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第4話:寝起きの重力と、五分間の充電タイム


「……んー……」


 朝、六時半。

 まだ薄暗い寝室で、俺を目覚めさせたのは、電子アラームの音ではなく、顔面と胸部を圧迫する理不尽な重みだった。

 呼吸が苦しい。

 金縛りか?

 いや、違う。

 何か、温かくて柔らかい物体が、俺の気道を物理的に塞いでいる。


 目を開けると、視界いっぱいに銀色の髪が広がっていた。

 キラキラと朝日を反射す……るわけでもなく、ただモサモサと俺の顔にかかっている。

 鼻先をくすぐる、甘ったるいミルクの匂い。

 首元にかかる、規則正しい寝息。

 そして、俺の胸板の上で完全に脱力しきっている人型の重り。


 朝凪真冬である。

 彼女はうつ伏せになり、俺の身体を高級マットレスか何かだと思っているかのように、全身でしがみついていた。


「……おい。起きろ。重い」


 俺は声を出そうとしたが、肺が圧迫されて掠れた音しか出ない。

 昨晩は確かに背中合わせで寝たはずだ。

 なぜ朝起きたら、俺が敷布団で彼女が掛け布団のようなポジションになっているんだ。

 仕方なく、彼女の肩を揺する。

 華奢な肩越しに、無防備な寝顔が見えた。

 長く伸びた睫毛。半開きの口。少しだけ垂れた涎の跡。

 普段の「氷の女王」からは想像もできない、無警戒な姿だ。

 ——可愛い。

 ……気持ち悪い。

 この寝顔を見て「可愛い」と思う自分が、無性に気持ち悪い。

 年相応の美少女の寝顔を「可愛い」と感じるのは異常じゃない。問題は、俺がそこに感じる感情の質だ。

 恋愛対象への「可愛い」じゃない。守るべき存在への「可愛い」。幼児を愛でるような、保護欲と一体化した「可愛い」。

 彼女は、俺の前で年齢退行している。そして俺は、その幼い版の彼女を「可愛い」と感じている。

 ——これは、健全な感情なのか?


「……んぅ……」


 まふゆが不満げに呻き、さらに俺のTシャツを握りしめた。

 爪が食い込む。痛い。


「……湊、うるさい」

「人の上で寝言を言うな。どけ」

「……むにゃ。……あと五年」

「冬眠かよ! 遅刻するぞ」


 俺は意を決して、彼女の身体を引き剥がしにかかった。

 だが、まふゆの粘着力は異常だ。

 まるでタコの吸盤のように、あるいは強力な磁石のように、俺の身体から離れようとしない。

 のろのろと半身を起こしたまふゆは、ぼんやりとした瞳で俺を見下ろした。


 バサリ。

 借りていった大きめのTシャツが肩からずり落ち、白い肌が露わになる。

 鎖骨のラインが生々しく、さらにその奥の膨らみの始まりが見えそうで――。

 俺は慌てて目を逸らした。

 朝からこれは刺激が強すぎる。男子高校生の健全な肉体には毒だ。


「……お、おはよう、湊」

「おはよう。……いい加減どいてくれ。トイレ行きたい」

「……だめ」

「は?」

「……充電中」


 そう言うと、まふゆは糸が切れた操り人形のように、再び俺の胸に倒れ込んできた。

 ドフッ、と鈍い音がする。

 再び塞がれる視界。


「……ちょっと待て。なんだその機能」

「……湊の体温、発電所」

「俺は火力発電所じゃねえよ」

「……原子力……」

「危険度上げるな」

「……んー……メルトダウン……」

「お前が俺をメルトダウンさせてんだよ」


 まふゆは俺の言葉を聞いているのかいないのか、むにゃむにゃと何かを呟いている。

 その時、ふと彼女の瞼がゆっくりと開いた。

 寝ぼけた瞳が、少しだけ焦点を結ぶ。


「……湊」

「ん?」

「……いつも、ごめんね」


 その声は、さっきまでの幼児退行とは全く違う。

 静かで、透明で、どこか切ない響き。


「……毎朝、こんなんで。……迷惑、かけてる」

「……別に、迷惑じゃない」

「……うそ。湊、眠そう」


 俺の目の下の隈を、細い指先がそっと撫でた。

 その仕草が、やけに大人びていて、胸の奥が煉けるように熱くなる。


「……ありがと」


 小さく、でも確かに。

 真冬は微笑んだ。

 学校では絶対に見せない、柔らかい笑顔。

 その瞬間だけ、「甘えん坊の子供」から「一人の少女」に戻る。


 ——この落差が、ずるい。

 なのに、学校では他人のふりを続けなきゃいけないと思うと、胸が少し痛む。 この距離感が心地よくて、同時に苦しい。それがもう、ただの「保護」じゃない証拠なのかもしれない。

 さっきまでのボケボケモードとのギャップで、俺の心臓は撃ち抜かれた。

 こういう瞬間があるから、毎朝の理不尽に耐えられる。


 だが、その静けさは長くは続かなかった。


「……湊、今日の朝ごはん……」

「……何がいい?」

「……オムライス……ケチャップで……ハートの形……」

「寝言のハードルが高いな」

「……あと……湊の……手作りクッキー……」

「朝から焼けるわけないだろ」

「……じゃあ……フルコースで……」

「ここはホテルじゃない」


 完全に話が通じていない。

 目は開いているのに、脳は寝ている。

 低血圧ここに極まれりだ。


「……ねえ湊……まふの名前……呼んで……」

「まふゆ」

「……もう一回……」

「まふゆ」

「……えへへ……もう一回……」

「何回言わせんだ」


 俺の胸に頬をすり寄せ、幸せそうに目を細めた。

 俺の心音を聞いているのだろう。

 このまま彼女を抱きしめて、一日中布団の中で過ごせたらどんなに幸せだろう。

 ——そんな堕落した思考が脳裏をよぎり、俺は危うく理性を手放しかけた。


「……5分だけな」


 結局、俺は降伏した。

 この半分寝ている真冬を引き剣がすのは、岩にへばりついたカキを引き剣がすより困難だ。


「……ん。湊、すき」


 寝ぼけた声で、爆弾が投下された。


「……5分だぞ。5分経ったら起きろよ」

「……ん」


 返事になっていない返事。

 まふゆは俺の胸に顔を埋めたまま、小さく息を吐いた。

 その吐息が、シャツ越しに肌をくすぐる。


 まふゆは極度の低血圧だ。

 朝の彼女は、起動中にフリーズした旧型PCのように使い物にならない。

 これを再起動させるには、どうやら俺という外部電源が必要らしい。


 五分。

 そんな約束は守られた試しがない。

 けれど、ここで無理やり剥がせば、真冬の機嫌が崩壊することも、俺は学習済みだ。

 俺は目を閉じ、呼吸を整える。

 胸の上で小さく上下する体温が、ゆっくりと覚醒していくのを待つ——


 ——はずだった。


 次に目を開けた時、時計の針は七時十分を指していた。


「……っ!?」


 完全に寝落ちした。

 まふゆも俺の胸の上で、まだ幸せそうに眠っている。

 やばい。これ、普通にやばい。


「おい、まふゆ! 起きろ! 遅刻する!」

「……んー……五分……」

「五分が四十分になったんだ! 俺のせいで!」


 慌てて彼女を揺さぶる。

 まふゆはゆっくりと目を開け、ぼんやりと時計を見た。

 三秒後、彼女の目が見開かれる。


「……やば」

「やば、じゃねえ! 急げ!」


 ここからは戦争だった。


 いつもの丁寧な介助なんてやっている暇はない。

 俺は自分の制服を引っ掴み、まふゆには「自力で着替えろ」と叫んだ。


「……無理」

「やれ! 今日だけは!」

「……湊の鬼……」

「鬼上等だ!」


 俺は壁に向かって立ち、背後の衣擦れに耳を塞いだ。

 いつもなら聞こえる布が肌を滑る音も、今日は急いでいるせいか雑だ。

 バサバサ、ガサガサ、時々「んー」という不満げな声。


「……できない」

「何が」

「……ボタン」


 振り返ると、まふゆはブラウスを着てはいたが、ボタンが二つずれていた。

 しかも裾が片方だけスカートから出ている。

 なんだこの惨状は。


「……お前、今まで俺がどれだけ丁寧にやってたか分かったか」

「……分かった。湊すごい」

「褒めても時間は戻らん」


 俺は諦めてボタンを直しにかかった。

 指先が震える。時計が気になる。でも、このまま行かせるわけにはいかない。

 「氷の女王」がボタンずれで登校したら、噂どころの騒ぎじゃない。


 最低限のボタンだけ直し、裾を整える。

 リボンは——もう無理だ。曲がっているけど、許容範囲内。


「歯磨き、三十秒で終わらせろ」

「……無理」

「やれ」


 洗面所に駆け込み、二人で並んで歯を磨く。

 いつもの丁寧なブラッシングなんてできない。

 シャカシャカシャカシャカ——高速で口内を掃除する。


 まふゆは隣で、目を半開きにしながら歯ブラシを動かしている。

 動きが遅い。このままでは間に合わない。


「もっと速く」

「……んー」

「口ゆすげ」

「……まだ」

「もういい、ゆすげ」


 強引に水を渡し、自分も口をゆすぐ。

 鏡を見る余裕もない。

 髪は——まふゆの銀髪が、右側だけ爆発している。


「やばい」

「……やばい」


 二人で同時に呟いた。

 俺は水で手を濡らし、彼女の寝癖を必死に押さえつけた。

 完全には直らない。でも、なんとか「寝癖」から「ちょっとウェーブ」くらいには誤魔化せた。


「……変じゃない?」

「大丈夫。……たぶん」

「……たぶん」


 朝食は抜き。

 まふゆの「……お腹空いた」を「昼まで我慢」で黙らせ、俺たちは玄関を飛び出した。


 ---


 アパートの階段を駆け下り、住宅街を全力で走る。

 朝の空気が肺を刺す。

 隣を走るまふゆは、普段の「氷の女王」からは想像もつかない必死な顔をしていた。


 銀髪が風になびく。

 白い頬が赤く染まる。

 息を切らしながら走る姿が——なぜか、妙に可愛い。


 いや、今そんなこと考えている場合じゃない。


「……湊、速い」

「遅刻するぞ」

「……足、痛い」

「我慢しろ」

「……湊のせい」

「……俺のせいです」


 何度目だ、この会話。

 反論できないのが悔しい。


 信号が赤になりかけた。

 俺は咄嗟にまふゆの手を掴み、ギリギリで渡り切った。

 手のひらに、彼女の体温が伝わる。

 汗ばんでいて、でも冷たい指先。


「……っ」


 渡り切った瞬間、まふゆが俺の手を見下ろした。

 握ったままだ。

 俺は慌てて手を離した。


「……悪い」

「……別に」


 まふゆは視線を逸らし、また走り出した。

 耳が赤い。

 俺のせいか。いや、走ったせいだ。きっと。


 通学路を曲がると、校門が見えた。

 他の生徒たちが、ぞろぞろと門をくぐっている。

 まだ閉まっていない。間に合う。


 アパートから学校まで、歩いて十五分。

 走れば十分。

 七時十分に家を出て、全力で走って、七時二十分に着いた。

 ホームルームは七時二十五分。

 ——奇跡だ。


 ---


 校門が見えた時、ホームルーム開始の一分前だった。

 ギリギリセーフ。

 走ったせいで、二人とも息が上がっている。


 真冬は立ち止まり、深呼吸をした。

 そして、俺を無言で一瞥した。

 その目が「湊のせい」と言っている。

 反論できない。完全に俺のせいだ。


 でも、同時に——その目の奥に、別の色も見えた気がした。

 怒り、じゃない。

 なんだろう。楽しそう、とも違う。

 でも、普段の「氷の女王」モードとは、確かに違った。


 校門の前で、俺たちは足を止めた。

 ここからは別々だ。

 他人として、教室に入る。


 まふゆは制服の乱れを手早く直し、銀髪を指で梳いた。

 数秒で、彼女は「朝凪真冬」に戻る。


 ——いや、違う。

 「戻る」じゃない。「変わる」だ。


 さっきまで息を切らして走っていた女の子の面影は、もうない。

 悟ったとき、そこには「氷の女王」が立っていた。

 背筋がピンと伸び、瞳から光が消える。

 唇は一文字に結ばれ、媚びも愛想も、すべての感情が仮面の下に沈む。

 ——乾いている。

 さっきまでの汗ばんだ彼女は消え、そこに立つのは乾燥した氷像だ。湿度ゼロ。生活感ゼロ。人間味ゼロ。


 すれ違う男子生徒が、彼女を見て息を呑んだ。

 「おはよう」と声をかけようとして、視線を受けて凍りつく。

 まふゆは無表情のまま、その男子の存在を虫けらのように無視して通り過ぎた。

 まるで、彼が空気であるかのように。


 ——これが、学校での朝凪真冬。

 誰も近づけない。誰も触れられない。

 男子は彼女を「高嶺の花」と呼び、女子は「氷の女王」と囁く。

 教室では前の席でも後ろの席でも、彼女の周囲だけ不自然な空白ができる。


 でも俺は知っている。

 あの凍てつく瞳が、朝の俺の胸で溶けてドロドロになることを。

 あの冷たい唇が、「湊ぉ……おなかすいたぁ……」と間抜けな声を出すことを。

 あの完璧な制服の中身が、三十分前までは俺のシャツにしがみついて離れなかったことを。


 「氷の女王」の寝起きは最悪だ。

 「学校一の美少女」は、一人じゃボタンも留められない。

 「誰にも心を許さない孤高の存在」は、俺のシャンプーの匂いを嗅がないと落ち着かない。


 その全部を知っているのは、世界で俺だけだ。

 

 ——なんだろう、この優越感は。

 気持ち悪いと思う。でも、止められない。

 俺だけが彼女の本当の姿を知っている。

 俺だけが、彼女を「人間」として見られる。

 それが、たまらなく甘い毒のように、胸の奥に染み込んでいく。


 ふと、彼女がこちらを見た。


 ——息が、止まった。


 冷たい。

 胸を一突きされたような視線だった。

 さっきまで「湊〜おなかすいた〜」と甘えていた女の子と、同じ人間が向ける目とは思えない。

 家での甘さと、学校での冷やかさ。

 その落差で、誰だって風邪ひく。


 彼女の視線が、俺を送り届けている男子生徒を捨てた。

 捨てた、という表現が正しい。

 見つめてすらいない。視線が通過する。

 まるで、そこにいるのが空気であるかのように。

 いや、空気以下か。虫けら。視界に入れる価値もない存在。


 男子生徒の顔が引きつるのが見えた。

 恋する乙女に拒絶された少年のような、傷ついた表情。

 可哀想だと思う。でも、仕方ない。

 学校でのまふゆは、そういう存在なのだ。


 ところが——


 まふゆの視線が、一瞬だけ俺を捉えた。

 誰にも気づかれない角度。空気の分子も知らない即座の変化。

 氷の瞳の奥に、ほんの少しだけ、あたたかい色が灸った。

 誰にも許さない甘えの残光。

 俺にだけ見える、秘密の色。


 ——たまらない。

 この落差は、たまらない。

 俺だけが知っている。俺だけが見たことがある。

 その事実が、甘い毒のように胸の奥を犯していく。


「……じゃ」

「……ん」


 それだけ。

 真冬は先に歩き出し、俺は数分遅れて後を追う。

 いつものルーティン。

 でも今日は、少しだけ特別だった。


 ——彼女が、自分の力で着替えたこと。

 ——俺が、ちゃんと失敗したこと。

 ——二人で、手を繋いで走ったこと。


 変化は小さい。

 でも、変化は変化だ。

 いつまでも「保護者」のままではいられない。

 ……いや、そうじゃない。

 「保護者」でいたいと思っている俺自身が、少しずつ揺らいでいる。


 まふゆの赤い耳を思い出す。

 汗ばんだ手のひらの感触を思い出す。

 走りながら見た、必死な横顔を思い出す。


 ——可愛かった。


 その感想を、俺は慌てて頭の奥に押し込んだ。

 ダメだ。そういうのは、ダメだ。

 俺は保護者で、彼女は被保護者で、それ以上でもそれ以下でもない。


 そう言い聞かせながら、俺は教室への階段を上った。

 でも、胸の奥のざわつきは、なかなか消えてくれなかった。


 ——この生活は、いつまで続くんだろう。


 ふと、そんな問いが頭をよぎった。

 今は平穏だ。俺たちの秘密は、誰にも知られていない。

 でも、いつかバレる日が来る。

 その時、俺たちはどうなるんだ。


 学校での「他人」の演技。

 家での「家族」のような距離感。

 どちらが本当の俺たちなのか。

 それとも、どちらも本当なのか。


 答えは出なかった。

 ただ、胸の奥に小さな予感だけが残った。

 この幸せは、いつか誰かに壊される。

 外からか、内からか——


 教室のドアが見えた時、俺はその考えを振り払った。

 今は考えるな。今を生きろ。

 それが、俺にできる唯一のことだ。


 ---


 ——その日の放課後。

 校門を出たところで、見知らぬ女子が待ち構えていた。

 黒髪をきっちりと三つ編みにした、眩しいはずの美少女。

 彼女は俺を見つめ、冷たく言った。


「夏目湊。昨日の朝、朝凪真冬と同じ時間に校門をくぐったな」


 心臓が凍りついた。


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