第6話:氷の女王と、透明な距離
私立・成和高校。
進学校として知られるこの学校には、一つの伝説がある。
新一年生の教室に君臨する「氷の女王」――朝凪真冬の存在だ。
朝、アパートの階段を降りる時。
俺はいつも、その瞬間を見届ける。
真冬が一段目に足をかけると、何かが変わる。
まず、背筋が伸びる。猫背気味だった姿勢が、一本の糸で吊られたように垂直になる。
次に、表情が消える。
さっきまで俺に「いってらっしゃい」と甘えていた口元から、すべての感情が抜け落ちる。
そして——瞳から、光が消えた。
ゾクリ、と背筋が寒くなる。
同じ人間とは思えない。
朝の柔らかい陽光の中で、彼女の周りだけ空気の温度が二度下がったような錯覚。
纏う空気が、冷たく、鋭く、拒絶の色を帯びていく。
「氷の女王」の誕生だ。
俺は畏怖すら覚えながら、その背中を見送った。
あの変貌を、真冬は毎日繰り返している。
自分を守るために。壊れないために。
その仮面の重さを、俺だけが知っている。
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始業のチャイムが鳴り響く教室。
その扉が開かれた瞬間、喧騒がふっと静まり返った。
現れたのは、銀色の髪をなびかせた一人の少女。
完璧に着こなした制服。透き通るような白磁の肌。周囲を拒絶するかのような冷徹な瞳。
彼女が歩くだけで、モーゼが海を割るように生徒たちが道を開ける。
会話がピタリと止まったわけではない。
それより、もっと不気味だ。
全員の意識が彼女に向いているのに、誰も直視しない。
目を逸らす。手元を見る。窓の外を見るふりをする。
まるで、直接見たら石にされてしまうかのように。
——いや、違う。
石になるんじゃない。凍るんだ。
彼女の視線が触れるだけで、空気が凍りつく。
呑った洲が嗉に貼りつく。
学校一の美少女は、同時に学校一の「孤立」でもある。
誰も近づけない。近づきたくない。
美しさと畏れが表裏一体になった、完璧な結界。
それが、教室の入口から席までの数メートルを、絶対に侵されない聖域に変えている。
「……おはよう、朝凪さん」
勇気ある男子が声をかける。
真冬は足を止めなかった。
視線すら向けない。まるでそこに誰もいないかのように、男子の存在を透過して、席へ向かう。
空気だ。彼女にとって、話しかけてきた男子は空気でしかない。
「あ、朝凪さん、今日の数学のノート……」
別の男子が、プリントを持って近づこうとする。
真冬は一瞬だけ、その男子を見た。
——ただ、それだけだった。
言葉はない。表情の変化もない。ただ、氷点下の瞳が男子の顔をかすめただけ。
なのに、男子は足が止まった。差し出しかけたプリントが、宙で固まる。
「見た」のではない。「認識した」のでもない。「存在を確認して、不要と判断した」。その一連の処理を、一秒以下で完了させた目だった。
「……す、すみません」
謝罪の言葉が、男子の口から零れる。
何も悪いことをしていないのに、謝っている。そうさせるだけの圧が、彼女にはある。
真冬は何も言わず、軽く会釈をしただけで席へ向かった。
つれない。だが、それがいい。
男子たちは「朝凪様に見下ろされた……!」と奇妙な感動を覚えている。
調教されすぎだ、お前ら。
その緊張感の中で、俺だけが違う感情を抱いている。
優越感だ。
お前ら、あいつの本当の顔を知らないだろ。
さっきまで俺の腕にしがみついて「離れたくない」って言ってたんだぞ。
俺の作った朝食を「美味しい」って笑顔で食べてたんだぞ。
この教室で、それを知っているのは俺だけだ。
その事実が、どうしようもなく嬉しい。
そんな光景を、俺は、窓際の後ろから二番目の席で眺めていた。
背中のすぐ後ろが彼女の席だ。偶然にしては出来すぎた配置に、胸がざわつく。
俺はいわゆる「モブA」だ。
成績は中の中。運動神経も普通。顔立ちも十人並み。
クラスカーストでは上位にも下位にも属さない、一番波風の立たない「その他大勢」のポジション。
それが俺の生存戦略だ。
ほどなくして桜井先生が入ってきた。
眠そうに出席を取り、淡々と名前を呼んでいく。
「……朝凪」
「……はい」
真冬の声は、聞こえるか聞こえないかの境界に落ちる。
教室の空気が一瞬止まり、また動き出す。
俺はその微かな揺れに、家での「まふゆ」を思い出しかけて、慌てて視線を落とした。
その時、廊下で何か騒ぎが聞こえた。
上級生らしき男子の声と、女子の悲鳴。
桜井先生の目が、一瞬で変わった。
「……ちっ」
舌打ち一つ。
そして、廊下へ飛び出していった。
俺たちは教室から覗き見た。
廊下の角で、上級生が後輩らしき男子の胸ぐらを搔んでいる。
桜井先生がその間に割って入った。
何か低い声で言っている。
聞こえないが——上級生の顔が、みるみる青ざめていく。
数秒後、上級生たちは逃げるように去っていった。
桜井先生は何事もなかったように教室に戻り、欠伸をした。
「はい、じゃあ一限始めるよー」
何があったのか、誰も聞けなかった。
ただ、翔太が小声で言った。
「……やっぱ噂、本当なのかな」
「何の」
「桜井先生、昔はヤバかったって。睢むだけで不良が土下座するとか」
俺は桜井先生を見た。
いつも通り、眠そうな顔。
でも、さっきの目を思い出すと——ちょっとだけ、怖い。
——あの先生ですら、近づけない。
そんな「聖域」を、家ではスライムみたいに溶けてる奴が作ってる。
この学校の猛獣でさえ近づけない「氷の女王」が、俺の部屋では「まふーおなかすいたー」と甘えている。
その落差が、おかしいくらい嫁しい。
だが、俺だけは知っている。
そのスカートの下のダサいジャージも、ピーマンを水で流し込む情けない顔も。
その優越感が、おかしいくらい嬉しい。 ——ドロリとしたものが、胸の奥で蛇のようにとぐろを巻く。
「自分だけが知っている」という快感。「自分だけが触れられる」という全能感。
これは健全な感情なのか? きっと違う。でも、止まらない。
「おい夏目、何ニヤニヤしてんだ?」
肩を叩かれた。
隣の席の伊集院翔太だ。金髪を軽く立たせたチャラい見た目だが、意外と空気が読める。
「……別に。古典の予習してねえなって思って絶望してた」
「嘘つけ。なんかいいことあっただろ」
「ねえよ。俺みたいなモブに」
翔太は「だよなー」と軽く笑い、机に突っ伏した。
こいつはたぶん、俺が何か隠していることに気づいている。それでも深掘りせずに距離を置いてくれる。そういう面倒見の良さがある。
だが、突っ伏す前に一瞬だけ、翔太の視線が俺の後ろ——真冬の席を掛すめた。
その目には、明らかな警戒色があった。
「触れたらマズい」。そういう種類の勘。
——気づいているのか、こいつ。俺とあいつの間に何かあると。
だが、言葉にはしない。翔太はそういう奴だ。「触れたらマズい」領域には踏み込まない。
一限目が始まった。
桜井先生のチョークがキィと鳴り、教室を満たす声が流れる。
俺は背後の気配を意識しながら、ノートを開いた。
その時だった。
背中に、微かな感触。
指先が、シャツ越しに触れている。
振り向けない。振り向いたらバレる。
だが、その指は俺の背中をゆっくりと這っていた。
す。
最初の一文字を描いた瞬間、血が一気に頭に上った。
まさか、と思った。
今、誰かが振り向いたら終わりだ。教卓の列が密集している。隣の席からなら、見える距離。
き。
二文字目。
耳まで熱くなるのが分かる。
俺はペンを持つ手が震えるのを必死で抑えた。
背中に書かれた二文字が、焼印のように残る。
振り向けない。
声も出せない。
ただ、耳だけが真っ赤になっていく。
桜井先生は何も気づかず、黒板に数式を書き続けている。
俺の背中では、真冬の指がそっと離れた。
それきり、何もない。
まるで何事もなかったかのように、彼女は授業を受けている。
——でも、俺は見た。
指を離す直前、真冬の唇がかすかに動いたのを。
誰も見ていない瞬間、「氷の女王」の仮面がほんの一ミリだけ剥がれた。
その一ミリを、俺だけが見た。
胸の奥で、あのドロリとした感覚がまた甘く痙攣する。
……反則だろ、それは。
俺は熱を帯びた耳を隠すように、頬杖をついた。
振り向いてはいけない。
声をかけてはいけない。
半径一メートル以内接近禁止。会話禁止。視線禁止。
それが俺たちの「学校ルール」だ。
休み時間の廊下ですれ違う時、俺は無意識に肩をすくめる。
真冬は誰にも見えない角度で小さく首を傾け、俺だけが気づくほどの微かな笑みを作る。
それが「平気だよ」の合図。
心臓がうるさくなるのを、俺は教科書で隠した。
二限目の途中、真冬がそっとハンカチを落とした。
俺の足元に、ふわりと白い布が舞い降りる。
「あ、朝凪さん、ハンカチ落ち——」
真冬の隣の席の男子が気づいて、手を伸ばそうとした。
心臓が跳ねる。
「俺が拾う」
咄嗟に、俺は先に手を伸ばした。
男子の手が空を掴む。
「お、サンキュー夏目」
「……いや、足元だったから」
何でもない風を装って、ハンカチを机の端に置く。
背中に冷や汗が流れた。
危なかった。
あいつが拾っていたら、真冬に手渡す流れになっていた。
その時、真冬がどんな反応をするか——想像するだけで胃が痛い。
ハンカチからは、微かにシャンプーの匂いがする。
家と同じ匂い。それだけで、胸の奥が熱くなる。
昼休みが近づくと、教室の空気がざわつき始めた。
俺は視線を落とし、机の中の弁当箱を確認する。
二つ分の弁当箱を留めたゴムの感触が指に残る。量が多いのは真冬の食欲のせいだ。
見られたら面倒なので、奥へそっと押し込んだ。
背後から、かすかな布擦れの音が聞こえた。
真冬が立ち上がる気配だ。
それだけで心拍数が上がるのだから、俺も大概だ。
教室を出る時、俺は人の流れに紛れて歩いた。
彼女と同じ方向に行っていることを悟られないように。
距離は一メートル以上。視線は前。
学校の中で「他人」を演じるほど、家での距離が甘く感じられる。
その落差が、俺たちの関係を歪に強くしていく。
たぶん、この感覚は良くない。
でも、手放す勇気がない。
俺たちは他人だ。
学校では、住む世界が違う。
関われば、絶対に面倒なことになる。
だから、この秘密だけは死守しなければならない。
それでも。
教科書の端に、無意識に真冬の名前を書きそうになる。
慌てて消しゴムで消し、代わりに単語を書き写す。
その一つ一つが、俺の自制の証だ。
窓の外では、春の風が校庭の砂を巻き上げていた。
チョークの音と、生徒たちの囁き声。
その中で、俺は背中越しの気配だけを感じている。
振り向けない。
けれど、そこにいることだけは分かる。
それが今は、十分だった。
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