第8話:昼休みの襲撃
四時間目の現代文。
窓際の後ろから二番目という特等席で、俺は必死に睡魔と戦っていた。
先生の朗読は春の陽気に溶け、意識がゆるゆると落ちていく。
チラリと、後方に目をやる。
朝凪真冬は背筋をピンと伸ばし、黒板を真剣な表情で見つめていた。
完璧な優等生だ。家でのだらけきった姿が嘘のようだ。
「……詐欺だよな、あれ」
小声で呟き、あくびを噛み殺す。
昨晩、というか今朝方まで続いた『儀式』のせいだ。
真冬が俺の腕を枕にして、俺の胸に顔を埋めて、すーすーと寝息を立てていた。
俺はと言えば、柔らかい感触と甘い匂いと、時折漏れる寝言のせいで、ほとんど眠れなかった。
『……んぅ……みなとぉ……』
あんなことを言われて、平然としていられるわけがない。
結局ほとんど一睡もできないまま朝を迎え、真冬は「ふわぁ……」とぽわぽわした顔で起きてきた。
理不尽だ。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴り響く。
「はい、今日はここまで」
教室中がざわつき始める。昼休みだ。
ここからが、俺にとっての正念場だった。
「朝凪さん、一緒にお昼食べない?」
「朝凪ちゃん、購買行こうよ!」
案の定、真冬の席の周りには女子たちの輪ができる。
男子たちは遠巻きにそれを見ているが、視線は真冬に釘付けだ。
俺はいつものように自分の席で、弁当を広げる準備をする。
隣の席の翔太が、椅子を引きずりながら近づいてきた。
「よう湊、飯食おうぜ」
「おう」
机をくっつけて、翔太と向かい合う。
真冬の方はどうなっているだろうか。チラリと視線を送る。
「ごめんなさい、今日はちょっと用事があって」
真冬は申し訳なさそうに、でもきっぱりと女子たちの誘いを断っていた。
「えー、用事って?」
「図書室で調べ物を……」
嘘だ。俺には分かる。あの目は、何かを企んでいる目だ。
真冬がふとこちらを見た。
目が合う。ほんの一瞬。
その瞳が語っている。
――『あとでね』
背筋に冷たいものが走る。
真冬は小さなお弁当箱を持って、教室を出て行った。
五分後。
俺のスマホが、ポケットの中で短く振動した。
嫌な予感がする。机の下でこっそり確認する。
LINEの通知。送り主は『まふゆ』。
『おなかすいた』
『旧校舎の裏。5分以内』
俺はパンを喉に詰まらせかけた。
「ぐっ、ごふっ……!」
「おいおい、大丈夫か? 慌てて食うなよ」
「悪ぃ……水、水……」
お茶で流し込みながら、俺は冷静さを取り戻そうと必死だった。
旧校舎の裏。
今は使われていない旧校舎と、体育館倉庫の隙間にある、ちょっとしたスペースだ。
人は滅多に来ない。だが、誰にも見られないという保証はない。
そんなところに、「氷の女王」と地味なモブ男子が二人でいたら。
一発アウトだ。社会的な死だ。
しかし、行かなければどうなるか。
「どうして来てくれなかったの?」とじっとりとした目で見つめられ、一晩中尋問される未来が見える。
「悪い翔太、ちょっとトイレ」
「お? おう、行ってら」
俺は弁当箱の蓋を閉め、逃げるように席を立った。
廊下に出る。幸い、人は少ない。
早足で階段を降り、昇降口を抜け、旧校舎の方へと向かう。
心臓がバクバクとうるさい。
これはミッションだ。誰にも見つからずに、目的地へ到達せよ。
旧校舎の裏手に回り込む。
古びたベンチが一つ置かれた殺風景な場所。
そのベンチにちょこんと座っている少女が一人。
日陰で、真冬は退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
「……遅い」
俺の姿を認めると、真冬は頬を膨らませた。
「五分も経ってない。……こんなところで何してんだよ」
「何って、お昼ごはん。湊と一緒に食べようと思って」
悪びれもせず、真冬は自分のお弁当箱を広げた。
可愛らしいピンク色の二段弁当。彩り豊かな野菜と、タコさんウインナー、綺麗な卵焼き。
「教室で食べればいいだろ。友達誘ってたじゃないか」
「だって、湊がいないと美味しくないもん」
サラリと爆弾発言を投下してくる。
「……お前なぁ。学校では他人って約束だろ」
「誰も見てないから平気。ほら、座って」
真冬は自分の隣をぽんぽんと叩く。
ベンチは二人掛けだ。座れば、必然的に密着する。
「……見つかったらどうすんだよ」
「その時はその時。私が湊を脅迫して呼び出したことにすればいいわ」
「俺の立場はどうなるんだよ……」
溜息をつきつつ、俺は誘惑に勝てずに隣に座った。
ふわ、と真冬の香りが鼻をくすぐる。
肩が触れる距離。
学校でこの距離感は異常だ。背徳感とドキドキ感がない交ぜになる。
「はい、これ」
真冬が卵焼きを箸で摘んで、俺の口元に差し出してきた。
「……は?」
「あーん」
「いや、無理! 流石にハードル高い!」
「誰もいないってば。早くしないと、腕が疲れちゃう」
真冬は箸を引かない。頑固な瞳だ。
俺は観念して、口を開けた。
「……あーん」
パクり。
甘い。出汁の味と砂糖の甘さが絶妙だ。
俺が作ったけど、美味い。
「美味しい?」
「……ああ、美味いよ」
「えへへ、よかった」
真冬は嬉しそうに微笑み、自分の口におかずを放り込む。
その笑顔は、「氷の女王」のそれではない。
俺だけが知っている、年相応の少女の顔だ。
「湊のお弁当も見せて」
「いや、俺のは……」
隠そうとしたが、遅かった。
真冬は俺の弁当箱を覗き込み、「ふーん」と声を漏らす。
「茶色いね」
「男の弁当なんてこんなもんだ」
「栄養バランス悪そう。……これあげる」
真冬は自分の弁当から、ブロッコリーとミニトマトを俺の弁当に移した。
「代わりに、ウインナーちょうだい」
「……はいはい」
物々交換が成立する。
はたから見れば、仲の良いカップルのランチタイムだ。
だが、ここは学校。いつ誰が来るか分からない。
ガサッ。
近くの植え込みが揺れた。
「ッ!?」
俺と真冬は同時に固まった。
箸が止まる。呼吸も止まる。
植え込みの向こう側から、足音が聞こえた。
誰かが歩いてくる。
「——っ!」
俺は「隠れろ」と合図を送り、真冬の手を引いた。
旧校舎の壁と物置の隙間。
人一人がやっと入れるような狭いスペース。
そこに二人で滑り込んだ。
狭い。
狭すぎる。
真冬の身体が、俺に密着している。
胸が、押し付けられている。
彼女の心臓の音が、直接伝わってくる。
「……っ」
真冬が俺の口を手で塞いだ。
その目が「静かに」と訴えている。
俺も息を殺した。
足音が近づいてくる。
一人じゃない。複数だ。
「——あ、やっぱりここ……猫……」
「マジ? ……そういえばさ……凪さん……」
「……絶対なんか……」
「……彼氏いる……」
「無理でしょ……性格……」
「……友達いなく……」
「……親いないらしいよ……お母さん、有名なデザイナーなのに……ほったらかしにされてるって……」
「えー、マジ? だから一人暮らし……」
「……かわいそ」
断片的に聞こえる噂話。
俺の隣で、真冬の肩がピクリと震えた。
「かわいそ」。
「親いない」。
その言葉が、彼女の胸を抉ったのが分かった。
好きで孤独を選んでいるわけじゃない。
守るために、距離を取っているだけなのに。
家族の事情を、面白おかしく消費されている。
ふと見ると、真冬の顔色が変わっていた。
青白い。
唇を噛みしめ、喉がひくひくと痙攣している。
——吐きそうなのだ。
こういう言葉を、今までどれだけ浴びてきたんだろう。
「かわいそ」「性格悪い」「友達いない」「親に捨てられた」——
見えない刃物で、何度も何度も切り刻まれてきた。
それが今、フラッシュバックしている。
真冬の呼吸が、少し乱れている。
俺は咄嗟に、彼女の耳を両手で塞いだ。
驚いた真冬が目を見開く。
俺は唇だけを動かして伝えた。
——聞くな。
真冬の目が、一瞬だけ潤んだ。
でも、すぐに強く瞬きをして、小さく頷いた。
俺の手のひらの中で、彼女の頬が熱を持っていた。 ——耳たぶが、熱い。火照りみたいに。
そして、彼女の顮がかすかに震えているのが、掌越しに伝わった。
彼女は今、俺の手の中で、必死に壊れまいとしている。
女子の声だ。
しかも、噂話をしている。
——真冬の噂を。
最悪だ。
噂好きな女子グループ。学校で一番危険な存在。
こいつらに見つかったら、明日には全校に広まる。
「ねえ見て、あそこなんかいない?」
「え、どこどこ?」
足音が、こちらに近づいてくる。
俺と真冬は壁に張り付いて、息を潜めた。
真冬の顔が、俺の首筋のすぐ横にある。
吐息がかかる。
媚薬みたいに甘い匂いが、鼻をくすぐる。
この状況で、心拍数が上がらないわけがない。
「……あ、猫だ。野良猫じゃん」
「かわいー! 写真撮ろ」
「逃げた! 待ってー!」
どうやら物置の反対側にいた野良猫に気を取られたらしい。
女子たちの足音が、猫を追いかけて遠ざかっていく。
——たすかった。
俺と真冬は、同時に息を吐いた。
でも、まだ離れるには早い。
念のために、もう少しだけ待つ。
狭い隙間の中で、俺たちは密着したままだった。
彼女の鼓動が、俺の胸を揺らしている。
早鐘を打っている。
俺も、たぶん同じくらいの速さだ。
ふと、真冬が俺の胸に顔を埋めた。
「……どきどき、した」
「……俺も」
「……あの子たち、うちのクラスの子だった」
「……マジか」
「……見つかってたら、終わってた」
真冬の声が、少し震えている。
しかも、俺たちの噂話をしていた。
バレたら社会的に死ぬ。
「……えへへ。でも、助かった」
こんな状況で嬉しそうに笑うな。
俺は苦笑しながら、彼女の頭を軽く叩いた。
「……もう大丈夫だろ。出るぞ」
「ん……もうちょっとだけ」
「喉渇いただろ、早く食べろ」
「……けち」
名残惜しそうに離れる真冬。
俺たちは隙間から抜け出し、ベンチに戻った。
さっきの緊張感が、まだ残っている。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
「……早く食べちゃおう」
「……そうだな」
俺たちはペースを上げて弁当をかき込んだ。
味わう余裕なんてない。
ただ、隣に真冬がいるという体温だけが鮮烈に意識される。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
空になった弁当箱を片付ける。
真冬が、ふぅ、と息を吐いた。
「……ドキドキした?」
小悪魔的な笑みを浮かべて、俺を見上げてくる。
「寿命が縮んだ」
「ふふ。でも、楽しかったでしょ?」
「……否定はしない」
俺が認めると、真冬は満足げに頷いた。
そして、不意に俺の腕に手を伸ばした。
「……ねえ、あと少しだけ」
「おい、ここは――」
「誰もいない。お願い」
懇願するような目で見上げられて、俺は抵抗できなかった。
真冬は俺の腕に頬を寄せ、目を閉じた。
「……学校だと、湊が遠い」
「……」
「同じ教室にいるのに、触れられない。話せない。……辛い」
その声は、甘えているようで、どこか切ない。
俺は周囲を確認してから、そっと真冬の頭に手を置いた。
「……俺も、辛い」
「本当?」
「ああ。お前が他の奴と話してるの見ると、イライラする」
「……えへへ」
真冬が嬉しそうに笑う。
「湊が焼きもち焼いてる」
「焼いてない」
「焼いてる」
「……うるさい」
照れ隠しに、軽く頭を小突く。
真冬はくすくす笑いながら、俺の腕にぎゅっとしがみついた。
「……あと十秒」
「五秒」
「八秒」
「……六秒。それ以上は駄目だ」
「けち」
文句を言いながらも、真冬は目を閉じて俺の温もりを吸収している。
六秒。それが今の限界だ。
これ以上は、俺の理性が持たない。
「……時間だ」
「……うん」
名残惜しそうに、真冬が離れる。
立ち上がり、スカートの埃を払うと、凛とした「氷の女王」の表情に戻った。
——戦闘機械の切り替えみたいだ。
さっきまでの「まふゆ」が、完全に「朔凪真冬」になる。
彼女はただ冷たくぶっているんじゃない。
彼女は「氷の女王」を、策略的に演じている。
——湊を、守るために。
誰も寄せ付けなければ、誰にもバレない。「氷の女王」の仮面は、俺との秘密を守るための構造物なんだ。
そう思うと、胸の奥でまたあの甘い痙攣が走る。
「じゃあ、先に行くね。一緒だと怪しまれるから」
「ああ。……気をつけて」
「湊もね」
コツコツとローファーの音を響かせて、真冬が去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は大きく深呼吸をした。
心臓はまだ、早鐘を打っていた。
甘い卵焼きの味が、まだ口の中に残っている。
学校での『秘密の共有』。
それは、同棲という秘密とはまた違った、刺激的な蜜の味がした。
遠くでチャイムが鳴る。
俺は名残惜しさを振り払い、弁当箱を抱えて立ち上がった。
教室に戻れば、また他人の距離だ。
それでも、さっきの「秘密の共有」が胸の中で温度を保っている。
翔太が「お、戻った」と手を振る。
俺は何でもない顔で席に戻った。
演技は今日も続く。
でも、その演技の裏側で、心臓だけが忙しく動いている。
掌には、まだ真冬の体温が残っていた。
それが午後の、唯一の支えになる。
——帰宅後、まふゆのスマホが鳴った。
非通知。
彼女の顔から血の気が引いていくのを、俺は隣で見ていた。
画面を睨んだまま、まふゆは動かない。
着信音が鳴り続ける。
三回、四回、五回——そして、切れた。
俺は黙ってスマホを手に取り、通知を消した。
履歴には「非通知」とだけ残っている。
「……出なくていい」
「……うん」
まふゆは深呼吸をして、俺の肩に額を押し当てた。
「……誰だか、分からない」
「分からなくていい」
「……でも、多分——」
言葉が途切れた。
俺は聞かなかった。
聞かなくていいと思った。
でも、彼女の身体がこんなに震えるのは、ただの間違い電話じゃない。
俺にもそれくらいは分かる。
その夜、まふゆはいつもより強く俺にしがみついて眠った。
俺はその震えが止まるまで、ずっと背中を撫でていた。
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