時を越える手紙
封を開くと、少し黄ばんだ便箋が静かに姿を現した。
万年筆で綴られた文字は、時を越えてもなお美しく整っている。
美砂子は、そっと一枚目を広げた。
小乃ちゃん。
お元気ですか。
大阪へ来て、もう半年が過ぎました。
まずは、お礼を言わせてください。
うちが先斗町へ行く前、小乃ちゃんが好江お母はんに「この人を頼んます」と言うてくれはったこと、忘れたことは一度もありません。
あの時、右も左も分からへんうちを藤村へつないでくれはったから、うちは千代子と生きていく場所を見つけることができました。
ほんまに、おおきに。
京都を離れた頃は、毎日が夢を見ているようで、朝になっても自分がどこにいるのか分からへんことがようありました。
でも、今では、戎橋の小さな料理屋で働かせてもろうて、千代子と二人、何とか暮らしております。
店の人らもようしてくださって、この子も少しずつ笑うようになりました。
それを見るたび、「生きていかなあかん」と、自分に言い聞かせています。
大阪は、朝から晩まで賑やかな町です。
商人さんの威勢のええ声が飛び交うて、人の流れもよう止まりません。
道頓堀川を眺めていると、ときどき、高瀬川の流れる音が恋しゅうなります。
目を閉じると、あの橋が浮かびます。
雪の日に立った橋。
桜の散る頃に歩いた橋。
夕暮れに一人で渡った橋。
うちの心には、今でもあの川が静かに流れています。
小乃ちゃん。
好江お母はんは、お変わりはないやろか。
皆さん、お元気やったら、それだけで嬉しゅう思います。
うちは京都を離れましたけど、藤村で過ごした日々を忘れたことは、一日もありまへん。
あの暖簾の下で笑うたこと。
泣いたこと。
叱られたこと。
みんな、今のうちを支えてくれています。
また、お便りします。
季節の変わり目です。
皆さんも、どうぞお身体を大切になさってください。
和子
便箋に綴られた文字は、そこで静かに終わっていた。
――大阪。
戎橋のほど近くにある、小さな料理屋。
夕暮れを迎えた店内は、芝居見物を終えた客たちで賑わっていた。
笑い声が飛び交い、徳利を重ねる音が響く。
「すんまへん。ちょっと、ごめんやす。」
和子は大きなお膳を両手で抱え、狭い木の階段を一段一段、慎重に上っていく。
額にはうっすらと汗がにじんでいた。
料理を運び終えると、今度は空いた器を抱え、足早に階段を下りる。
その表情に疲れは見えても、歩みを止めることはなかった。
忙しく立ち働く和子の姿を、女将が静かに見つめる。
「和ちゃん、少し休み。」
「大丈夫です。」
和子は微笑み、小さく頭を下げると、再び暖簾の向こうへと駆けていった。
その頃、店の奥では千代子が店の者に見守られながら、小さな声で童歌を口ずさんでいた。
和子はその姿をひと目見ると、ほっとしたように微笑み、再び仕事へ戻っていく。
慣れない大阪の町で。
和子は今日も前を向き、千代子の小さな未来を守るために働き続けていた。
美砂子は、一通目の便箋を静かに畳んだ。
そこには、慣れない土地で懸命に生きようとする和子の姿があった。
悲しみを抱えながらも、一歩ずつ前へ歩き始めた一人の母親。
その姿が、文字の行間から静かに伝わってくる。
木箱の中には、まだ幾通もの手紙が残されていた。
美砂子は二通目の封筒を手に取る。
消印は、一年後の春。
封を開くと、和子の変わらぬ美しい文字が現れた。
小乃ちゃん。
お元気ですか。
大阪にも桜が咲きました。
こちらへ来て一年半。
ようやく、この町の暮らしにも慣れてきました。
料理屋の女将さんには相変わらずようしていただいて、毎日忙しゅう働いております。
千代子も少し大きゅうなりまして、店の皆さんに可愛がってもろうています。
この前、「お母ちゃんのお手伝いする。」と言うて、小さなお盆を一生懸命運んでくれました。
その姿がおかしゅうて、店のみんなで笑いました。
子どもは、ほんまによう親を見ておりますね。
その笑顔を見るたび、この子のためにも前を向いて生きていかなあかんと思います。
桜を見ていると、不思議と故郷の京北や、先斗町の春を思い出します。
健吉さんと三人で、お花見したこと。
高瀬川のほとりを歩きながら、舞妓さんたちと笑うていたこと。
夕暮れになると、川面が桜色に染まっていたこと。
あの景色は、今でも心の中で色褪せることはありません。
好江お母はんも、小乃ちゃんも、お変わりなくお過ごしでしょうか。
皆さんのお元気なお顔を思い浮かべながら、この手紙を書いております。
また、お便りします。
どうぞ、お身体にはお気をつけください。
和子
春の日差しが、道頓堀の町を明るく照らしていた。
芝居小屋の前には、開演を待つ人々の長い列。
映画館には色鮮やかな看板が掲げられ、呼び込みの声が賑やかに響いている。
「お母ちゃん、見て!」
千代子が嬉しそうに和子の手を引いた。
指さす先では、大道芸人が軽やかに芸を披露し、子どもたちの笑い声が辺りに広がっている。
和子は立ち止まり、千代子の笑顔を見つめた。
その笑顔は、先斗町へ来たばかりの頃には見られなかった、屈託のない笑顔だった。
「千代ちゃん、楽しいか。」
「うん!」
その一言に、和子も思わず微笑む。
二人は肩を並べ、人波の中をゆっくりと歩いていく。
芝居小屋の軒先には華やかな幟がはためき、映画館からは上映を知らせる音楽が流れていた。
賑わいの中に身を置きながらも、和子はふと空を見上げる。
春の陽射しは、京都の空と変わらず優しかった。
そのぬくもりを胸に、和子は千代子の小さな手をそっと握り直す。
母と娘の新しい日々は、笑い声あふれる大阪の町で、ゆっくりと育まれていた。
それでも和子は知っていた。
高瀬川は遠く離れていても、その流れだけは、今も自分の心の中を静かに流れ続けていることを。




