旅はまだ終わらない
しばらく、美砂子は動くことができなかった。
手の中には、千代子が綴った最後の手紙。
便箋の上に落ちた涙が、一文字を静かに滲ませていた。
頬を伝う涙を拭おうともせず、美砂子はただ、そこに座り続ける。
胸の奥に込み上げてくるものは、悲しみだけではなかった。
戦争という時代に翻弄されながらも、人を恨まず、人との出会いに感謝し続けた和子。
その人生の終わりに浮かんだ景色が、高瀬川だったこと。
そして、約束を果たせなかったカートの笑顔までもが、和子を優しく迎えていたこと。
そのすべてが、美砂子の胸を静かに満たしていた。
「和子さん……。」
もう一度、その名を口にする。
その響きは、まるで遠い昔から知っていた人の名前のように、不思議な温もりを帯びていた。
やがて美砂子は、ゆっくりと立ち上がる。
ホテルの窓辺へ歩み寄り、そっとカーテンを開けた。
窓の向こうには、夜の京都が静かに広がっている。
無数の灯りが街をやさしく照らし、その間を縫うように、高瀬川が黒い帯となって流れていた。
橋の街灯が水面に映り、小さな光が揺れている。
昼間とは違う、静かな京都。
けれど、その流れだけは、昭和の頃と何ひとつ変わらないように思えた。
和子も。
小乃も。
好江も。
琴も。
千代子も。
そしてカートも。
あの人たちは皆、この街のどこかで笑い、泣き、悩み、そして生きていた。
その時間はもう遠い過去になってしまった。
それでも、その想いだけは、高瀬川の流れのように、今もこの街を静かに流れ続けている。
美砂子は窓ガラスにそっと手を添えた。
涙で滲んだ京都の灯りが、ゆらゆらと揺れる。
「……ありがとう。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
夜風に揺れる柳の枝が、街灯の光を受けて静かに揺れている。
その向こうで、高瀬川は何も語ることなく、ただ静かに流れ続けていた。
高瀬川を見つめていた美砂子は、ふと我に返った。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、小さく息をつく。
その時だった。
胸の奥で、何かが静かに引っかかった。
「……あれ?」
美砂子はゆっくりと振り返り、机の上に置かれた木箱と戸籍謄本へ視線を移す。
これまで夢中で手紙を読んでいたため、気にも留めていなかったこと。
だが今になって、一つの疑問が静かに浮かび上がってきた。
なぜ、理事長は、この戸籍謄本を大切に保管していたのだろう。
あの日、つくし学園で久美先生は多くを語らなかった。
ただ、
「亡くなられた理事長が、生前、金庫の中に大切にしまっておられたものです。」
そう静かに告げ、この戸籍謄本を美砂子へ手渡した。
その時は、なぜ、これを、自分に渡されたのかがわからなかった。
だが、映画監督としての創作意欲から、その戸籍を手がかりに京都を訪れたことで、美砂子は木屋町で一枚の写真と出会い、置屋・藤村の存在を知り、そして和子という一人の女性の人生にたどり着いた。
まるで、見えない誰かに導かれるように。
美砂子は戸籍謄本を手に取り、もう一度、そこに記された名前を見つめる。
奥村千代子。
和子の娘。
あの日、母に抱かれ、先斗町へやって来た幼い少女。
そして、自分は──。
「どうして……。」
思わず声が漏れる。
理事長は、何を知っていたのだろう。
なぜ、自分にこの戸籍謄本を託したのだろう。
そして何より――。
和子と千代子は、私と、どんな関係があるのだろう。
その答えは、まだどこにも書かれていない。
けれど美砂子には、不思議な確信が芽生えていた。
この旅は、まだ終わっていない。
和子の人生を知るための旅ではない。
自分自身が、どこから来たのかを知るための旅でもあったのだ。
窓の外では、高瀬川が静かに夜の灯を映している。
まるで、美砂子がその答えへたどり着く日を、何も語らず待ち続けているかのようだった。
翌朝。
柔らかな朝日がホテルのロビーを照らしていた。
チェックアウトを済ませた美砂子は、ロビーの窓際にあるソファへ腰を下ろす。
昨夜はほとんど眠ることができなかった。
和子の手紙。
千代子の手紙。
そして、理事長が遺した戸籍謄本。
そのすべてが胸の中で静かに結びつこうとしていた。
美砂子は携帯電話を取り出し、「つくし学園」の番号を押す。
ほどなくして、聞き慣れた優しい声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「はい、つくし学園です。」
「久美先生……おはようございます。美砂子です。」
「あら、美砂ちゃん。おはようございます。まだ、京都にるの。」
「はい。でも、いろいろ、やり残した仕事もあるので、今日、帰ります。」
「そう。」
「それで、先生、お聞きしたいことがあります。」
美砂子は一呼吸置いてから、静かに尋ねた。
「生前、理事長先生は……私のことについて、何か話しておられませんでしたか。」
電話の向こうで、久美は少し考えるように黙り込んだ。
「そうね…… これは、理事長先生から直接聞いたことはないんだけど…………」
そう前置きしてから、ゆっくりと言葉を続ける。
「一つだけ気になっていたことがあるの。」
「気になっていたこと……ですか。」
「美砂ちゃんがまだ小さかった頃だけど。」
その一言に、美砂子は思わず息をのんだ。
「ほら、覚えてない? 時々、学園へあなたを訪ねて来られた女性のこと。」
その瞬間、美砂子の記憶の奥で、何かが静かに揺れた。
――甘いお菓子の匂い。
――優しく頭を撫でてくれる、温かな手。
ぼんやりと、遠い記憶の底から浮かび上がってくる。
「……あ。」
思わず小さく声が漏れた。
「思い出した?」
「はい……。」
美砂子は目を閉じる。
はっきりとした顔は思い出せない。
けれど、中年くらいの女性が、紙袋いっぱいのお菓子を持って来てくれていたことだけは覚えていた。
「でも……理事長先生は、その方が誰なのか、私たちには一度も話してくれなかったの。」
久美は静かに言った。
「ただ……。」
少し間を置いて続ける。
「その方が来られると、理事長先生は必ず応接室へ案内されてね。二人っきりで、お話しされていたのを覚えてるわ。」
美砂子は受話器を握る手に、自然と力が入る。
久美は遠い日の情景を思い浮かべるように話す。
「今思えば……。」
静かな声が続く。
「もしかすると、その方が、美砂ちゃんのことや、あの戸籍謄本に関わる何かをご存じだったのかもしれませんね。」
美砂子は窓の外へ目を向けた。
朝の京都の街が、ゆっくりと目を覚ましていく。
遠い昔、時々学園を訪れていた名も知らない女性。
あの人はいったい誰だったのだろう。
その答えは、まだ霧の向こうに隠れたままだった。
ホテルをあとにした美砂子は、帰る前にもう一度だけ高瀬川へ向かった。
ゆっくりと川沿いを歩いていると、一軒の古い写真館が目に留まる。
何気なくショーウインドウへ目を向けた、その瞬間だった。
「……えっ。」
思わず足が止まる。
ガラスの向こうに飾られていたのは、一枚の古いモノクロ写真。
町家の前に、着物姿の女性たちがずらりと並んでいる。
その後ろには、見覚えのある暖簾。
「藤村」
美砂子は目を見開いた。
鼓動が少しだけ速くなる。
手紙の中だけに存在していた置屋が、今、目の前に写っている。
信じられない思いで、ショーウインドウに近づいた。
やがて、引き寄せられるように店の扉を開ける。
「すみません。お店の前に掛けてあるこの写真のことをお伺いしたいのですが……。」
奥から現れた店主は、店の外に出て写真へ目を向けると穏やかに微笑んだ。
「ああ、これ、祖父が撮った写真ですよ。」
その一言に、美砂子は静かに息をのむ。
「この中のどこかに、和子がいる。琴も、好江も、そして幼い千代子もいるのかもしれない。」
「お願いがあります。」
美砂子はスマートフォンを取り出した。
「この写真を撮らせていただいても、よろしいでしょうか。」
「ええ、どうぞ。」
美砂子は小さく頭を下げると、震えそうになる手でスマートフォンを構え、静かにシャッターを切った。
美砂子は、もう一度だけショーウインドウの写真を見つめた。
モノクロの中では、誰もが穏やかに微笑んでいた。
その笑顔は、九十年近い歳月を越えて、静かに美砂子へ語りかけているようだった。




