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第5話:風紀委員長、来襲


 異変は、月曜日の朝に始まった。


 校門を通った瞬間、空気がおかしいことに気づいた。生徒たちの背筋がやけに真っ直ぐだ。声が小さい。いつもなら駆け込むように走っている遅刻組まで、小走りですらない。静々と歩いている。


 理由はすぐに分かった。


 校門の横に、一人の女子生徒が立っていた。


 黒髪を三つ編みにまとめ、眼鏡の奥から校門を見据えている。風紀委員の腕章を左腕に巻き、手元にはバインダーとボールペン。姿勢は定規で測ったように真っ直ぐだ。


 冬月雫。

 一年生にして風紀委員長。

 校則を条文単位で暗記し、ネクタイの緩み五ミリを目視で検出し、スカートの丈を一センチ刻みで記録するという、生ける校則執行装置。


 翔太が小声で耳打ちしてきた。


「やべえ、冬月だ。先月、三年のヤンキーを正論だけで泣かせたらしいぞ」

「マジか」

「マジ。『規則を破る自由があるなら、規則を守る不自由も受け入れなさい』って。ヤンキー、泣いたらしい」


 哲学的すぎる。


 冬月は校門を通過する生徒を一人ずつ視線でスキャンしていた。

 俺はネクタイを確認した。緩んでいない。靴下も規定通り。シャツの第二ボタンも閉まっている。完璧だ。


 校門を通過——


「夏目湊くん」


 名前を呼ばれた。心臓が跳ねる。


「は、はい」

「少しよろしいですか」


 冬月が一歩近づいた。眼鏡の奥の瞳が、静かに俺を値踏みしている。


「最近、朝凪まふゆさんと登校時間が近いという報告が上がっています」


 血の気が引いた。


「登校記録を確認したところ、過去四日間——月曜から木曜まで、あなたの校門通過時刻と朝凪さんの校門通過時刻の差が、平均二分十八秒。誤差が極めて小さい」


 データで来た。しかも平均値付き。


「偶然です」


 声が裏返らなかったのは奇跡だ。


「偶然が四日連続」


 冬月はバインダーをめくった。本当に記録している。


「加えて、お二人の自宅方向が同一区画である可能性を示唆する情報もあります。朝凪さんが通学に使う道と、夏目くんが使う道は、駅前の交差点を起点に重複率が七十パーセント以上です」


 重複率。

 こいつ、交通調査でもしているのか。


「たまたま近所に住んでいるだけですよ」

「それは認めます。しかし『近所に住んでいる男女が毎日ほぼ同時刻に登校する』事象は、統計学的に偶然と処理するには有意水準を下回ります」


 統計学を持ち出されると反論が難しい。


「冬月、それだけで何かを疑うのは——」

「疑ってはいません。事実を確認しています」


 冬月はペンをノックした。カチ、と乾いた音がした。


「不純異性交遊とまでは言いません。ただ、交際しているのであれば、校内での過度な接触は——」

「してません。交際してません」

「……そうですか」


 冬月の眼鏡が光った。信じていない目だ。


「では、引き続き経過を観察させていただきます」


 経過観察。俺は患者か。


「あ、あの——」

「何か」

「朝凪さんにも同じこと聞くんですか」


 冬月は一瞬、口元を引き結んだ。


「……朝凪さんには、別途確認を取ります」


 嫌な予感がする。


 一限目の休み時間。

 果たして、嫌な予感は的中した。


 廊下で冬月とまふゆが対峙しているのを、俺は教室の窓越しに目撃した。

 冬月はバインダーを手に、まふゆの前に立っている。まふゆは——いつも通りの氷の女王モードで、まっすぐ前を見据えていた。


「朝凪さん。夏目湊くんとの関係について確認させてください」


 冬月の声が、廊下に響く。


 まふゆが口を開いた。


「……関係」

「はい。交際の有無について」

「……交際はしていません」


 氷の女王の声。感情ゼロ。


「では、何故毎朝ほぼ同時刻に登校を?」

「……偶然です」

「偶然が——」

「偶然です」


 まふゆが静かに繰り返した。

 同じ言葉。同じトーン。だが、二度目には微量の圧が乗っている。

 冬月の眼鏡の奥で、瞳が微かに揺れた。百戦錬磨の風紀委員長に一瞬の隙を作ったまふゆの「氷」は、伊達ではない。


「……では、夏目くんとの関係は」

「……近所に住んでいるだけの同級生です」


 正確だ。嘘はついていない。厳密には隣の部屋の住人だが、「近所」は間違っていない。


「なるほど。ですが、もう一つ気になる点があります」


 冬月がバインダーをめくった。


「先週木曜日の放課後、あなたが夏目くんの教室方向に一度視線を向けた記録があります」


 視線を記録している。こいつ、監視カメラか。


 まふゆは瞬き一つしなかった。


「……教室を通りかかっただけです。視線が向いたのは廊下の時計です」


 完璧な回答。冬月が反論する隙がない。

 ——ただし、真実ではない。あの時まふゆは確かに俺を見て「ばか」と口パクした。チョコパイ半分の恨みで。


「……廊下の時計」


 冬月がメモを取った。納得はしていないが、証拠不十分で追及を断念したらしい。


「分かりました。ただ、朝凪さん」


 冬月は眼鏡を中指で押し上げた。


「あなたの近隣に男子生徒が住んでいるという状況そのものが、風紀上の懸念事項です。もし何かあれば——」


「ありません」


 まふゆが遮った。

 その一言は短いが、絶対零度の確信に満ちていた。


「……私が勝手に近くに住んでいるだけです。夏目くんとは無関係です」


 冬月が固まった。

 数秒の沈黙の後、冬月は予想外の言葉を口にした。


「……それは、ストーカー行為に該当する可能性が——」


 違う。そうじゃない。


 まふゆの眉が微かに動いた。氷の女王の無表情が、ほんの一ミリだけ歪んだ。


「……ストーカーではありません」

「し、しかし、相手の了承なく近隣に——」

「……了承はあります。大家と店子です」


 大家と店子。まふゆがその説明を学校で使ったのは初めてだ。


「お、大家……? 夏目くんのお家が——」

「……それ以上は個人情報です」


 完封。

 冬月は二回瞬きして、バインダーを胸に抱え直した。


「……わ、分かりました。今日のところは以上です」


 冬月が去っていく。

 その足取りが、来た時より少しだけ速い。


 俺は教室の窓から身を引いた。

 危なかった。まふゆの鉄壁ポーカーフェイスに救われた。あの場に俺がいたら、絶対にボロを出していた。


 昼休み。翔太がからあげ弁当を開けながら報告してきた。


「聞いた? 冬月が朝凪さんに詰問したらしいぞ。廊下で」

「へえ」

「しかも朝凪さん、一言も表情変えなかったって。冬月の方が先に折れたらしい」


 知ってる。窓から見てた。


「冬月って、確かに厳しいけど悪い人じゃないんだよな。先月、いじめの噂があった時に一人で調査して解決したって」

「そうなのか」

「ただ、ちょっと融通が利かないっていうか……白黒はっきりさせないと気が済まないタイプ?」


 翔太がからあげを口に放り込みながら続けた。


「まあ、お前に関係ないか」

「……ないな」

「だよな」


 翔太はそう言って笑ったが、目が笑っていなかった。

 こいつは全部分かっている。分かった上で、何も聞かない。


 放課後。

 廊下を歩いていると、角から冬月が現れた。バインダー片手に巡回中だ。


「あ、夏目くん」

「……はい」

「今日の件ですが」


 冬月は眼鏡を直した。


「朝凪さんの証言と、あなたの証言は一致しました。偶然の一致ということで、今回は処理します」


 処理。


「ただし——」


 冬月がバインダーをぱちんと閉じた。


「引き続き、お二人の動向は注視させていただきます。何か不審な点があれば——」

「ないです」

「……そうですか。では、失礼します」


 冬月が去っていった。


 帰り道。いつもより三分長く間隔を空けて、まふゆとは別々にアパートに帰った。

 101号室の鍵を開ける。


「——おかえり」


 まふゆが玄関に立っていた。

 ジャージ。ボサボサ髪。いつもの溶解モード。

 だが、その表情がいつもと少し違った。


「……冬月さん、しつこかった」

「お疲れ」

「……ストーカー言われた」

「聞いてた」

「……窓から見てたでしょ」

「……バレてたか」

「……湊の気配はいつでも分かる」


 怖い。


 まふゆが近寄ってきて、いつもの検閲を始めた。

 顔を胸元に埋め、スンスン。


「……冬月さんの匂い、しない。合格」

「廊下で話しただけだからな」

「……それでも検閲は必要」


 ぎゅう。上書き作業。

 今日は少しだけ力が強い。冬月の件でストレスが溜まったのだろう。


「……湊」

「ん」

「……学校、めんどくさい」

「知ってる」

「……冬月さん、こわい」

「お前の方が怖いぞ」

「……そう?」


 まふゆは小首を傾げた。自覚がないのが一番怖い。


 ソファに座ると、まふゆが例によって膝の上に移動してきた。


「……冬月さん、もう来る?」

「来るかもな。あいつ、諦めなさそうだし」

「……やだ」

「うまくやるしかない」


 まふゆが俺の袖を掴んだ。


「……バレたら、どうなる?」

「面倒なことになる。たぶん」

「…………」


 まふゆは黙った。

 しばらくして、小さく呟いた。


「……バレても。湊は、いなくならない?」

「いなくならねえよ」

「……約束」

「約束」


 まふゆの指が、俺の袖をきゅっと握った。

 その力は弱いけど——確かだった。


「……じゃあ、大丈夫」


 まふゆは目を閉じた。

 背中に触れた体温が、少しずつ温まっていく。


 冬月の追及は、たぶんこれで終わりじゃない。

 でも、まあ——なんとかなるだろう。


 なんとかする。

 この「おままごと」を守るために。


「……湊」

「ん」

「……チョコパイ。開けていい?」

「一個だけな」

「……一個と、かけら」


 まだそれ言うか。

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