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第3話:最初の夜と、悪夢の距離感


 夜十一時。

 髪も乾き、歯磨きも終え、我々に訪れたのは「就寝」という重大なミッションだった。

 問題は、寝場所の確保である。


「俺は床に布団敷いて寝るから、まふゆはベッド使え」


 俺はクローゼットから予備の煎餅布団を引っ張り出しながら宣言した。

 これは最大限の譲歩だ。

 本来なら自分の部屋(一〇二号室)に帰って寝ろと言いたいところだが、あの部屋の惨状(暗黒・極寒・段ボール遺跡)を知ってしまった以上、追い返すのは鬼畜の所業だ。

 それに、まだライフラインが復旧していない。


 しかし、まふゆはベッドの上で体育座りをしたまま、じっと俺を見つめている。

 その瞳には、明らかな不満と不安の色が揺蕩っていた。


「……とおい」

「は? 同じ部屋だぞ。直線距離で二メートルも離れてない」

「……床、寒そう」

「暖房つけてるから平気だ。大体、お前と同じベッドで寝られるわけないだろ。俺たちはもう高校生だぞ」


 俺は自分に言い聞かせるように冷たく言い放ち、床に布団を敷いた。

 枕を置き、毛布をかぶる。

 硬い。背中が痛い。

 だが、ベッドの上にはもっと危険な猛獣(無防備な美少女)がいるのだ。

 背中の痛みくらい甘んじて受け入れよう。


 電気を消す。

 部屋が深い闇に包まれると、窓の外の雨音だけが強調される。

 シトシト、という単調なリズム。


「……おやすみ」

「……おやすみ、湊」


 少し不満げな、けれど大人しい返事が返ってきた。

 俺は安堵の息を吐き、目を閉じた。

 これで一安心だ。

 明日は土曜日。学校はない。まずはまふゆの部屋の片付けを手伝って、それから必要なものを買い出しに行って……。

 そんな予定を頭の中で組み立てながら、俺の意識は徐々に微睡みへと落ちていった。


 そう思ったのが、甘かった。


 ---


 ――行かないで。


 深夜、いつの間にか眠っていた俺の耳に、か細い声が届いた。

 最初は雨音かと思った。

 でも、違う。

 嗚咽混じりの、悲痛な声。


「……湊くん……いっちゃだめ……」

「……え?」


 俺は飛び起きた。

 暗闇に目が慣れてくる。ベッドの方を見る。

 そこで、まふゆが小さく震えていた。

 毛布を握りしめ、体をくの字に折り曲げている。

 ——震え方が、尋常じゃない。

 歯の根が合わないほど、ガチガチと音を立てている。

 その音が、暗い部屋に小さく响いていた。

 悪夢を見ているのだ。


「……ひとりぼっちは、いやぁ……」


 子供のような、必死な訴え。

 俺は布団を蹴飛ばし、ベッドの傍らに駆け寄った。


「おい、まふゆ! 大丈夫か!? 起きろ!」


 まふゆの手が俺のTシャツを掴んだ。

 爪が食い込むほど強い。

 指の関節が白くなるほど、必死に握りしめている。


「……さむい……」


 呟きながら、まふゆは体を丸めていく。

 呼吸が浅い。不規則だ。

 眠っているはずなのに、こめかみに汗が滲んでいる。


「……でんき……」


 声にならない声。

 断片的な単語が、彼女の見ている光景を映し出していた。


「……くらい。……あかない……」


 広い家。

 一人きりの、広すぎる家。

 暗闇が迫ってきても、誰も電気をつけてくれない。

 ドアを叩いても、開かない。


「……メモ……なんで……」


 俺のシャツを掴む握力が、さらに強くなった。

 生地が引きちぎれそうだ。

 でも、振り払えない。振り払いたくない。


「……あし、つめたい……」


 彼女の足が、空を蹴った。

 冷たい床を、裸足で歩いているのだろう。

 暖房の入っていない家の中を、誰にも触れられないまま。

 何年も。何年も。


「……おいて、かないで……」


 まふゆの手が、空を掴むように彷徨っている。

 その姿が、十年前のあの日と重なった。

 引っ越しのトラックの前で、泣きじゃくって俺の手を離さなかった少女。

 あの光景が、フラッシュバックする。

 その姿が、十年前のあの日と重なった。

 引っ越しのトラックの前で、泣きじゃくって俺の手を離さなかった少女。


「……俺はここにいる! どこにも行かない!」


 俺は思わず、その彷徨う手を強く握りしめた。

 氷のように冷たい手。

 俺の体温が伝わると、まふゆはビクリと反応し、ハッと目を開けた。

 涙で濡れた瞳が、暗闇の中で俺を捉える。


「……みな、と?」

「ああ。俺だ。……悪い夢でも見たか」

「……うん。湊が、いなくなる夢。……みんな、いなくなる夢」


 まふゆは俺の手を両手で包み込み、自分の頬に押し付けた。

 温かい涙が、俺の指を濡らす。


「……怖い」


 消え入りそうな声。


「一人はやだ。……二メートルも離れたら、届かない。……声が、聞こえない」

「……すぐそこにいるって」

「やだ。……お願い。一緒に寝て」


 それは、究極の懇願だった。

 普段の甘えとは違う。

 魂からの叫びだ。

 今の彼女は、高校生の朝凪真冬じゃない。

 十年前の、俺たちが離れ離れになったあの日の少女に戻っている。

 ここで「ダメだ」と突き放せるほど、俺は強くないし、冷酷にもなれない。


「……わかったよ」


 俺は長い溜息をつき、観念した。

 声には、嫌そうな色が混じっていた。

 嫌だ。こんなこと、本当は嫌だ。

 ——でも、逃げられない。

 今の彼女を突き放せるほど、俺は冷酷になれない。

 諸めと、義務感と、それとは別の何かが、胸の奥でないまぜになっている。


 シングルベッドに腰を下ろす。


「でも、何もしないぞ。手を出したりしないし、変なこともしない」

「ん。湊はヘタレだから、安心してる」

「誰がヘタレだ。……ほら、詰めろ」


 俺が言うと、まふゆはパァッと顔を輝かせ、嬉しそうに壁際へ寄った。

 涙の跡が残る頬に、笑顔が浮かぶ。

 そのギャップに、俺の心臓がギュッと締め付けられた。


 空いたスペースに身体を滑り込ませる。

 狭い。

 シングルベッドに二人。

 肩が触れ合う距離。

 まふゆの甘い匂いが、布団の中に充満している。

 心拍数が、静かな部屋に響きそうだ。


「……あったかい」


 まふゆが俺の背中にぴたりと張り付いてきた。

 腕を回し、俺のTシャツを背後からきゅっと握る。

 ——近い。

 彼女の心臓が、俺の背骨に直接響いてくる。規則的で、少し速い鼓動。

 そして熱。さっきまで氷みたいに冷たかった身体が、今は俺の体温を奪うように密着している。

 俺のシャツ越しに、彼女の呼吸が背中に当たる。温かくて、少し湿った感触。

 髪の匂いがする。風呂上がりの、シャンプーの残り香。その奥に、彼女自身の匂い。甘くて、どこか懐かしい。


 そして——柔らかい。

 背中に押し付けられる、明らかに「そういう」感触。

 薄いパジャマ越しに、彼女の体温と、輪郭が、生々しく伝わってくる。


 まずい。

 これは、まずい。


 俺の身体は正直だ。

 心では「幼馴染」「妹みたいなもの」「守るべき存在」と言い聞かせても、生理現象は別だ。

 止められない。

 止めたいのに、止められない。


(……くそ、考えるな。般若心経。色即是空。空即是色)


 必死に意識を逸らそうとする。

 明日の時間割。英語の小テスト。冷蔵庫の中身。掃除機のフィルター交換——


「……湊、どきどきしてる」


 まふゆが、俺の背中に頬を押し当てたまま呟いた。

 心臓の音が、バレている。


「……うるさい」

「えへへ。私も」

「……」

「湊の心臓の音、好き。安心する」


 この子は、何も分かっていない。

 俺が今、どれだけギリギリのところで踏みとどまっているか。

 背中に感じる柔らかさが、どれだけ俺の理性を削っているか。


 それとも——分かっていて、やっているのか?


 いや、まふゆに限ってそれはない。

 彼女にとって俺は「安全な存在」だ。

 だから無防備に身体を預けてくる。

 その信頼が、嬉しくて、苦しい。


(……これ、寝れるか?)


 俺の理性は悲鳴を上げている。

 だが、背中から伝わってくるまふゆの体温は、次第に安定していった。

 さっきまでの震えが止まり、小刻みだった呼吸が、深く、穏やかなリズムに変わっていく。

 緊張して目が冴えてしまっている俺とは対照的に、彼女は俺という安全装置を得て、早々に夢の世界へ旅立とうとしている。


「……湊」


 寝言のような、甘い呟き。


「……ずっと、一緒だよ」


 雨音が少しだけ遠くなる。

 濡れた空気の匂いが薄れ、代わりにシーツの洗剤の香りと、背中に触れる真冬の体温だけがくっきりと浮かび上がった。

 重なる呼吸のリズムが、まるで心臓の鼓動を揃えてくるみたいで、俺は目を閉じたまま、その音に耳を澄ませた。


 守るって、こういうことかもしれない。

 手を引くとか、盾になるとか、そういう派手な話じゃない。

 相手が眠れる場所を作ることだ。


 ——それは呪いの言葉か、それとも愛の告白か。


 どちらにせよ、俺はもう逃げられないと悟った。

 この子はまだ、一人では歩けない。

 なら、俺が保護者になるしかない。

 それが、十年前の約束を破った俺が背負うべき家賃なのだとしたら。

 あるいは、俺自身もまた、彼女に必要とされることで救われているのかもしれない。


「……おやすみ、まふゆ」


 俺は背中に回された冷たい手を、そっと握り返した。

 小さい手だ。

 少し力を込めて握ると、眠っているはずのまふゆの手も、きゅっと握り返してきた。


 ——離さないで。


 そう言われている気がして、俺は小さく息を吐いた。


「……離さねえよ」


 声に出して、答えた。

 眠っている彼女には聞こえないだろう。

 でも、言葉にしないと、自分の決意が揺らぎそうだった。


 背中の温もりと、繋いだ手の感触。

 抗おうとしていた意識が、その心地よさに絡め取られていく。


 見張りをしなきゃいけないのに。

 朝まで起きてなきゃいけないのに。

 背中から伝わる心音が、まるで子守唄みたいに俺の思考を溶かしていく。


 瞼が、重い。

 さっきまでの緊張が嘘みたいに、全身から力が抜けていく。

 真冬の体温が、俺の意志を一枚ずつ剥がしていく。


(……一分だけ)


 そんな甘い言い訳が、脳裏をよぎった。

 一分だけ目を閉じよう。

 それだけ。

 それだけで——


 抵抗は、そこで終わった。


 ああ、もう戻れない。

 一人で眠れていた頃には、もう戻れない。

 この体温を知ってしまったら、冷たいベッドには戻れない。

 それでいい。

 それでいいんだ。


 このまま堕ちるところまで堕ちてもいいか。

 そんな幸福な諦めと共に、俺はまふゆの体温に包まれて、深い闘へと沈んでいった。


 ---


 夢を見た。


 薄暗い廊下。

 誰かが、俺たちを見ている。

 眼鏡の奥の、冷たい視線。

 三つ編みが揺れる。制服の腕章が光る。

 風紀委員——そんな言葉が、頭をよぎった。


 詰問するような声。


 ——あなたたちの関係は、何なの?


 その声には、怒りだけじゃない何かが混じっていた。

 恐怖。焦燥。そして——後悔?

 まるで、同じ過ちを二度見たくないと叫んでいるような。


 ——曖昧な関係は、人を壊す。


 その言葉が、暗闘の中で何度も反響した。


 目が覚めた時、真冬はまだ俺の背中にしがみついていた。

 穏やかな寝息。安心しきった顔。

 さっきの夢が嘘のように、世界は静かだった。


 でも、胸の奥に残った棘は消えなかった。

 いつか——俺たちの関係を、誰かが問いただす日が来る。

 その時、俺は何と答えればいいんだろう。


 「幼馴染です」と言えば、嘘になる。

 「恋人です」と言えば、もっと嘘になる。

 「家族です」と言えば——それは、真実に一番近いかもしれない。

 でも、世間はそれを認めない。


 俺は真冬の手を握り直した。

 小さくて、温かくて、俺を信じきっている手。

 この手を離す時が来たら、俺はどうなるんだろう。


 ——考えるな。今は、眠れ。


 俺は目を閉じ、彼女の体温に身を委ねた。

 いつか来る嵐の前の、最後の凪のように。

 ——同じ時間に登校して、同じ匂いがして。

 ——不純だわ。


 夢の中で、俺は言い返せなかった。

 何も言えないまま、まふゆの手を離してしまった。

 離した手が、もう二度と届かない場所に消えていく。


 ——待って。

 ——行くな。


 叫ぼうとして、声が出ない。

 そして、もう一つの声が響いた。

 背筋が凍るような、甘ったるい声。


 ——湊くん、あなたの『おままごと』、いつまで続くのかしら?


 知らない女の声。

 でも、どこかで聞いたことがある。

 まふゆの——母親の声だ。


 ——この幸せは、長くは続かないわよ。


 目が覚めた。

 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

 背中には、まだまふゆの温もりがある。

 彼女の寝息は、穏やかだ。


 ——夢だ。ただの夢だ。


 でも、胸の奥の不安は消えなかった。

 俺たちの関係は、誰かに見られている。

 学校で他人のふりを続けても、いつかバレる。

 バレたら、どうなる?


 まふゆの母親は、まふゆを連れ戻しに来るかもしれない。

 学校は、俺たちを引き離すかもしれない。

 この『おままごと』は、いつか終わる。


 ——終わらせたくない。


 その感情の強さに、俺自身が驚いた。

 まふゆのためじゃない。

 俺が、まふゆと一緒にいたいんだ。

 そのエゴを、俺は初めて自覚した。


 窓の外では、雨がまだ降り続けている。

 俺はまふゆの手を、少しだけ強く握り直した。

 何があっても、離さない。

 離したくない。


 その決意が、呪いのように胸に刻まれた夜だった。

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