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第7話:朝の攻防戦


 午前六時。アラームが鳴る。

 俺はすぐに起きる。体内時計が完全にセットされているので、実のところアラームの三十秒前にはもう目が開いている。


 隣の布団を見る。

 銀色の髪が枕から溢れ、毛布から足が一本はみ出している。まふゆは横向きで丸まり、俺のTシャツの裾を掴んだまま寝ている。いつ掴んだのか知らない。寝ている間に手が勝手に伸びるらしい。


 問題は、ここからだ。


 朝凪まふゆは、重度の低血圧である。

 血圧の数値は聞いたことがないが、朝の挙動から推測すると「死んでいるのでは」と疑うレベルだ。起こすのは毎朝の戦争であり、長期化すると遅刻という敗北が待っている。


 第一作戦:声かけ。


「おい、朝だぞ」


 返事なし。

 布団の中から聞こえるのは、すぅすぅという寝息だけ。


「まふゆ。六時だ」

「…………ぅ」

「起きろ」

「……あと五分」


 出た。

 「あと五分」。朝凪まふゆ伝統の時間延長要求。この台詞は一日に平均三回発動される。三回×五分で十五分。ちなみに「五分」は体感であり、実際の五分後に起こすと「まだ三分しか経ってない」と主張する。


「五分は前に三十分前にも聞いた」

「……聞いてない。今が一回目」

「記憶を捏造するな」


 まふゆは布団を頭まで引き上げ、完全に繭状態になった。

 声かけの効果なし。


 第二作戦:肩揺すり。


 毛布越しにまふゆの肩を軽く揺する。柔らかい感触。体温が低い。低血圧のせいで末端が冷えている。


「起きろ。遅刻するぞ」

「……遅刻、しない。湊が起こしてくれるから」


 その「起こしてくれる」が今だ。


 揺すり方を少し強くする。まふゆは布団の中でもぞもぞと動き、繭をさらに固く巻いた。防御力が上がっている。


「ん……むり……あと五分……」

「二回目の五分だぞ」

「……一回目」


 カウントをリセットするな。


 第三作戦:布団剥がし。


 物理的に毛布を引き剥がす。これは最終手段に近い。まふゆの布団への執着は異常で、握力が寝起きとは思えない強さを発揮する。


 毛布の端を掴み、一気に引く。

 まふゆが布団を両手で握りしめ、引っ張り合いになった。六時十分の101号室で、布団の綱引きが発生している。


「離せ」

「……やだ……さむい」

「離さないと朝飯なし」


 まふゆの手が、一瞬だけ緩んだ。

 食が刺さった。


「嘘だろ。朝飯で動揺するなよ」


 その隙に毛布を剥ぎ取った。

 露わになったまふゆは、俺のジャージの上下を着て、胎児のように丸まっていた。目は閉じたまま。銀色の髪が顔に貼りつき、寝癖が三方向に反乱している。


「……返して」

「返さない。起きろ」

「……死ぬ」

「死なない」

「……死ぬ。布団がないと体温が維持できなくて低体温症で死ぬ」

「室温二十三度で低体温症にはならない」


 まふゆはそれでも起き上がらない。

 ここで禁じ手を使う。


 第四作戦(最終手段):朝食の匂い。


 キッチンに立ち、フライパンにバターを落とす。

 じゅわっと甘い香りが部屋に広がった。

 続けて卵を割り、ケチャップライスを炒める。おなじみのオムライスの香りが充満していく。


 三十秒後。


 寝室からバタバタと足音がした。

 続いて壁に何かがぶつかる音。ドアが開く音。スリッパのぺたぺたという音。


 まふゆがリビングに現れた。


 髪はボサボサ。目は半開き。左の靴下だけ脱げている。壁に手をつきながら、ゾンビのように進んでくる。


「……においがした」

「オムライスだ」

「……食べる」

「食べるなら起きろ。顔洗って、着替えてからだ」

「…………」


 まふゆは五秒間立ち尽くし、それから踵を返して洗面所に向かった。匂いには逆らえない。嗅覚が生存本能に直結している。


 顔を洗って戻ってきたまふゆは、まだ七割寝ている顔をしていた。テーブルに座り、スプーンを握る。動作が全体的に緩慢だ。


「いただきます」

「……ぃただきまふ」


 発音がおかしい。舌が回っていない。


 オムライスを三口食べたところで、まふゆの目にようやく光が戻ってきた。

 覚醒。食事が充電の役割を果たしている。胃にものが入ると血圧が上がるのだろう。


「……おいしい」

「毎日同じもの食って毎日おいしいって言うな」

「……おいしいから言う」


 食後。着替えの時間。


 これが、朝の最大の山場だ。


「……着替え」

「俺は目を閉じてるから、自分でやれ」

「……ボタン、わかんない」


 まふゆが制服のブラウスを両手で持ち、首を傾げている。ボタンの位置を毎朝忘れる女。


「下から三番目からだ。順番に上に——」

「……目、閉じて」

「閉じてる」


 衣擦れの音が聞こえる。布が肌を滑る微かな摩擦音。

 目を閉じていても、音だけで状況が把握できてしまう。ブラウスに腕を通した。ボタンを一つ留めた。スカートのファスナーを上げた。


「……湊。ボタン、ずれた」


 知ってた。音の間隔がおかしかったから。


「どこがずれてる」

「……わかんない」

「だから自分で——」

「……直して」


 目を閉じたまま、手を伸ばす。

 指先がブラウスの生地に触れた。ボタンの位置を確認する。一つずつ。触覚だけで。

 三番目と四番目がずれていた。外して、正しい穴に通し直す。


 指先が、まふゆの鎖骨の近くをかすめた。


 ——心臓がうるさくなった。目を閉じているせいで、触覚が鋭敏になっている。布の下の体温が、指先から直接脳に伝わってくる。


「……はい。直した。目は閉じてる」

「……ん。ありがと」


 まふゆの声が近い。至近距離。吐息が指にかかるほど。


「リボンは自分で結べ」

「……結べる」


 しゃらん、とリボンが結ばれる音。


「……できた。見て」

「見ていいのか」

「……ん」


 目を開けた。


 まふゆが目の前に立っていた。

 制服を着た「朝凪まふゆ」。ブラウスのボタンは正しく留まり、リボンもまっすぐに結ばれている。スカートの丈も規定通り。


 ——ただし、寝癖がまだ二方向に跳ねている。


「髪」

「……ブラシ取って」


 ブラシを渡す。まふゆは鏡の前で銀色の髪を梳かし始めた。

 丁寧に、一筋ずつ。さっきまでのゾンビが嘘みたいな几帳面さ。

 髪を整えるまふゆの横顔は——玄関を出る前の最後の慣らし運転だ。「まふゆ」が少しずつ消えて、「朝凪まふゆ」が表に出てくる。


「……行く」

「時間は?」

「……ぎりぎり」

「走るか」

「……走る。湊も走る」


 靴を履き、ドアを開け、アパートの階段を駆け下りる。

 まふゆは走るのも速い。運動神経は高い。やる気がないだけで。


 通学路を全力ダッシュ。朝の空気が冷たくて、肺が痛い。並走するまふゆの銀色の髪が風になびく。二人で走る靴音がアスファルトに響く。


 校門が見えた。


 まふゆの足が、ふっと緩んだ。

 走る速度が落ちる。ゆっくりになる。歩幅が小さくなる。


 そして——校門の三十メートル手前で、切り替わった。


 背筋が伸びる。表情が消える。瞳から光が引き、息切れの痕跡すら消してみせた。

 さっきまで全力で走っていた女が、悠然と歩いている。汗一つかいていない風を装って。


 氷の女王、起動完了。


「……行ってきます」


 声が一オクターブ下がる。教室仕様の、感情のない声。

 校門をくぐる瞬間、すれ違った後輩が道を譲った。


 俺は校門の外で足を止め、五秒数えてから歩き出した。

 いつも通り。別々に。距離を取って。


 教室に入ると、翔太が机に突っ伏していた。


「おっせー。もう始業ギリだぞ」

「ちょっと走った」

「お前、朝から体力あるな」

「そうでもない」


 席に座る。

 二列後ろ、窓側。まふゆの席。

 あいつはもう座っていた。背筋がまっすぐに伸び、教科書を開いている。微動だにしない。

 十五分前に「ボタンがずれた」と言っていた人間と同一人物。


 翔太が弁当箱をガサガサと机にしまいながら、ぽつりと言った。


「なあ湊」

「ん」

「お前、朝から走ったっての、まさか遅刻ギリギリだったの?」

「……そうだな」

「珍しいじゃん。いっつも余裕で来るのに。何かあった?」


 あった。布団の綱引き、ボタンの付け直し、目を閉じた着替え介助。全部あった。

 全部言えるわけがない。


「寝坊した」

「お前が? 珍しすぎだろ」


 翔太は「まあいいけど」と笑って前を向いた。


 一限目が始まる。

 桜井先生がチョークを手に取り、黒板に式を書き始めた。


 俺はノートを開きながら、今朝のことを思い返す。


 毎朝、同じことの繰り返し。

 「あと五分」を三回聞いて、布団を剥がして、匂いで釣って、ボタンを直して、髪を見送って、全力で走って。


 面倒くさい。本当に面倒くさい。

 でも、あの朝の三十分がないと——一日が始まらない気がする。


 まふゆが起きて、「おいしい」と言って、「ボタン直して」と甘えて、校門の前で氷になる。

 そのルーティンが、俺の朝になっている。


 面倒くさくて、大変で、毎日時間と体力を消耗する。

 でも——


 後ろの席から、微かにシャンプーの匂いが漂ってきた。

 今朝ブラシで梳かした銀色の髪。その残り香が、教室の空気に混じっている。


 ——まあ、悪くない。


 明日もたぶん、あいつは「あと五分」と言う。

 布団を引っ張り合って、ボタンをずらして、走って、校門で氷になる。


 そのために俺は、六時のアラームより三十秒早く目を覚ます。


 俺にしかできない仕事だ。

 まふゆの朝を動かすのは——世界で俺だけだ。

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