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第5話:ピーマンと、おでこぽん


 ——あの日、雫に呼び止められてから三日が経った。


 「たまたま同じ時間になっただけです」と答えた俺を、雫は無言で見つめていた。

 数秒の沈黙の後、彼女は「そうか」とだけ言って去っていった。

 追及はされなかった。でも、あの冷たい視線が、まだ背中に張りついている気がする。


 その夜、まふゆに話すべきか迷った。

 結局、話した。隠し事はしない——それが俺たちのルールだから。

 まふゆは俯いて、「……ごめん」と呟いた。

 「お前が悪いんじゃない」と返したが、彼女の表情は暗いままだった。


 翌日から、登校時間を五分ずらした。

 俺が先に出て、まふゆは後から。

 同じ時間に校門をくぐることは、もうない。


 三日経って、何も起きなかった。

 雫からの追及も、噂話も、先生からの呼び出しも。

 たぶん、本当に「たまたま」だと思われたのだろう。

 ——そう信じたい。


 だから今朝は、少しだけ肩の力が抜けていた。


 ---


 洗面所での身支度を終え、ようやく我々に平穏なひとときが訪れる。

 朝食の時間だ。

 時計の針は七時十五分を回っている。

 俺はエプロン姿でキッチンに立ち、手際よくフライパンを振るう。

 ジューッという音と共に、ベーコンの縁がカリカリに焦げていく香ばしい匂いが立ち上る。

 それを皿に移し、半熟の目玉焼きを添える。

 味噌汁は豆腐とワカメ。ご飯は炊きたてのコシヒカリだ。

 完璧な日本の朝ごはんだ。


「ごはーん」


 リビングのテーブルで、まふゆが箸を両手に持って待機している。

 制服に着替えた彼女は、さっきまでの「溶けたスライム」状態が嘘のようにシャキッとしている――ように見えるが、目はまだ死んでいる。

 低血圧の彼女にとって、午前中は活動限界ギリギリの時間帯なのだ。

 放っておくと、箸を持ったまま二度寝しかねない。


「はい、おまたせ」

「……ん。いただきます」

「いただきます」


 向かい合って手を合わせる。

 カチャリカチャリと、食器が触れ合う音が響く。

 まふゆは目玉焼きの黄身を箸先でつつき、とろりと溢れ出した黄金色の液体を不思議そうに眺めている。

 そして不意に、スンスンと鼻を鳴らした。


「……湊」

「ん? 醤油ならそこにあるぞ」

「違う。……なんか、いい匂いする」

「そりゃベーコン焼いたからな。燻製の香りだろ」

「ううん。湊の匂い」


 彼女は唐突に席を立つと、スタスタと俺の隣に歩み寄ってきた。

 そして、俺の首筋に顔を近づける。

 冷たい鼻先が、肌に触れる。


「……お揃い」

「今のシャンプー、お前にも使わせたからな」

「ん。……安心する」


 まふゆは満足げに頷いて、席に戻った。

 どうやら彼女にとって「匂い」は、視覚情報以上に重要な意味を持つらしい。

 俺が自分のテリトリー(この部屋)の主であり、彼女もまたその一部であるという確認。

 あるいは、自分が安全な場所にいるという本能的な安堵感。

 マーキングされた猫のようなものだ。


「……で、なんでこっちを見てるんだ」

「……」


 まふゆの箸が止まっている。

 彼女の視線の先にあるのは、付け合わせの彩りとして添えた緑色の野菜ソテーだ。

 ピーマンである。

 鮮やかな緑色が、食卓に彩りを添えているはずなのだが、彼女にとっては猛毒に見えるらしい。


「……苦い」

「食え。栄養だ」

「毒」

「ビタミンCとカロテンの塊だ」

「……まふ、5歳だもん。ピーマンは法律で禁止されてる」


 悪びれもせずに言い切る美少女。

 この日から、彼女の自称年齢は都合の悪い時だけ5歳まで退行することになった。

 ——それが「逃げ」だと、俺は分かっている。

 大人になりたくない。大人になったら、おままごとは終わる。

 だから彼女は、子供のままでいようとする。

 分かっている——分かっていて、俺はそれを許している。

 「5歳」のまふゆなら、俺が必要だから。

 彼女が大人になったら、俺は必要なくなる。

 ——それを恐れているのは、彼女だけか?

 そんな考えが頭をよぎり、俺は慌てて振り払った。


 俺はため息をつき、自分の皿からカリカリに焼けたベーコンを一枚摘み上げた。

 脂が乗って、最高に美味しそうだ。


「……交換条件だ。これをやるから、ピーマンを食え」

「……む」


 まふゆの瞳が揺らぐ。

 彼女はベーコンが大好物だ。

 しばらくの葛藤の末、欲望が勝利した。

 彼女は決死の覚悟で箸を伸ばした。

 小さな口で、ピーマンをひとかけら齧る。

 途端に、顔が梅干しのようにシワくちゃになった。


「……まずい」

「はい、よくできました」

「……水。水ちょーだい」


 涙目で水を煽る彼女を見て、俺は思わず吹き出した。

 学校ではクールビューティーで通っている彼女が、ピーマンひとつでこの様だ。

 このギャップを知っているのが世界で俺一人だと思うと、奇妙な優越感が胸を満たす。


「……湊、ひどい」

「俺は何もしてねえよ」

「笑った。傷ついた」

「大げさな」

「……慰謝料」

「はあ?」


 まふゆが椅子から立ち上がり、俺の方へやってきた。

 そして当然のように、俺の膝の上に座ってきた。


「おい、ちょっと待て」

「……慰謝料。これで許してあげる」


 彼女は俺の胸に背中を預け、くつろぎ始めた。

 朝食の時間だぞ。食卓でそれはマナー違反だろ。

 ……いや、二人暮らしにマナーもへったくれもないか。


「……重い」

「女の子に重いって言わない」

「言ってないだろ」

「言った。今、心の中で」

「エスパーか」


 文句を言いつつも、俺は彼女を膝から下ろさなかった。

 温かい。

 石鹸の匂いがする。

 朝日が銀髪を照らし、キラキラと輝いている。

 こういう時間が、俺は嫌いじゃない。


 ——でも、ふと思う。

 こんな生活がずっと続くわけがない。

 いずれ彼女は自立して、俺の手を離れる。

 そうあるべきだし、俺もそれを望んでいる。

 ……はずなのに、なぜだろう。

 「その時」を想像すると、胸の奥がざわつく。


「……湊」

「ん?」

「……ピーマン、もう一個食べたら、何かくれる?」


 上目遣いで見上げてくる。

 ずるい。その顔は反則だ。


「……何が欲しいんだよ」

「……おでこ」

「は?」

「……おでこ、ぽん、して」


 意味が分からない。

 いや、分かるけど。

 おでこを軽く叩くやつだ。昔よくやったやつだ。

 「よくできました」の代わりに、おでこをぽんと叩く。

 懐かしい。おままごとの頃の、俺たちの習慣だ。


「……お前、そんなの覚えてたのか」

「……覚えてる。全部」


 まふゆは少しだけ頬を染めて、俯いた。

 十年前の記憶を、この子はずっと大事に抱えてきたんだ。

 そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「……わかったよ。ピーマン食べたら、やってやる」


 まふゆは嬉しそうに頷き、再び席に戻った。

 そして、顔を歪めながらも、ピーマンを一切れ口に入れた。

 必死に噛んで、水で流し込む。


「……た、食べた」

「はい、よくできました」


 俺はまふゆのおでこに、人差し指と中指を軽く当てた。

 ぽん、と。

 それだけの動作。

 なのに、まふゆの顔がぱあっと輝いた。


「……えへへ」


 幸せそうな笑顔。

 こんな小さなことで、こんなに喜ぶのか。

 俺の方が、もらったものが大きい気がした。


 ——だが、次の瞬間。

 まふゆの表情が、ふっと曇った。


「……湊」

「ん?」

「……これ、いつまで続くの」


 その声は、さっきまでの甘えとは違った。

 静かで、どこか不安を滲ませている。


「いつまでって……何が?」

「これ。おままごと」


 俺は手を止めた。

 まふゆは俯き、自分の指先を見つめている。


「……大人になったら、終わるでしょ」

「……何言ってんだ」

「だって、おままごとは子供の遊びだから。大人になったら、やめなきゃいけない」


 まふゆの声が、少しだけ震えている。


「湊は大学に行って、就職して、大人になって——そしたら、こんなこと、しなくなる」


 その言葉に、胸が痛んだ。


「終わらない」


 気づいたら、俺は言っていた。


 俺はまふゆの前にしゃがみ込み、目を合わせた。

 彼女の瞳が濡れている。


「俺たちのおままごとは、お前が終わりにしたくなるまで、終わらない」

「……でも」

「でも、じゃない。約束した」

「……十年前の?」

「十年前も、今も、これからも」


 まふゆの唇が震えた。

 泣きそうな顔で、でも必死に堪えている。


「……湊、ずるい。そんなこと言われたら——信じたくなる」

「信じろ。俺は嘘つかない」


 まふゆは俺の胸に顔を埋めた。

 肩が小さく震えている。

 俺はその背中を、何度も撫でた。


「……っ、ずるい……」


 繰り返しながら、彼女は俺にしがみついた。

 強く、強く。

 その力に、彼女の恐怖が伝わってくる。


 俺だって同じだ。

 お前に必要とされなくなったら——その先を、想像したくない。


 まふゆは小さく笑って、俺の胸から顔を離した。


 ---


 食器を下げると、真冬は俺の背中に回り込んできた。

 首筋にひんやりとした鼻先が触れ、スンスンと小さな音がする。

 それが「検閲」だ。

 昨日の匂いが残っていないか。誰かの気配が混じっていないか。彼女なりの安全確認。

 そして、納得がいったら「上書き」。両腕でぎゅっと抱きついて、自分の匂いを塗り直す。


「……合格」

「はいはい。これで安心か?」

「ん。これで学校でも生きていける」


 冗談みたいな言葉だけど、真冬にとっては本気だ。

 俺もまた、彼女の小さな儀式に救われている気がして、文句を言えなくなる。


 ---


 朝食を終え、俺たちは並んで家を出た。

 春の朝陽が降り注ぐ通学路。

 アパートの階段を降りたところで、まふゆが立ち止まる。

 そして、スゥッと背筋を伸ばした。

 その瞬間、空気が変わる。

 少し気だるげだった瞳に、冷ややかな光が宿る。

 口元から笑みが消え、陶器のような無表情が張り付く。


 ――「朝凪真冬」への変身完了だ。


「……行くぞ、朝凪さん」

「……ええ。行きましょう、夏目くん」


 他人行儀な呼び名。

 ここから先、学校という戦場では、俺たちは「ただのクラスメイト」だ。

 一メートル以上の距離を開けて歩く。

 会話もしない。視線も合わせない。

 それが、俺たちの暗黙の了解。


 その一メートルが、意外と長い。

 だけど、ふと視界の端でまふゆの手が動いた。

 すれ違いざま――電柱の陰で死角になった一瞬。

 彼女の左手の小指が、俺の右手の小指にちょんと触れた。

 一瞬の接触。

 電気のような痺れが走る。

 驚いて顔を向けると、まふゆは前を向いたまま、ほんの少しだけ口角を上げていた。


 『いってきます』


 声にならない唇の動き。

 誰も気づかない、二人だけの合図。

 俺は苦笑し、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……いってきます」


 二人だけの秘密をポケットに隠して、俺たちは学校への道を急いだ。


 校門が近づくにつれて、真冬の背筋はさらに伸びていく。

 肩の力が抜け、表情が無機質になる。

 その変化が分かってしまうことが、少しだけくすぐったい。


 教室に着けば、俺は「モブA」に戻る。

 真冬は「氷の女王」になる。


 さっきの小指の感触が、まだ残っている。

 指先がじんわりと熱い。

 歩幅を合わせて歩くまふゆの横顔を、盗み見る。

 気づいた彼女が、また小さく微笑んだ。

 それだけで、俺の心臓は簡単に跳ね上がった。


(……これで学校生活、耐えられるか?)


 家での甘さと、学校での距離。

 このギャップに一番振り回されているのは、間違いなく俺だ。

 それでも、指先に残る彼女の熱を握りしめて、俺は教室への一歩を踏み出した。


 とりあえず今日の昼休み、また屋上に呼び出される予感がして、俺は小さく苦笑した。

 おままごとは、まだまだ続く。

 終わらせる気も、終わる気配もない。

 それでいい。

 それがいい。

 俺はそう思うことにした。

 ---


 その日の放課後。

 俺が教室を出ようとした時、廊下の窓の向こうに視線を感じた。


 振り返る。

 誰もいない。

 ただ、窓ガラスに映り込んだ夕空だけが、オレンジ色に笑っている。


 ——気のせいか。


 でも、背中には視線の残滓が張り付いている。

 ちくり、と胸が嶢る。


 空耳かもしれない。

 でも、誰かに見られている気がする。

 俺とまふゆの関係を、不審に思っている誰かが。


 まさか、そんなこと——


 「夕方、ゆっくり帰れるのかい。高校生って。あー、ダルい」


 耗の奥から声がした。

 ジャージ姿の女性教師——桜井先生が、スルメを齧りながら立っていた。


 「お、お疲れ様です」

 「はいはい。お前、あの朝凪と同じクラスだったな」

 「……はい」

 「大変だなー、氷の女王がクラスメイトなんて。他の女子はピリピリしてるし、男子は変に意識するし」

 「はあ……まあ、そうですね」


 桜井先生は、不意に俺の顔を見つめた。

 その目が、少しだけ鋭くなる。


 「……あの子、家では違う顔してんだろ?」

 「え?」

 「いや、なんとなくな。教師やってると、生徒の『素』が見える瞬間があるんだよ」


 心臓が、跳ねた。


 「朝凪がお前のこと見てる時の目、教室と全然違うんだよなー」

 「そ、そうですか?」

 「まあ、幼馴染っていうから、安心できる存在なんだろうけど」


 先生はスルメを備え付けのように嘲り、長い息をついた。


 「……気をつけろよ、夏目」

 「え?」

 「早起きしろってこと。遅刻はいかんぞー」


 先生はひらひらと手を振って、職員室の方へ消えていった。

 その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


 ——やっぱり、見られてるのか。


 桜井先生は、何か知っている。

 それがどこまでなのかは分からないけれど。

 あの「気をつけろ」には、複数の意味が含まれている気がした。


 そして、もう一人。

 俺たちを見ている誰かが、この学校にいる。


 その予感が、胸の奥で重く沈んだ。

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