第7話:隣人の秘密
三限目の終わり。
担任の桜井先生が気だるげにプリントを配り始めた。
「えー、委員会の希望票な。今日中に出せ。」
教室が一気にざわめいた。
真冬が、プリントもろくに見ずに窓の外を眺めている。
周りの女子たちが「朝凪さん、どこの委員にする?」と遠巻きに聞いているが、彼女は「まだ決めてない」と短く返すだけだ。
「朝凪さん、絶対図書委員だろ。静かなとこ好きそうだし」
「……まあ、そうかもな」
翔太の予測は正しい。
真冬は図書室の空気が好きだ。静けさと、本の匂いと、余計な会話がない場所。
あそこが、彼女の学校生活で唯一息がつける場所なのだろう。
「てか夏目、お前委員会どうすんの?」
「面倒が少ないとこ」
「夢がねえなー。……ほら、図書委員とかどうよ? 朝凪さんと一緒かもよ?」
「住む世界が違うだろ」
「だよなぁ」
翔太はからあげを口に放り込みながら、窓の外を見た。
その横顔が、一瞬だけ——いつもと違う。
「……なあ、湊」
「ん?」
「お前、なんか隠してるだろ」
胸の奥がキリキリと痛んだ。
「何が」
「いや、別に。聞かねえよ。俺、そういうの察するの得意だから」
翔太は笑った。
でも、その笑い方が——いつもよりわざとらしい。
「察した上で、空気壊さないのが俺の仕事。だから安心しろ」
「……」
「お前が話したくなったら聞く。それまでは、いつも通りバカやってるから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
翔太は何も知らないふりをして、俺たちの距離を守ってくれている。
いつから気づいていたのか——聞く勇気はなかった。
翔太は立ち上がり、「じゃ、弁当箱捨ててくらぁ」と軽く手を振った。
その背中が、いつもより小さく見えた。
クラスのムードメーカー。
明るいチャラ男。
でも本当は、空気を読みすぎて——自分を殺しているのかもしれない。
俺たちのために、わざと「ピエロ」を演じている。
その優しさに、俺は何も返せていない。
隣の席の女子が俺の方を向いた。
「夏目くん、ごめん。消しゴム貸してもらえる? 落としちゃって見つからなくて」
「あー、いいよ。はい」
何のことはない、クラスメイト同士の会話だ。
俺は机の端に置いていた消しゴムを差し出した。
佐藤さんは「ありがと! 助かる!」と笑顔で受け取る。
柑橘系の香水の匂いが、ふわりと漂った。
「夏目くんって優しいよね。いつも静かだけど」
「そうか? 普通だと思うけど」
「そういうところが優しいんだって」
佐藤さんが軽く笑う。
俺もつられて口角を上げた。
ただそれだけ。教室のどこにでもある、何でもない会話——
――バキッ。
乾いた音が、背後から響いた。
会話の途中だったのに。
教室が一瞬、静まり返る。
「え、今の何?」
「なんか折れた?」
数人が振り返る。
俺も、反射的に後ろを見た。
真冬は、いつもと変わらない無表情で席についていた。
その手には、真っ二つに折れたシャーペンが握られている。
金属製の、かなり頑丈そうなやつだ。
「……芯が折れました」
真冬は淡々と答えた。
その声は、氷のように冷たく、感情の欠片もない。
「芯……? いや、今の音……」
「芯が、折れたんです」
真冬の静かな声が、それ以上の追及を封じた。
女子たちは「そ、そう……」と引き攣った笑みを浮かべて前を向く。
男子たちも「朝凪さん、握力やべえな……」と小声で囁き合っている。
あれは「芯が折れた」音じゃない。
シャーペンの軸が、真冬の握力でへし折れた音だ。
ちらりと真冬を見る。
彼女は何事もなかったかのように、折れたシャーペンをペンケースにしまい、予備のボールペンを取り出していた。
その横顔は、完璧な「氷の女王」のまま。
だが、俺には見えた。
白磁のような頬が、ほんの僅かに紅潮していることを。
折れたシャーペンを握る指先が、微かに震えていることを。
——また、このパターンか。
俺は内心で溜息をついた。
消しゴムを貸しただけ。たった三秒の会話。
それでこれだ。
でも——不思議と、嫌じゃなかった。
重い、とは思う。息苦しい、とも思う。
なのに、その重さが「俺だけに向けられている」と思うと、どこかで安心している自分がいる。
彼女の執着が、物理的な破壊力を持ってしまったことへの、歪んだ悦び。
俺のために、シャーペンが折れた。
——それを「怖い」より先に「嬉しい」と感じる自分がいる。
それは多分、健全な感情じゃない。
分かっている。分かっているけど——
消しゴムを返しにきた佐藤さんが「ありがとね」と微笑んだ瞬間、真冬の睫毛がピクリと動いた。
俺は慌てて「おう」と短く答え、視線を前に戻した。
……やばい。
あいつ、完全に沸点を超えていた。
消しゴムを貸しただけで。たった三秒の会話で。
背中に、冷たい視線が突き刺さっている。
振り向かなくても分かる。
今夜、俺は尋問される。
椅子に座ると、真冬が背中側で制服の裾を整える気配がした。
布擦れの音、静かなため息。
それが聞こえた瞬間、家での「まふゆ」が脳裏をよぎる。
慌てて教科書を開き、視線を落とす。
---
委員会の希望票を提出する時、俺は迷わず図書委員に丸をつけた。
手間が少ないから、という理由は半分だけだ。
残り半分は、真冬がいる場所の空気を知っておきたいという、ただの独占欲。
桜井先生が面倒そうに黒板を叩いた。
「はいはい、希望票回せー」
希望票が回ってくる。
ペンを置いた瞬間、背後から小さな気配がした。
視線を上げたい衝動を、喉の奥で潰す。
その代わり、机の上に置いたスマホが震えた。
LINEの通知。
差出人は『まふゆ』。
『図書委員、当たった』
『当番、来週から。放課後、図書室』
短い文。それだけで胸の奥が熱くなる。
『了解。人の目に気をつけろ』
返して、スマホを伏せた。
顔を上げると、真冬は相変わらず窓の外を見ている。
俺と視線が交わることはない。
でも、返事を受け取ったことは、背中越しに分かった。
翌朝、教室の掲示板に貼り出された名簿の端で、俺は自分の名前を見つけた。
図書委員。想像通りだ。
そのすぐ上に、朝凪真冬の名前があった。
図書委員の仕事は地味だ。
返却棚の整理、机の消しカス掃除、貸出スタンプ。
放課後の静けさは嫌いじゃないが、そこに真冬がいると思うと心拍数が上がる。
最初の当番の日。
放課後の図書室は、西日が差し込んで埃が金色に舞っていた。
俺がカウンターに入ると、すでに真冬が本棚を整理していた。
誰もいない。
司書の先生は職員室に戻っている。
「……遅い」
真冬が小さな声で言った。
学校で、初めて俺に向けられた言葉だ。
「悪い。翔太に捕まった」
「……ふうん」
不満げに唇を尖らせる。
その表情は、家で見せる「まふゆ」そのものだ。
思わず手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。
「ここでは駄目だろ」
「……分かってる」
真冬は背を向けて、本棚に本を差し込んだ。
だが、その耳が赤いのが見えた。
俺は反対側の棚に向かい、返却された本を戻していく。
静かな図書室に、本の背表紙が棚に当たる音だけが響く。
その時、廊下から足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
俺と真冬は同時に固まった。
コツ、コツ……コツ。
足音が近づいてくる。
図書室の扉に向かって。
一歩。また一歩。
その音が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように響く。
真冬の顔から血の気が引いていくのが見えた。
俺も心臓が跳ね上がる。
足音が止まった。
——図書室の前だ。
沈黙。
息を殺す。
廊下の向こう側で、誰かが立ち止まっている気配がする。
ドアノブに手をかけようとしているのか。
それとも、何か考えているのか。
時間が、引き延ばされたガムのように粘りつく。
——バレる。バレる。バレる。
本を持つ手が震えた。
真冬 の方を見ると、彼女は唇を噛みしめ、両手で自分の腕を抱きしめている。
耐えている。声を出さないように、動かないように、必死に耐えている。
俺は「離れろ」と合図を送り、真冬は弾かれたように反対側の棚に移動した。
俺も何食わぬ顔で本を整理するフリをする。
ガラリ、と扉が開いた。
「ありゃ、まだ委員いたの」
入ってきたのは、知らない女子生徒だった。
おそらく他のクラスの子だ。
返却用の本を抱えている。
「あ、すみません。ここに返しておけばいいですか?」
「あ、はい。カウンターに置いておいてください」
俺は平静を装って答えた。
声が裏返らなかったのは奇跡だ。
女子生徒は「ありがとうございます」と言って、本を置いて出て行った。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
——たすかった。
俺は壁に背中を預け、大きく息を吐いた。
反対側の棚の陰から、真冬が顔を出す。
その顔も、青い。
「……死ぬかと思った」
「俺も」
二人で顔を見合わせ、力なく笑った。
この緊張感。
学校で秘密を共有するというのは、こんなにも心臓に悪いのか。
同じ空気を吸っている。
同じ空間にいる。
それだけで、心臓がうるさい。
ふと、指先が触れた。
同じ本を取ろうとして、真冬の手と重なったのだ。
「っ……」
真冬が小さく息を呑む。
俺も固まった。
細い指。ひんやりとした温度。
家では当たり前に触れているのに、ここではそれだけで心臓が跳ねる。
「……ごめん」
「……ううん」
どちらからともなく手を引く。
だが、真冬は俺の袖をそっと摘んだ。
「……あと少しだけ」
囁くような声。
俺は周囲を確認した。誰もいない。窓の外にも人影はない。
「……少しだけだぞ」
真冬は俺の腕に、そっと額を預けた。
ほんの数秒。
それだけで、彼女の肩から力が抜けるのが分かった。
「……充電完了」
「……お前、スマホかよ」
「湊充電器」
くすりと笑う声が、静かな図書室に落ちる。
俺は溜息をついて、彼女の頭を軽く撫でた。
「帰ったらちゃんと充電してやるから、今は我慢しろ」
「……約束ね」
「ああ」
真冬は名残惜しそうに離れ、また本棚に向かった。
何事もなかったかのように。
「氷の女王」の表情に戻って。
その切り替えの速さに、俺は改めて感心する。
同時に、少しだけ寂しくもなる。
この空間だけが、学校で唯一「まふゆ」が顔を出せる場所だ。
当番が終わり、俺たちは別々に図書室を出た。
廊下ですれ違う時、視線は合わせない。
だが、真冬の指先が俺の手の甲に触れた。
一瞬だけ。蝶が止まるように軽く。
それが今日の挨拶代わり。
誰にも気づかれない、二人だけの合図だ。
その日の帰り道、アパートの階段を上る時も、俺たちは距離を取った。
誰かに見られていないか、何度も後ろを確認する。
夕方の光に伸びる影が、いつもより長く見えた。
玄関の鍵が閉まった瞬間、真冬の肩が緩む。
「学校の真冬」と「家のまふゆ」を切り替える、その境界線。
「……ただいま」
「おかえり」
言葉は短い。
だが、真冬は飛びついてこなかった。
代わりに、玄関の壁にもたれて、じっと俺を見ている。
その瞳から、ハイライトが消えていた。
「……今日、消しゴム貸してたね」
来た。予想通りの尋問だ。
「ああ、佐藤さんが落としたらしくて——」
「佐藤さん」
真冬が、その名前だけを切り取って繰り返した。
声に温度がない。
「名前、覚えてるんだ」
「いや、席が隣だから——」
「へぇ......」
真冬が一歩、近づいてくる。
俺は無意識に半歩、後ずさった。
背中が玄関のドアに当たる。逃げ場がない。
「可愛かった?」
「は?」
「佐藤さん。可愛かった?」
真冬の声が、ぞっとするほど静かだ。
学校で見せる「氷の女王」とも違う。
もっと深い場所にある、凍てついた何か。
「いや、別に——普通だろ」
「普通」
「普通だよ。クラスメイトだし」
「……ふうん」
真冬が俺の胸元に手を置いた。
その指先が、ゆっくりとシャツを握り込む。
「私のシャーペン、折れちゃった」
「……見てた」
「湊のせい」
「俺のせい!?」
「湊が、他の女と笑ってたから」
真冬の目が、潤んでいた。
怒りなのか、悲しみなのか、分からない。
たぶん、両方だ。
「私の前で、他の女と話さないで」
「いや、消しゴム貸しただけ——」
「笑ってた」
「笑って……ないだろ」
「口角が、0.3ミリ上がってた」
どんな観察眼だよ。
「……お前、俺のこと見すぎだろ」
「見てる。ずっと見てる。湊の背中、ずっと見てる」
真冬がぐいっと顔を近づけてきた。
鼻先が触れそうな距離。
その瞳が、月明かりみたいに揺れている。
「私以外と、笑わないで」
「……無茶言うな」
「無茶じゃない。湊は私のなんだから」
その言葉が、胸の奥に刺さる。
独占欲。執着。依存。
全部ひっくるめて、真冬は俺を「自分のもの」だと思っている。
それが重くて、苦しくて、でも——どこか、嬉しい自分がいる。
「……分かったよ」
俺は溜息をついて、真冬の頭に手を置いた。
「できる限り気をつける。でも、学校じゃ完全に避けるのは無理だ」
「……」
「その代わり、家では——お前だけだ。それでいいか?」
真冬の目が、ゆっくりと和らいだ。
ハイライトが戻ってくる。
「……約束?」
「約束」
「破ったら、シャーペンじゃ済まないからね」
「何を折る気だよ……」
真冬は答えず、俺の胸に顔を埋めた。
ぎゅう、と強く抱きついてくる。
「充電……!」
「おい、待て、靴くらい脱げ」
「待てない」
玄関で抱きつかれ、俺は苦笑した。
学校での我慢が、全部ここで爆発する。
それが俺たちの、歪で甘いルーティンだ。
「……湊のにおい、する」
「当たり前だろ」
「学校だと、遠くて寂しい」
「……俺も」
思わず本音が漏れた。
真冬が顔を上げる。その瞳が、月みたいに揺れている。
「……本当?」
「……聞くなよ、恥ずかしい」
俺は彼女の頭を撫でて、誤魔化した。
でも、真冬は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ……」
その笑顔が見たくて、俺は毎日「他人」を演じている。
この笑顔を守るためなら、学校での距離くらい耐えられる。
そう思えるから、明日も頑張れる。
夜の冷蔵庫の光が、床に細い線を落とす。
真冬がプリンを見つけて小さく笑った。
「半分こ」
「おう」
スプーンがガラスに触れる音で、今日の緊張がほどける。
俺は弁当箱のゴムを直し、明日の図書委員の当番表を頭の中でなぞった。
また同じ時間が来る。
図書室の静けさと、彼女の指先の温度と。
その繰り返しを、俺は少しだけ楽しみにしている。
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