくない」

 どこかで聞いたようなセリフを並べ立てて迫り来る彼に、ユールベルは困惑しながら後ずさった。しかし、一歩下がっただけで、足が固いものに阻まれる。塀だった。その存在を認識すると同時に、彼女の体はそこに押し付けられた。彼の手は両肩を掴んだまま離さない。

「ユールベル……」

「い、嫌っ!」

 近づいてくる顔を両手で押しのけ、蹴躓きながら必死に逃れる。そして、何歩か離れたところで振り返ると、潤んだ右目でキッと睨みつけた。

「……お断り……します……!」

 噛みしめるようにそう言うと、背を向けて全速力で走って逃げた。


「まだ出来てないのか?」

 ぼんやりしていたユールベルは、頭上から降り注ぐその声で我にかえった。慌てて机の上に散らばる書類に視線を落とす。頼まれていた作業はまだ半分も終わっていなかった。

「あ……もうすぐ、です……」

「ぼうっとするくらいなら帰れ」

 ジョシュは刺々しい言葉を投げつけた。そして、仏頂面で冷たく一瞥すると、背を向けて自席へと戻っていった。


 ユールベルはきのうのことを引きずっていた。

 出会ってまだ三日である。なのに、どうして結婚とまで言い出すのかわからなかった。そして、そのことに何か言いようのない恐怖を感じていた。

 ——行かなければ良かった。

 ジョシュの忠告を聞かなかったことを後悔する。しかし、レイモンドのしつこさを考えると、きのうは逃げられたとしても、いつかは付き合わされることになるだろう。嫌な思いをしたものの、はっきり断れたことは良かったのだと、めずらしく前向きに考えることにした。


「それ貸して。私がやるわ」

 今度は女性の声だった。振り返ると、ジョシュの先輩であるアンナがウィンクをして手を差し出している。ユールベルが呆然としているのを見ると、自分で机の上の書類を拾い始めた。

「気にしないで。誰にだって調子の出ないときはあるわ。その代わり、それを資料室に返してきてくれないかな。雑用で悪いんだけど」

 アンナはにっこりとして、隣の棚の上に投げ出されていた書籍三冊を指差した。随分と前から放置されていたらしく、薄く埃さえかぶっている。すぐに返さなければならないものとはとても思えない。おそらく、アンナがユールベルに気を遣って簡単な仕事をくれたのだろう。

 ユールベルは素直にこくりと頷いて、その書籍を抱えて立ち上がった。


 資料室は地下にあった。小さめの会議室程度の広さで、そこにスチール製の書棚が数列並んでいる。地下であるため窓はなく、空気は湿っていて、あたりは少しかび臭い。本を保管するのに良い状態とはとても思えなかった。

 本に貼られた分類シールを頼りに、一冊ずつ書棚に戻していく。

 二冊目を戻したそのとき、入口の扉がギィと嫌な軋み音を立てて開いた。ユールベルは書棚の隙間から、息を潜めて窺う。

「やあ、ユールベル」

 それはレイモンドだった。書棚越しにユールベルと目が合うと、軽く片手を上げて笑顔を見せる。しかし、ユールベルにはそれがとても恐ろしく感じられた。持っていた本を床に落とし、逃げるように奥へと後ずさる。

「何をしに来たの……?」

「ちょっと婚約者の様子を窺いに来たのさ」

 レイモンドはしれっとそんなことを言いながら間を詰める。

「そのことは……断ったはず……」

 ユールベルの背中にひやりとした固いものが当たる。壁だった。これ以上、後ろには下がれない。前からはレイモンドが迫ってくる。ユールベルは横に飛び出そうとした。だが、その寸前に両の手首を掴まれ、体を壁に押し付けられる。抗おうとしても、体格と力に圧倒的な差があり、まるで杭を打ち付けられたかのようにびくともしない。

 レイモンドは口の端を吊り上げた。

「白馬の王子様計画はお気に召さなかったようだね。苦労して君に合わせたのに傷ついたよ。お嬢さまは我が侭だから仕方ないのかな」

 ユールベルにはどこが白馬の王子様なのかさっぱりわからなかった。だいたいそんなことを頼んだ覚えはないし、白馬の王子様が好きだなどと言った覚えもない。勝手なことを言うにもほどがあると思う。

「だが、もうまどろっこしいことはやめだ。ここからは俺のやり方でやらせてもらう」

 レイモンドは鋭い視線を向けてそう宣言すると、すぐさまそれを実行に移した。ユールベルを押さえつけたまま、乱暴に貪るように口を奪っていく。

 どうして私がこんな目に——。

 悔しくて目に涙が浮かんだ。逃れようとするものの、非力な彼女の抵抗はすべて押さえ込まれてしまう。どうすることもできない。何もかも諦めたように、ユールベルの体から力が抜けた。

「は……ぁっ……」

 しばらく後に、ようやく口を解放され、苦しそうに息をした。その端から流れ落ちたどちらのものともわからない唾液を拭おうとする。

 そのとき、ようやく気がついた。

 いつのまにか彼女の両の手首は紐のようなもので縛られていた。ただの紐ではない。魔導で作られたもののようだ。そして、それは隣のダクトに括りつけられており、ユールベルの動きを封じていた。

「何を……?!」

「既成事実を作るのさ」

「きせ……い……?」

「子供を作る」

 絶句する、とはまさにこのことを言うのだろう。彼の言葉を耳にした瞬間、思考のすべてが停止し、頭が真っ白になった。言葉など何ひとつ出てこない。

 レイモンドは呆然としているユールベルを床に押し倒すと、その上に馬乗りになった。ブラウスのボタンを鼻歌を歌いながら外していく。

「や……やめて……っ」

「怖がることはない。夫婦ならみんなやっていることさ」

 下着がずらされて白い胸もとが露わになる。その心もとない感覚と、彼に見られている恐怖で、ユールベルは小さくふるりと身震いした。逃げるようにそこから視線をそらし、きつく眉根を寄せる。

「私たちは……夫婦じゃない……」

「近いうちにそうなるんだよ」

「やっ……」

 見た目よりもごつく感じる手が、太股を這い上がるようにして短いプリーツスカートの中へ侵入する。同時に、ざらついた生ぬるい舌が生き物のように胸の上を蠢き出す。言いようのない嫌悪感に、全身がぞっと粟立った。

「…………っ……」

 体中に与えられる望まない刺激に、ユールベルは歯を食いしばって耐えた。目をきつく瞑り、必死に声を漏らさないようにする。しかし、彼の執拗な攻めに、次第に限界へと近づいていった。

「も……やめ……てっ……」

「声を抑えるのはつらいだろう? 我慢しなくてもいい。どうせ上に聞こえはしないんだ」

 レイモンドは耳元で囁くように厭らしくそう言うと、戯れとばかりに耳朶を舐め上げた。

 しかし、それきり何もなかった。彼がそこにいることは確かだ。足元にまたがっているような感触はある。にもかかわらず、声が聞こえなければ、手が這うこともない。

 ユールベルはぼんやりと薄目を開けた。

 パシャッ——。

 その音と同時に白い閃光が彼女を襲う。思わず目を瞑った彼女が、再びゆっくりと目を開くと、そこには立て膝のレイモンドが小型のカメラを右手で構えていた。

「これは、君が他の男に心変わりしたときの保険さ」

 ユールベルの目から涙が溢れた。まなじりを伝って耳を濡らす。

「さて、そろそろ本番といくか」

「こんなところで何やってるんですか」

 レイモンドのものではない、声。

 ユールベルには誰だかすぐにわかった。

「ジョシュ、これから大切な作業があるんだ。邪魔をしないでくれるか?」

 レイモンドはそう言って振り返ると、挑発的に口の端を吊り上げ、自分の中指をゆっくりと見せつけるように舐め上げた。

 しかし、ジョシュは仏頂面を崩さなかった。

「そういうことは研究所の外でやってください」

「そんな規則はなかったはずだけどな」

「規則に書くまでもない常識でしょう」

 冷ややかにそう言う彼に、レイモンドは両の手のひらを上に向けて肩をすくめた。

「仕方ないな、よし、そこで見学することを許可しよう。君の後学のためにね」

「所長と警備を呼んできます」

 ジョシュは無表情で踵を返した。

「待てよ。わかったよ、出て行けばいいんだろう」

 レイモンドはしぶしぶ立ち上がった。自分のやっていることに問題があるという自覚はさすがにあったようだ。ジョシュの肩をポンと叩くと、追い越して扉のところで振り返る。

「ユールベル、続きはまた今度、邪魔の入らないところでな」

 ユールベルは全力で首を横に振った。

 しかし、レイモンドは気にせず笑顔を見せ、右手を上げて出て行った。乾いた足音はすぐに遠ざかり、聞こえなくなった。


 ジョシュは面倒くさそうに大きく溜息をついた。仏頂面のまま右手で頭を押さえると、視線だけを無感情に落とす。

「やっ……」

 その視線でユールベルは我にかえった。自分がどんな格好をしているかに気付き、羞恥と恐怖で涙がこぼれた。しかし、手首を拘束されているため、隠すことも叶わず、僅かに身をよじることしかできない。

 そんなユールベルに、ジョシュは無言で足を進めると、横たわった身体の上にまたがって片膝をついた。先ほどまでレイモンドがいた、まさにその場所である。

「や、やめてっ……! 嫌っ!」

「落ち着け!!」

 その一喝に、ユールベルはビクリと動きを止めて息を呑んだ。

 ジョシュは捲り上げられたスカートを元に戻し、肌蹴た胸もとを隠すようにブラウスのボタンをひとつだけ留めると、拘束された手首を指差して言う。

「これを外す。いいな?」

 ユールベルは濡れた目を見張ったまま、こくりと小さく頷いた。

 ジョシュは拘束された手首へ近づいていくと、両膝をつき、両手を向かい合わせて呪文を唱え始めた。手の間にほのかな光が発生する。彼女の手首を傷つけぬよう、手のひらにとどまったその光を、魔導の紐だけにそっと触れさせる。

 しかし、紐には何の変化もなかった。

「あ……れ……?」

「……失敗……したの?」

「ちょっと待て、もう一度やるから、な?」

 ジョシュはきまり悪そうに顔を紅潮させ、もう一度、焦りながら両手を向かい合わせて呪文を唱えようとする。だが、そのとき——。

「何をやってるんだ!!」

 開け放たれたままになっていた入口に、一人の男性が姿を現した。ジョシュたちを目にするなり驚愕の表情でそう叫ぶと、抱えていた書籍をバサリと床に落とし、即座に両手を振り上げて魔導の力を集める。

「ちょっ、待て!!」

 ジョシュの訴えも聞かず、男性は白い光球を放った。ジョシュはすんでのところで結界を張ってそれを消滅させる。本当にギリギリだった。あと一瞬でも遅れていたら体に直撃していただろう。顔を引きつらせながら、なおも必死に訴えかける。

「落ち着けサイラス! これにはわけが……」

「どんなわけがあったってこんなこと許されるわけないだろう!」

「違うの! この人は……ジョシュは私を助けてくれたのっ!!」

 馬乗りになったジョシュの下から、ユールベルは必死に声を張り上げた。


「はい、外れたよ」

 事情を聞いたサイラスは、ユールベルの手首を拘束していた魔導の紐を消滅させると、立ち上がって後ろのジョシュに振り向いた。先ほどとは別人のような穏和な表情を見せている。

「ちょっと特殊な細工がしてあったけど、それほど難しいものでもないよ。ジョシュもよく見ればわかったんじゃないかな。さすがに焦ってたんだね」

「そりゃ焦るでしょ、こんな状況じゃ」

 ジョシュは溜息まじりにそう言うと、上半身を起こしたユールベルの脇にしゃがみ、その手首をとって一通り観察する。

「特に怪我はないようだな。他は……」

「大丈夫……です……」

 ユールベルは自由になった手で、左目を覆う包帯を確かめたが、幸い外れてはいなかった。ほっとすると同時に、今さらのように自分の姿に対する恥ずかしさが込み上げてきた。彼の視線から逃れるようにうつむくと、ブラウスの前を掴んで体をよじる。

「入口を見張ってるから服を着ろ」

 ジョシュは無愛想に言葉を落とし、背を向けて入口の方に向かった。

 それは彼なりの配慮だったのだろう。

 ユールベルにはそれがありがたく感じられた。どんな同情の言葉よりも、どんな思いやりあふれる態度よりも、今はただそっとしておいてほしかった。そして何より、一刻も早くこの無残な格好を何とかしたいと思った。

 部屋の隅に座ったまま衣類を身に着けていく。

 それだけで気持ちが少し落ち着いた。安心したせいか急に泣きたくなった。そして無性にラウルに縋りたくなった。しかし、それは自分がしないと決めたこと。その面影を振り払うように小さく頭を左右に振ると、涙をこらえて唇を噛んだ。


 入口付近で二人はユールベルの方を見ないようにして立っていた。資料室の外からの音に耳をそばだてながら、声をひそめて会話をする。

「サイラス、おまえ何しに来たんだよ。アカデミーはいいのかよ」

「今日は助手の子に任せて、こっちの研究を進めようかと思って」

「教師引き受けたんだから、気が進まなくても真面目にやれよな」

 ユールベルはそれを聞いて思い出した。このサイラスという男性は、アカデミーで何度か顔を見たことがあった。確か魔導全科一年の担任である。どうやらこの研究所の所員でもあるらしい。

「そんなことより、これからどうするつもり?」

「俺が知るかよ」

 ジョシュはぶっきらぼうに答えると、前髪を掻き揚げながら疲れたように溜息をついた。

「とりあえず今日は帰らせた方がいいだろうな」

「そうだね、体調が悪くなったことにでもして」

 サイラスも同意して頷く。しかし、ユールベルはそれを望まなかった。

「仕事、します……」

 少しふらつきながら彼らの方に足を進めると、掠れた弱々しい声で主張する。

 二人は面食らったように振り向いた。

「無理しなくていいんだよ」

 サイラスは優しい口調で宥めたが、ユールベルは首を横に振った。

「逃げるのは悔しい……もの……」

「そんなことを言っている場合じゃないだろう」

 今度はジョシュが呆れたように言ったが、それでも頑なに首を横に振った。

 レイモンドが何を考えているのかはわからないが、このまま引き下がったのではまるで彼に屈服したかのようである。ますます彼が調子に乗ることになるだろうと思った。それに、自分のいないところでレイモンドが何を言い出すか、どんな行動をとるのかを考えると怖かった。顔は会わせたくないが、目の届くところにいた方がまだましである。

「……わかった」

「ジョシュ、ちょっと……」

 眉をひそめるサイラスを無視して、ジョシュは真面目な顔でユールベルと向かい合った。

「まず、顔を洗ってこい。それから一緒に戻る。おまえは気分が悪くなって資料室でしばらく倒れていた。俺はそれを見つけて回復するまで付き合っていたことにする。いいな?」

 ユールベルはこくりと頷き、顔を伏せたまま資料室を出ていった。


 その後、ユールベルは仕事に戻った。

 予想したとおり何度かレイモンドが声を掛けてきたが、ジョシュやサイラスが上手く追い払ってくれた。仕事に戻りたいという自分の我が侭のせいで、彼らには迷惑を掛けてしまったと申し訳なく思う。

「お疲れ、もういいから帰れよ」

 就業時間が終わるとすぐに、ジョシュはユールベルにそう声を掛けた。相変わらず素っ気ない口調ではあるが、もうそこに敵意を感じることはなかった。

「やあ、ユールベル。どこで続きをしようか」

 レイモンドがとぼけた笑顔でやってきた。

 ユールベルがびくりとして一歩後ずさると、入れ替わりに、ジョシュが庇うように一歩前に踏み出した。背の高いレイモンドを見上げると、感情を抑えた口調で言う。

「センパイ、仕事で訊きたいことがあるんでちょっといいですか」

「悪いが明日にしてくれ。これから大事な用事があるんでね」

「こっちも大事なことなんですよ」

 ジョシュはそう言いながら、体の後ろでこっそりと左手を振り、ユールベルに早く行けと指示をする。ユールベルは小さく頷くと、逃げるように走って研究所を出て行った。


「まあいい、チャンスはいくらでもあるからな」

 レイモンドは両手を腰に当て、おどけるように肩をすくめて見せた。

「ジョシュ、君はお姫さまを護る騎士にでもなったつもりかもしれないが、よく考えてみろ、誰の味方をするのが自分にとって得なのかを」

「そういう考え方しか出来ないんですか」

 ジョシュは冷ややかに言い返した。

 しかし、レイモンドは飄々とした態度を崩さなかった。まるでそんなジョシュの反応を楽しむかのように、どこか陽気ささえ感じさせる表情を見せながら言う。

「君は相変わらず堅物だな。そうだな……、よし、君がそれほどユールベルを気に入ったのなら、一度くらい抱かせてやってもいいぞ」

「……あんたやっぱサイテーだよ」

 ジョシュは嫌悪感も隠さず、軽蔑するように吐き捨てる。

 フッ、とレイモンドは不敵な薄笑いを浮かべ、横柄に腕を組んでジョシュを見下ろした。

「君はもう少し上手く立ち回ることを覚えた方がいい。もし私の側につくというのなら、私が所長になった暁には……」

「あんたに牛耳られた研究所なんか、こっちから願い下げだ」

 ジョシュは低く唸るような声でレイモンドの言葉を遮ると、腹立たしげに背を向けて自席に戻った。乱暴に体重をかけられた椅子の背もたれが、ギィッと耳障りな音を立てて軋んだ。


 翌日、ユールベルは鉛のように重たい気持ちを引きずるようにして出勤した。

 前日と同様にレイモンドはあれこれちょっかいを出してきたが、ジョシュが何とか上手くあしらってくれた。しかし、そのたびに彼の仕事の邪魔をしているようで、ユールベルは心苦しかった。

 自分は辞めた方がいいのかもしれない。

 そうすれば彼もこんなことに煩わされることはないはずだ。

 しかし、今はそんなことを考えるよりも、少しでも仕事を進めなければならない。これ以上、ジョシュの足手まといにならないように——。


 昼休みになると、レイモンドは懲りもせずユールベルのところへやって来た。逃げようとしたユールベルを阻むように、笑顔で両腕を広げながら近づく。

「お昼は食堂だな。みんなに僕たちの仲睦まじいところを見せつけるとしよう」

 まわりの人にも聞こえるようにわざと声を張っている。何人かの所員が興味深そうに二人を見ていた。中には誤解している人もいるかもしれない。

 ユールベルは怖くなって、必死に首を横に振った。

 そのとき、ジョシュが横からさっと割って入った。素早くユールベルの手を取ると、その手を引いて歩き始める。

「おい、待てよ。人の妻を掠め取るとはいい度胸だな」

「彼女と仕事の話がありますので」

 ジョシュはもう何を言っても無駄だと思ったのだろう、妻という言葉を訂正することなく、無表情のまま素っ気なくあしらった。

 レイモンドはフッと鼻先で小さく笑った。

「いつまで足掻けるかな」

 ジョシュはそれを無視し、ユールベルとともに足早にフロアを後にした。


 二人は食堂に入ると、昼食を買ってから窓際のテーブルについた。

 ジョシュは無言でスパゲティをフォークに絡めている。その表情には濃い疲労の色が見て取れた。その原因が自分であることを、ユールベルは痛いほど理解している。膝の上のプリーツスカートをギュッと掴んで顔を上げる。

「あの……」

「あらー? 女嫌いのジョシュ君がめずらしい」

 ユールベルのか細い声は、アンナのよく通る声に掻き消された。アンナはプレートを手にして立ったまま、人なつこい丸顔でニコニコしながら二人を見下ろしていた。

「何か用ですか?」

 ジョシュは少し苛立った声で尋ねる。それでもアンナの笑顔は崩れなかった。

「良かった良かった。二人が仲良くしてくれてお姉さん嬉しいぞぅ。ジョシュはとっつきにくいけど悪い子じゃないの。仏頂面も冷たい態度もぜーんぶ照れ隠しだと思ってればいいからね。まだまだお子様なのよ」

「殴りますよ……」

 ジョシュは低い声で物騒なことを言ったが、アンナは完全に無視してユールベルにウインクした。ユールベルはどう反応すればいいかわからず、困惑しながら目を伏せる。

「あと……」

 アンナは少し真面目な顔になると、腰を屈めてユールベルの耳元に口を寄せた。

「レイモンドに気に入られてるようだけど、あいつには気をつけた方がいいわ。ちょっとヤバいから」

 そう小さな声で囁いて、頭を指さしながら片眉をひそめて見せる。

「ま、ジョシュが一緒にいてくれれば安心だけどね。じゃあまたっ!!」

 彼女は軽く手を振り早足で去っていくと、少し離れたところで待っていた同僚とともに奥の席についた。キャピキャピと楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。

「……あいつ、何て?」

「レイモンドはヤバいから気をつけなさいって」

「遅せぇよ」

 ジョシュは力なく笑いながら溜息まじりに言った。面倒くさそうに頬杖をつくと、手に持っていたフォークを回し、再びスパゲティを絡め始める。

 ユールベルは膝に手を置いたまま視線を落とした。

「ごめんなさい、女嫌いなのに……」

「からかってんだよ、そんなこと真に受けるな」

 ジョシュは少し怒ったように語調を強めると、スパゲティを絡めたフォーク口に運んだ。そして、今度はサラダをつつきながら重い声で切り出す。

「おまえさ、ボディガードでも雇えよ。研究所の中なら俺が気をつけてやれるけど、外まではさすがに無理だ。あいつは本当にヤバい。このままだといつか……」

 彼はそこで言葉を切ったが、何を言いたかったのかはユールベルにもわかった。あのときのことを思い出して表情がこわばる。そんな彼女に、続く彼の言葉がさらに追い打ちを掛けた。

「ラグランジェ家のお嬢さまなら、そのくらいしてもらえるだろう」

 ラグランジェ家のお嬢さまなら——。

 ユールベルは深くうつむき、膝に置いた手をギュッと握りしめた。

「……私……お嬢さまじゃない……」

 彼に悪気がないのはわかっている。ユールベルの家庭の事情など知るはずもない。ラグランジェの名を聞けば、それなりの良い暮らしをしてきたと思われても仕方のないことだ。しかし、実際は薄暗い部屋で長年幽閉されて、ただ生かされていただけだった。人間としての扱いすらされていなかったのである。

「ボディガード、無理なのか?」

 ジョシュは戸惑ったように眉をひそめて尋ねる。

「私、ここを辞めます……あなたにも迷惑を掛けてしまうし……」

 サイファの紹介でここに来たので、簡単に辞めるわけにはいかないと思ったが、もはやそうするしかないと思った。ジョシュやサイラスに甘え続けるわけにはいかないし、このままではかえってサイファに迷惑を掛けることにもなりかねない。

「そうだな、それがいいかもしれない」

 ジョシュも賛成した。しかし、暗い声で言葉を繋ぐ。

「ただ、あいつがそれで諦めるかはわからないが……」

 確かにあれほどの執着を見せているレイモンドが簡単に諦めるとも思えない。だからといって、他にとるべき方法など思いつかない。ユールベルはただうつむくことしかできなかった。


「やあ、ユールベル」

「おじさま」

 書類を整理していたユールベルは、背後から名を呼ばれ、咄嗟に立ち上がって振り向いた。そこには、濃青色の制服を着たサイファが、人なつこい笑みを浮かべながら軽く右手を上げて立っていた。研究所にいるときは所長と一緒のことが多いが、今日はひとりのようだ。

「仕事の調子はどうかな? 困ったことや悩みごとがあったら相談にのるよ」

「……私……大丈夫です……」

 ガン! と唐突に激しい音がして、ユールベルはビクリと振り向いた。それは、ジョシュがスチール製の机を蹴り飛ばした音だった。仏頂面でモニタに向かったまま、苛立った様子で口を開く。

「何度も言ってますが、仕事の邪魔をしないでもらえますか。仕事とは関係のない話をするなら研究所の外でしてください。その役立たずは連れて行って構いませんから」

「ジョシュ!!」

 離れていたところにいたアンナが飛んできて、ジョシュの頭を拳骨で横殴りにした。そして、サイファに向き直ると、腰から二つ折りになるくらいに頭を下げた。

「申しわけありませんっ!」

「いつも邪魔をしていたようで、こちらこそ申しわけなかったね」

 サイファは笑顔のままで言う。それを見たアンナの顔から血の気が引いた。

「邪魔だなんてそんなこと全然ありません!」

 サイファはにっこりとしてユールベルの肩を抱き寄せた。

「彼の言葉に甘えさせてもらって、ユールベルをちょっと借りたいんだけどいいかな?」

「はい! どうぞいくらでも!!」

 戸惑うユールベルに、ジョシュがちらりと目を向けた。その目を見てユールベルは理解した。これが彼なりの配慮だということを——。


 ユールベルは、魔導省の塔にあるサイファの個室へと連れられてきた。サイファに促され、大きな執務机の前に置かれた椅子に座る。

「ここなら邪魔者はいないし、心置きなく話ができるだろう」

「おじさま、ジョシュは私のためにあんな言い方をしたの」

 本題に入る前に、まず彼の態度について弁明しておきたかった。自分のためにいつまでも彼を悪者にしてはおけない。信じてもらえるだろうかと心配したが、サイファはとっくに見透かしていたようだ。

「そんなことだろうと思っていたよ。あの場では言いにくい話があったのかな」

「それは……」

 ユールベルにはまだサイファに話す決心がついていなかった。しかし、辞めるにしても、サイファには理由を告げなければならない。握りこぶしを胸に当ててグッと押さえると、思いつめたように表情を引き締めて顔を上げる。

「私、研究所を辞めるつもりです」

「理由を聞かせてもらえるかな」

 サイファは顔色一つ変えず、冷静に尋ねた。

 ユールベルはレイモンドのことをサイファに話した。仕事中でもしつこく言い寄ってくること、結婚を前提に付き合ってくれと言われたこと、断ったにもかかわらず婚約者のつもりでいることなど、思いつく限りのことを堰を切ったように言う。ただし、資料室でのことだけは触れなかった。あれだけはサイファであっても知られたくなかった。しかし、それを除いたとしても、辞める理由には十分だろうと思った。

「レイモンド……レイモンド=ニコルソンか……」

 サイファは真剣な顔で聞いたあと、小さくそれだけ呟くと、すぐに方々に連絡を取り始めた。それはまさに怒涛の勢いだった。ユールベルが口を挟む隙もないくらいである。時折、何かの書類を持った人がやってきて、サイファにそれを渡していく。サイファはそれを見ながらさらにどこかに連絡、指示をする。その繰り返しだった。何をしているのか具体的にはわからなかったが、どうやらレイモンドについて調査しているらしいことだけはわかった。

 それが一時間ほど続いたのち、サイファは丁寧に受話器を置くと、ユールベルに目を向けてにっこりと微笑む。

「ユールベル、君が辞めることはないよ」

「え……?」

「レイモンドをここへ呼んで話をつける」

「おじさまやめて! 私……いいの、私が辞めるから!」

 ユールベルは引きつった声で懇願した。

「そうはいかない。これは君だけの問題ではないからね」

 サイファは鮮やかな青の瞳に鋭い光を宿して言った。冷たい笑みを浮かべるその表情には凄みがあり、ユールベルはゾクリと背筋が凍りつくように感じた。

 そのとき、初めて彼のことを怖いと思った。

 君だけの問題ではない——その言葉の意味はわからなかったが、尋ねることも反論することもできず、ただ椅子に座ったまま硬直するだけだった。


 コンコン——。

 扉が軽快にノックされた。

「入りたまえ」

 サイファはいつもより厳粛な声で言った。

 扉を開けて入ってきたのは、予想どおりレイモンドだった。ユールベルは思わず椅子から立ち上がり、警戒するように身構えながら一歩下がった。

 しかし、レイモンドはユールベルには目も向けず、サイファに向かって丁寧にお辞儀をすると、思いきり愛想のよい顔を見せて言う。

「ラグランジェ本家当主直々のお呼び出しとは光栄の極みです」

「なるほど、君にとって私はラグランジェ本家当主というわけか。君の勤める魔導省の副長官ではなく、ね」

 サイファは意味ありげな笑みを、その形の良い唇に乗せる。

 一瞬、レイモンドは怯んだ。口元を僅かに引きつらせる。しかし、すぐにそれをごまかすように笑うと、両の手のひらを上に向け、大袈裟に肩を竦めて言い訳する。

「魔導省副長官より、ラグランジェ本家当主のインパクトが強かっただけです。他意はありません」

「君はユールベルに随分と執拗につきまとっているようだね」

「いえ、私たちは結婚を前提として付き合っています」

 サイファは少しの間も置かず本題へと移したが、今度は心構えができていたのか、動揺を見せることなく平然と即答した。

「ユールベルは断ったと言っていたが?」

「少し喧嘩をしてしまったので、今は機嫌が悪いだけでしょう。いくら愛し合っていても、些細なことで喧嘩になってしまうことくらい、あなたにもありますよね?」

「さあ、私にはないな」

 同意を求めたレイモンドに、サイファはつれない答えを返す。

 その答えが事実かどうかは、ユールベルにもわからない。だが、レイモンドを動揺させるのに効果的だったことは間違いないようだ。予想外の返答にシナリオが狂ったのか、少しの間だったが言葉を詰まらせた。

「……とにかく、私はユールベルを愛していますし、ユールベルも私を愛してくれています」

「嫌っ……!」

 レイモンドに肩を抱かれたユールベルは、抵抗して身をよじり、その腕から逃れようとした。だが、レイモンドは耳元に悪魔の囁きを落とす。

「写真」

 その一言だけで、彼が何を言いたいのかわかった。

 そう、彼の手には切り札があったのだ。

 ユールベルは抵抗する手を止めた。彼の言いなりになどなりたくはなかったが、そうしなければあの写真をばらまかれてしまう。悔しくて目に涙が滲んだ。

「よろしければここで結婚の許可をいただけませんか? 今すぐ結婚でなくても構いません。とりあえず確約だけいただければと。一生、彼女とともに生きていく覚悟は出来ています。彼女も同じ気持ちのはずです。そうだろう? ユールベル」

「……わた、し……私は……嫌っ!!」

 ユールベルは耐えきれずにそう叫ぶと、レイモンドを突き飛ばした。彼の体は虚をつかれてよろめく。しかし、すぐに体勢を立て直すと、顔いっぱいに笑顔を作って言う。

「結婚式は君の望みどおりにするよ。だからそろそろ機嫌を直してくれないかな」

「写真なんて好きにすればいい! 一生あなたと生きていくより、そっちの方がよっぽどましだわ!!」

 ユールベルは体の横でこぶしを握りしめ、体の奥から声を絞り出すように叫んだ。右目から涙が零れ落ち、頬を伝って床に落ちる。体は悔しさと恐怖でわなないていた。

「写真?」

 サイファは表情を変えずに、少しだけ怪訝な声で聞き返した。

 しかし、それに対する返事はなかった。レイモンドは苦虫を噛み潰したような顔をしている。ユールベルにとっては好機だったが、自分の口から説明する勇気はなかった。

「レイモンド、説明してくれ」

 サイファは二人の様子を確認すると、レイモンドの方に説明を求めた。

 それで観念したのだろうか。

 レイモンドは両手を腰にあて、わざとらしく大仰に肩を竦めた。

「やれやれ……計画変更かな」

 溜息まじりにそう言うと、ニヤリと厭らしく口の端を吊り上げ、ズボンのポケットから小型のカメラを取り出した。

「このカメラには、ユールベルの人には見せられない姿が収められています」

 ユールベルは耳をふさいで、きつく目を瞑った。しかし、それでも声は漏れ聞こえてくる。あのときのことが脳裏によみがえり、体中にゾワリと悪寒が走った。

 サイファは僅かに眉根を寄せて尋ねる。

「盗撮か?」

「まさか、そんな罪は犯しません。盗撮なんかよりもっとすごい画が撮れてますよ。なにせ私たちが愛し合っているときに撮ったものですから」

「ウソ! あなたが無理やり……っ!!」

 ユールベルは思わず反論したが、それだけ言うのが精一杯だった。再び目に涙を溜め、唇をきつく噛み締め、小刻みに体を震わせる。いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。考えてみてもわからない。悔しくて悲しくてやりきれなかった。

 対照的にレイモンドはこの状況を楽しんでいるように見えた。

「どうします? 可愛い姪御さんのあられもない姿を世間に晒しますか?」

「好きにすればいい。本人がそう言っているんだ」

 サイファはさらりと無感情に言った。

 一瞬、レイモンドは怯みかけたが、負けじと食い下がる。

「ラグランジェ家ご令嬢のこんな姿が世間に晒されては、大騒ぎどころではないでしょう。由緒ある家名に傷がつくことは避けられないはずです」

「ラグランジェ家はそれくらいでは揺らがない」

 その言葉を体現するかのように、サイファは冷静沈着に、そして威厳をもって言った。声を荒げているわけでも、威圧的に振舞っているわけでもないが、その佇まいには相手を畏怖させるものがあった。

「写真を見たら意見が変わりますよ。明日、現像してお持ちします」

 レイモンドは脂汗を滲ませながらも、強気に口の端を上げて、手にしていたカメラを顔の横に掲げて見せた。その瞬間——。

 バン! と短い爆発音がして、カメラが粉々に砕けた。

 それはサイファの魔導によるものだった。

 カメラもフィルムも原形を留めていない。その中心から薄煙が上がっている。レイモンドの指からは、魔導を受けたせいか、破片によるものか、赤い血が流れていた。頬にも斜めに赤い線が走っている。それ以外にもところどころ軽い裂傷を負っているようだ。レイモンドはカメラだった物体を床に落とし、傷ついた手を反対の手で押さえて歯を食いしばる。

「カメラ代は弁償する。治療費も払おう。ただし慰謝料は出さない」

 サイファは毅然と言った。そして、机の上で両手を組み合わせると、レイモンドに呆れたような冷たい目を向けた。

「君が馬鹿だったおかげで手間が省けたよ」

「こ……こんなことをして……私が訴えればどうなるか……」

 レイモンドは唸るようにそんな脅し文句を口にしたが、サイファは平然としたまま涼しい顔で問いかける。

「君の欲した力はその程度のものなのか?」

「くっ……」

 ラグランジェ家に掛かれば、その程度の傷害事件を揉み消すことなど造作もない。そんなことはレイモンドにもわかっていたのだろう。圧倒的な敗北にもう言葉も出なかった。

「そうそう、研究所に君の戻る場所はもうないから」

 サイファは急に軽い口調になって言う。

 レイモンドは驚いて顔を上げ、呆然とした。

「解雇……ということですか」

「いや、内局に戻すことにした。それが君の望みだったんだろう?」

 レイモンドはもともと魔導省の内局に勤めていた。だが、何かと問題を起こすことが多く、厄介払いのような形で研究所へ異動になったのだ。

 しかし、今、サイファは内局に戻すという。

「……それは、取引ですか?」

 少し考えてから、レイモンドは慎重に尋ねる。

「解釈は君に任せる」

 サイファは静かにそう言うと、フッと小さな笑みを浮かべた。

「レイモンド、わかっているとは思うが、念のためにあえて忠告しておく。今後、二度とラグランジェ家に手出しをしようなどと思うな。もし再び何らかの行動を起こした場合、私はありとあらゆる手段で君を追い詰める」

 それは単なる忠告などではなく、抗いようのない最後通告である。サイファならば実際にそれを実行することが可能だ。そうなれば人生は終わったも同然である。レイモンドの顔は引きつり、額から頬に汗が伝った。

「行け」

 もう言い返す気力もなくなったのか、サイファに命じられるままに部屋を出て行った。その背中は哀れなほどに憔悴しきっていた。


「おじさま……レイモンドの狙いはラグランジェ家だったの……?」

 ユールベルはまだ濡れている瞳をサイファに向けて尋ねた。

「そうだよ。ユールベルと結婚してラグランジェ家の人間になり、その力を手に入れるつもりだったようだね」

 サイファは優しい口調でゆっくりと答える。そして、机の上で両手を重ねると、少し表情を険しくして続ける。

「そういう人間が出てくるだろうことは予想していたが、これほど早く、これほど強引な方法で来るとは予想外だった。もっと気をつけておくべきだったと反省している。ユールベル、君には本当に申し訳ないことをした」

 ユールベルの目から涙が溢れ、その場に膝から崩れ落ちた。顔を両手で覆って嗚咽する。

 その背中に、そっとあたたかい手が置かれた。

 ビクリとして顔を上げると、サイファが申し訳なさそうに微笑んでいた。ユールベルの隣に膝をついてしゃがみ、そっと自分の胸に抱き寄せた。

 ユールベルはサイファにしがみついて泣きじゃくった。

 泣き疲れて落ち着くまで、サイファはずっと無言で抱きしめてくれていた。その包まれるような優しい温もりに安堵して寄りかかる。

 しかし、心の片隅では、それでもラウルを求めていた。


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