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第6話:匂い検閲・完全版


 事件は、体育の授業で起きた。


 五限目。合同体育。種目はバレーボール。

 男女混合でコートを分け、チーム戦をやる。俺はなるべく目立たないポジションでボールを繋ぐ作業に徹していたが、問題はそこじゃない。


 問題は、ペアストレッチだ。


 準備運動のペアストレッチで、俺は隣にいた女子とペアを組むことになった。名前は篠原さん。別のクラスの、普通の女子だ。特に印象もなければ、話したこともない。たまたま近くにいただけ。


 背中合わせで腕を伸ばす。前屈のサポートで肩を押す。ほんの数分の、何の変哲もないストレッチ。


 だが、問題はその「数分」で発生する。


 篠原さんの柔軟剤の匂いが、俺の体操着に移った。

 フローラル系。甘い。たぶん普通の市販品だ。

 鼻を近づけなきゃ分からない程度の——本当に微量の匂い移り。


 普通なら、誰も気にしない。

 普通なら。


 帰宅。

 101号室の鍵を回す。ドアを開ける。


「——おかえり」


 まふゆが玄関に待機していた。ジャージ姿、髪はハーフアップ、足は裸足。いつものお出迎え体勢。


 検閲開始。

 まふゆが胸元に顔を埋め、スンスンと匂いを嗅ぎ始めた。

 いつも通り。毎日のルーティン。何も変わらない——はずだった。


 スンスン。


 スン。


 ……。


 まふゆの動きが止まった。


 鼻先が俺の胸元から首筋に移動した。そこからさらに肩に移り、二の腕へ。嗅覚のレーダーが体操着に残った微かな異物を探知している。

 犬以上の精度。いや、空港の探知犬でもここまでやらない。


「……知らない匂いがする」


 声が、低い。

 普段の「おかえり」のトーンとは別の周波数。


「体育でペアストレッチしただけだ」

「……誰と」


 まふゆが顔を上げた。

 紫の瞳に、ハイライトがない。


「篠原さん。別のクラスの子で、たまたま近くにいただけ」

「……女の子」

「……女の子だ」


 沈黙。

 まふゆの視線が俺の肩に固定されている。匂いの出所を正確に特定しているらしい。


「……何の匂い」

「柔軟剤だろ。ストレッチで肩に触れただけだ」

「……触れた」

「ペアストレッチだから——」

「肩に」

「肩に」

「……どっちの手で」

「知らねえよ」


 尋問が細かすぎる。警察でもここまで聞かない。


 まふゆは三秒間黙った。

 それから、静かに宣告した。


「……消毒」

「いつも通り——」

「……完全版」


 完全版。初めて聞く単語だ。通常の検閲は胸元に顔を埋めて匂いチェック→上書きハグで終了する。完全版とは何だ。


 まふゆが俺の手を掴んだ。

 その手が、リビングではなく洗面所の方向に引っ張っていく。


「おい、どこに——」

「……着替えて」


 洗面所の前で立ち止まったまふゆが、俺の体操着の裾を掴んだ。


「この服、洗濯する。今すぐ」

「帰って五分も経ってないぞ」

「……知らない匂いが、ついてる。全部落とす」


 有無を言わさぬ圧。目のハイライトが戻っていない。


「……分かった。着替える。だからお前は出ろ」

「……出ない」

「出ろ」

「……目、つぶってるから」


 目をつぶっている保証がどこにある。


「出ろ」

「…………」


 五秒睨み合った後、まふゆは渋々ドアの外に出た。

 ただし、ドアのすぐ向こうに気配がある。一ミリも離れていない。


 着替えを済ませ、体操着を手渡す。

 まふゆはそれを受け取ると、両手で抱えて匂いを嗅いだ。


 ——体操着を嗅ぐな。


「……うん。ここ。肩。左側」


 特定が正確すぎる。


 まふゆは体操着を洗濯機にぶち込み、洗剤を入れ——入れすぎた。ボタンの並びを睨んだまま固まっている。


「おい、それ三倍くらい入れてるぞ」

「……完全にする」

「洗剤の量と清潔さは比例しない」

「……する」


 諦めて俺がスタートを押した。洗濯機が回り始める。

 ごうんごうんと音を立てる洗濯機を、まふゆは腕を組んで見守っている。刑事が取調室のマジックミラー越しに容疑者を監視する目つきだ。


「……三十分で終わる」

「終わったらどうするんだ」

「……もう一回回す」

「二回回すのか」

「……完全版だから」


 完全版、恐ろしい子。


 洗濯機を監視するまふゆを残し、俺はリビングに移動して夕飯の支度を始めた。

 フライパンにバターを溶かしながら、溜息をつく。


 ストレッチでペアを組んだだけ。三分くらいの、本当に何でもない接触。それが、帰宅後にここまでの大事件になる。


 ——重い、と思う。

 正直に言えば、この独占欲はちょっと引くレベルだ。

 消しゴムを貸してシャーペンを折り、ストレッチで肩が触れて洗濯機を二回回す。客観的に見れば、異常だ。


 でも。

 不思議と、嫌じゃない。


 嫌じゃない自分の方が、たぶんおかしい。


 洗濯機のブザーが鳴った。

 「もう一回」と小声がして、洗剤を足す音が聞こえる。俺が再びボタンを押す。ウルトラ柔軟剤投入。泡立ちが見えなくなるまで回す覚悟だろう。


 夕飯のオムライスが出来上がった。

 テーブルに並べると、まふゆが洗濯機から離れてやってきた。まだ不機嫌だ。座る位置がいつもより五センチ近い。


「いただきます」

「……いただきます」


 まふゆがスプーンでオムライスを突いた。突き方が荒い。


「……篠原さん」

「ん?」

「……可愛い?」

「知らない。別のクラスだし、話したこともない」

「……そう」


 スプーンが止まった。


「……湊は、知らない女の子にも消しゴム貸すし、ストレッチもするし」

「消しゴムは佐藤さんだろ。篠原さんは体育のペアだ。混ぜるな」

「……どっちも女」


 まふゆの目が細くなった。

 ケチャップの顔が描かれたオムライスを見つめたまま、小さく呟いた。


「……湊の匂いに、知らない匂いが混ざるの、やだ」


 声が、少しだけ震えていた。

 怒りなのか、不安なのか。たぶん、両方だ。


「……まふの匂いだけにして」


 その一言で、俺の中の何かが静かに折れた。

 反論する気力が消えた。


「……分かった。ストレッチの時は、なるべく男子とペア組むようにする」

「……なるべく、じゃなくて、絶対」

「善処する」

「……確約」


 また善処と確約の攻防だ。


「……確約」

「……はいはい」


 まふゆの唇が、ほんの少しだけ緩んだ。


 夕飯を食べ終え、食器を洗う。

 洗濯機の二回目が終了した。まふゆが体操着を取り出し、鼻を近づける。


「……ん。湊の匂いしかしない。合格」


 合格が出た。二回洗いの甲斐があったらしい。


 体操着をハンガーにかけようとしたまふゆが、ふと手を止めた。


「……湊」

「ん」

「……上書き、してない」


 上書き。

 洗濯で匂いを落としただけでは不十分らしい。ここからさらに、自分の匂いで「塗り替え」る作業が必要とのことだ。


 まふゆが俺の正面に立った。

 両手を広げる。


「……上書き。する」

「……どうぞ」


 まふゆが抱きついてきた。

 顔を首筋に埋め、頬を擦り付ける。銀色の髪がくすぐったい。甘いシャンプーの匂いが鼻腔を満たす。


「……ここは、合格。湊の匂い」


 首筋クリア。


 次に、まふゆの頬が俺の肩に移動した。

 右肩、左肩。丁寧に擦り付けていく。


「……ここも消毒」

「人間の匂いってそんな簡単に移らないと思うぞ」

「……移る。まふの鼻は嘘つかない」


 まふゆの鼻は性能が高すぎる。


 肩が終わった。

 次に、まふゆの手が俺の腕を掴んだ。


「……ここ。左腕。篠原さんが触ったとこ」

「だから肩だって——」

「……腕も念のため」


 まふゆが俺の左腕に自分の額を押し付けた。

 ぐりぐりと擦り付ける。額から頬。頬から顎。顎から——


「おい。くすぐったい」

「……我慢」


 我慢しろと言われても、首筋に吐息がかかると鳥肌が立つ。

 心臓が騒いでいる。やめろ。平常運転を保て。


「……ん。これで上書き完了」


 まふゆが離れた。

 離れた後の自分の体に残る、まふゆの匂い。シャンプーと、微かにチョコパイの甘さが混じった匂い。


「……これで、全部まふの匂い。合格」


 まふゆは満足そうに頷いた。

 ハイライト、完全復活。やっと「いつものまふゆ」に戻った。


 ソファに座ると、まふゆが横にぺたりとくっついた。肩に頭を預ける。膝の上に足を乗せる。面積を最大限に使って密着している。


 しばらく無言でテレビを見ていた。


 まふゆのスマホが振動した。

 画面を見たまふゆが、小さく言った。


「……翔太くんからLINE。湊に」


 俺のスマホを確認した。翔太からだ。


『今日の体育のペアストレッチさ。朝凪さんの視線感じたんだけど俺のせい? つか俺関係ある?』


 ——こいつ。


 翔太、お前は悪くない。だがお前の野生の勘は正しい。まふゆは体育館のギャラリーからストレッチの様子を見ていたかもしれない。いや、確実に見ていた。匂いの出所と位置を特定していた精度がそれを証明している。


『気のせいだろ』


 短く返した。

 翔太からすぐに返信が来た。


『だよな! 気のせいだわ! ところで明日からあげ弁当に飽きたわ。お前の弁当一口くれよ』


『断る』


 スマホを伏せる。


 まふゆが俺の肩に頬を擦り付けながら、画面を横目で見ていた。


「……翔太くん、からあげ弁当飽きたって」

「見るな」

「……湊の弁当あげちゃだめ」

「あげない」

「……約束」

「約束」


 まふゆの指が、俺の袖を掴んだ。

 その力は弱い。でも、絶対に放さない強さがある。


「……湊の匂いは、まふのもの」


 独占宣言。

 返す言葉もない。


 夜。充電の時間。

 まふゆは俺の胸に額を預けて、目を閉じた。


「……今日は、長めにして」

「何分」

「……満タンになるまで」

「……五分な」

「……七分」

「五分」

「……六分」

「……六分」


 まふゆの呼吸が穏やかになっていく。手のひらが俺のシャツを握っている。

 六分。いつもの倍。

 今日は匂い事件があったからか。バッテリーの消耗が激しかったのか。


 六分後、時計を確認する。


 まふゆは——もう寝ていた。


 握られたシャツを指で一本ずつ外す。

 最後の一本を外した瞬間、まふゆが寝ぼけて手を伸ばし、俺の小指を掴んだ。


「…………ん」


 反射的に握り返してしまった。

 まふゆの口元が、微かに緩んだ。


 ——もう離せないじゃないか。


 小指を繋いだまま、天井を見上げる。

 明日は体育がない。平和な一日になるだろう。

 チョコパイの在庫は……あと四個。三日は持つ。


 まふゆの寝言が聞こえた。


「……ごうかく……」


 何の合格だ。夢の中でも検閲しているのか。


 この匂い検閲官は、明日もきっと俺の帰りを待っている。

 鼻を鳴らして、匂いを嗅いで、「合格」と言うために。


 それが——少しだけ、楽しみな自分がいる。

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