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第4話:氷と溶解の二重生活


 朝凪まふゆという人間は、二つの生き物で構成されている。


 一つ目。学校モード。

 通称「氷の女王」。制服を寸分の狂いなく着こなし、背筋をまっすぐに伸ばし、銀色の髪を流して歩くだけで廊下の空気が凍る。話しかけたら凍傷を負う。目が合ったら石になる。そんな都市伝説が入学二ヶ月で確立された、成和高校の生ける伝説。


 二つ目。自宅モード。

 通称……なんだろう。スライム? 液体? 半固体?

 俺のジャージを着てソファに溶けて、チョコパイを頬張りながら「……テレビつけて」とだけ言う謎の軟体生物。


 この二つが同一人物であるという事実を、未だに脳が完全に処理しきれていない。


 今日も、その落差を全身で浴びる一日が始まる。


 一限目、数学。


「——三十八ページ、問二。朝凪」


 桜井先生が気だるげに指名した。

 教室が一瞬、緊張に包まれる。いつものことだ。まふゆが当てられると、クラスの全員が息を詰める。答えられなくて恥をかく可能性ではなく、その返答の「温度」に備えるためだ。


 まふゆが立ち上がった。


「……三十八ページ。三行目の公式を適用して、x=4」


 正答。最短ルートで。

 余計な解説なし。声のトーンは平坦。機械と人間の中間のような、感情の削ぎ落とされた音。


「……正解。座れ」

「……はい」


 着席。工程わずか八秒。

 周囲から溜息が漏れる。畏敬なのか安堵なのか、どちらとも取れない。


 女子A「朝凪さん、クールだよね……かっこいいけど、ちょっと怖い」

 女子B「話しかけたいけど、何言っていいか分かんない」

 男子A「話しかけたら凍死するって」

 男子B「でも美人だよなあ……」


 聞こえる範囲でそんな会話が交わされている。


 ——お前ら、あの女がピーマン食べるの嫌で三十分粘るの知ったらどう思うんだろうな。


 昨日の夕飯で、まふゆはピーマンの肉詰めを前にして固まった。フォークでつついて、ひっくり返して、眺めて、匂いを嗅いで、また眺めた。「……これ、緑」と言った。知ってる。ピーマンは緑だ。「……緑、にがい」と続けた。食べてから言え。結局、肉だけ器用に剥がして食べた。肉詰めの意味がなくなっていた。


 二限目、英語。

 ペアワークの時間。まふゆは指名されたペア相手の女子と向かい合った。


 相手の女子が明らかに緊張している。手がプリントの端を握りしめている。


「あ、朝凪さん、ここの答え……」

「……五番は過去完了。六番は関係代名詞のwhich」


 正答を渡して終了。会話のキャッチボールではなく、情報の一方通行。

 相手の女子は「あ、ありがとう……」と引き攣った笑みで頷いた。まふゆは既にプリントに視線を戻している。


 コミュニケーション能力がゼロなわけじゃない。必要な情報は正確に伝える。ただ、それ以上の会話を「いらない」と切り捨てているだけだ。省エネ。学校生活のランニングコストを極限まで削っている。


 ——その節約分のエネルギーは全部、帰宅後に俺にぶつけられるわけだが。


 三限目の休み時間。

 まふゆが水筒の蓋を開けて水を飲んだ。それだけで隣の男子が見惚れている。

 水筒の中身はほうじ茶だ。俺が毎朝淹れている。冷たいのは嫌で、ぬるいのがいい。温度にうるさい。ペットボトルの水は「……味がしない」と拒否する。贅沢と言いたいが、まふゆの味覚は妙に鋭い。


 四限目が終わった。


「じゃ、昼!」


 翔太が伸びをしながら立ち上がる。俺は弁当を取り出し、いつもの場所で食べ始めた。


 まふゆは、いない。

 昼休みのまふゆは図書室に消える。一人で。弁当を持って。あの静かな空間で、誰の視線も届かない本棚の奥で、ひっそりとタコさんウインナーを食べている。

 ——想像すると、ちょっとだけ切ない。いや、シュールか。氷の女王がタコさんウインナーにフォークを刺している図。


「なあ湊、五限サボらね?」

「寝てろ。俺は出る」

「つまんねーの」


 翔太は机に突っ伏した。こいつの昼休み後の睡眠率は九割を超えている。


 放課後。

 教室から出る生徒の流れに紛れて、俺は帰路についた。

 まふゆとは学校を出るタイミングをずらしている。あいつが先に出て、五分後に俺が出る。帰り道も別。アパートの前で合流するのは、周囲に誰もいないことを確認してからだ。


 面倒くさいと思うことはある。

 でも、このルールがないと、あいつは学校で「普通の人」でいられない。

 氷の女王と平凡な男子高校生が同じアパートに帰っていく姿を見られたら——想像しただけで翌日の教室が地獄になる。


 アパートの階段を上がり、101号室のドアノブに手をかける。


 鍵を回した。


 ——その瞬間。


「おかえりぃ……」


 ドアの向こうから声がした。

 甘い。低い。溶けかけたキャラメルみたいな声。

 ドアを開けると、まふゆがすでにジャージに着替えて玄関に待機していた。靴も脱いで、体育座りで。どれくらい前から待っていたのか。


「……遅い」

「五分差で歩いてるんだから仕方ないだろ」

「……三分にして」

「バレるリスクが上がる」

「……四分」

「五分」

「……四分半」


 交渉が始まった。チョコパイの時と同じパターンだ。結局折れるのは俺の方になる。


「……五分。最終回答」

「…………」


 まふゆは不満そうに唇を尖らせ——そのまま俺に飛びついてきた。


 検閲開始。

 顔を胸元に埋め、スンスンスン。


「……今日は……翔太の匂いがする」

「隣の席だからしょうがないだろ」

「……消毒」


 ぎゅう。

 抱きつく力が通常の一・三倍。翔太ごときに嫉妬しているのか。男の匂いにまで反応するのか。検閲の基準がバグっている。


「……ん。合格。湊の匂いに戻った」

「最初から俺の匂いだよ」


 まふゆがようやく離れ——ないまま、ずるずると俺を引きずってリビングに移動した。

 ソファにたどり着くと、そのまま全体重を預けてくる。俺の横に座ったかと思ったら、三秒で膝の上に移動していた。


「こら。重い」

「……軽い」

「自己申告はいらない」


 テレビのリモコンを差し出された。


「……つけて」

「自分でつけろ」

「……湊が選んで。でもニュースはやだ」

「注文が細かい」

「……バラエティがいい。でもうるさいのはやだ。あと、食べ物が出てくるやつ」

「もう指定しろよ」


 適当にチャンネルを回して、旅番組に落ち着いた。

 画面には温泉地の映像。湯気の向こうに旅館の庭が映っている。

 まふゆは膝の上で丸まったまま、ぼんやりと画面を見ている。


「……温泉。あったかそう」

「いつか行くか?」

「……湊と?」

「他に誰がいるんだよ」

「……ん。行く」


 小さな声で即答。目が少しだけ輝いた。

 ——温泉旅行の約束を軽率にしてしまった気がするが、まあいい。忘れてくれ。

 忘れてくれないだろうな、この女は。約束を一字一句記憶している。三ヶ月前の「今度クレープ食べに行こう」がまだ未消化だと昨日言われた。


 まふゆが体勢を変えた。膝の上に横になり、俺の太ももを枕にしている。銀色の髪が膝の上に広がって、さらさらと布地の上を滑る。


「……充電」

「さっきもしただろ」

「……足りない。学校で減った」


 すぅ、と呼吸が穏やかになっていく。

 テレビの音だけが流れる。まふゆの体重が膝に馴染む。


 四時間前、この女は教室で三十人の空気を凍らせていた。ペアワークの相手を一言で黙らせていた。クラスメイトに「怖い」と囁かれていた。


 今、チャンネル権を放棄した上で俺の膝を枕にして、靴下がずれたまま眠りかけている。


 ——落差がえぐい。


 同一人物なのに。まるで二人の人間が入れ替わっているみたいだ。


 でも、どっちもまふゆだ。

 氷の女王も、溶解スライムも。

 どっちか一方だけじゃ、こいつは成り立たない。


 外で張り詰めた分だけ、ここで溶ける。

 ここで溶けた分だけ、明日また張り詰められる。


 俺はその循環の片方を担っているだけだ。

 充電器。湊充電器。

 スマホかよ、と毎回思うけど——まあ、あいつのバッテリーが切れるよりはマシだ。


「……みなと」

「……起きてたのか」

「……起きてない」

「起きてるだろ」

「……夢の中の湊に話してる」


 何を言っているんだこいつは。


「……夢の中の湊は、チョコパイ食べ放題にしてくれる」

「夢から覚めるな」

「……やだ。夢のほうがいい」


 嘘だ。帰ってきた瞬間の「おかえり」の嬉しそうな顔を見てる。夢より現実の方がいいに決まっている。


 まふゆが寝返りを打った。

 俺の腹に額を押し付ける形になる。Tシャツ越しにひんやりした額の温度が伝わってきた。


「……おなかすいた」

「まだ四時だぞ」

「……四時でもおなかはすく」

「反論できない」


 仕方なく、まふゆを膝から降ろす——が、降りない。腕でしがみつかれている。


「離せ」

「……あと三分」

「交渉するな。飯作れない」

「……じゃあおんぶしてキッチンまで行って」


 おんぶしてキッチン。おんぶして料理はさすがに無理だ。


「降りろ」

「…………」


 まふゆは五秒間黙った後、観念したように膝から滑り落ちた。

 その落ち方がまた液体みたいで、ソファの上にべちゃっと伸びる。重力に逆らう気力がゼロ。


「……はやくつくって」

「待ってろ」


 キッチンに立つ。

 冷蔵庫から卵と鶏肉を取り出し、フライパンを温め始めた。今日の夕飯はオムライス——ではなく、親子丼にしてみよう。たまには和食も食べてほしい。


「……まふ、オムライスがいい」

「親子丼」

「…………」


 カウンターの向こうから、まふゆが頬杖をついてこちらを見ていた。

 ジャージの袖が長すぎて手先が隠れている。猫の手みたいになった袖の先で、カウンターの天板をとんとんと叩いている。


「……親子丼、卵ある?」

「ある」

「……鶏肉は?」

「ある」

「……じゃあ、オムライスでもいい素材があるのに」


 論破しようとするな。


「親子丼。栄養バランスを考えろ」

「……オムライスにもバランスある。卵とケチャップとごはん」

「ケチャップは栄養じゃない」


 まふゆは不服そうに頬を膨らませたが、出汁が煮立つ匂いがキッチンに広がると、鼻をひくひくさせ始めた。


「……いい匂い」

「だろ」

「……負けた」


 素直に降参した。匂いに弱い。嗅覚が感情を支配するタイプだ。


 親子丼を二つの器に盛りつける。三つ葉を乗せて、七味を軽く振った。

 テーブルに並べると、まふゆがもう座っていた。箸を握って待機完了。行動が速い。


「いただきます」

「……いただきます」


 一口食べて、まふゆの目が細くなった。


「……おいしい」

「だろ」

「……でもオムライスのほうが好き」

「素直じゃないな」

「……素直。オムライスが一番で、二番が親子丼。素直」


 順位つけるな。


 食後。

 まふゆが食器を流しに持っていこうとした——が、途中でスプーンを落とした。拾おうとして膝をテーブルの角にぶつけた。「……いたい」と小さく言って、スプーンを拾わずに俺を見た。


「…………」

「自分で拾え」

「……いたい」


 結局俺が拾った。

 生活能力、依然としてゼロ。


 風呂上がり。

 まふゆはドライヤーを持って俺の前に立った。


「……乾かして」

「自分でやれるだろ」

「……腕がだるい」


 濡れた銀髪からシャンプーの匂いが漂ってくる。

 毎晩のことだが、甘い匂いが至近距離で鼻腔を満たすと、脳の処理が一瞬遅れる。


 ドライヤーのスイッチを入れる。温風が銀色の髪を揺らし、部屋に甘い匂いが充満する。まふゆは目を閉じて、気持ちよさそうに首を傾けている。


「……きもちぃ」


 言い方。


 髪を乾かし終わると、まふゆは俺のTシャツの裾を掴んだまま、寝室に向かった。

 布団に入り、こちらを見る。


「……充電」

「今日三回目だぞ」

「……バッテリー容量、減った」

「劣化すんなよ」


 まふゆが手を伸ばしてくる。その指先はひんやりしていて、俺の手首を掴むとそのまま離さない。


「……五分」

「三分」

「……四分」

「……四分」


 妥協点。

 まふゆが俺の腕に額を押し付け、目を閉じた。呼吸がゆっくりになっていく。


 四分後、時計を確認する。


「はい、終了」

「…………」

「寝たか」


 返事がない。

 完全に寝落ちしている。四分の充電で電源が切れた。燃費が悪い。


 握られた手首を、一本ずつ指を外して解放する。

 まふゆは寝ぼけながら「……ん」と呟いて、枕を抱き寄せた。俺の手首の代替品。


 電気を消す。

 暗闇の中、まふゆの寝息だけが響く。すぅ、すぅ、と規則正しい音。時折、むにゃむにゃと何か言っている。聞き取れないが、おそらく食べ物系だろう。


 天井を見上げる。


 今日一日を振り返ると、同一人物のギャップに振り回された十六時間だった。

 クラスを凍らせていた女が、膝の上で温泉行きたいと言い、チャンネル権を放棄し、親子丼の匂いに降伏し、髪を乾かしてもらって「きもちぃ」と言い、四分の充電で寝落ちした。


 この落差を知っているのは、世界で俺だけ。

 その事実が、どうしようもなく心地いい。


 ——その心地よさの正体に、名前をつけたら負けだと思っている。


 まふゆの寝息を聞きながら、目を閉じた。

 明日もこの二重生活は続く。

 氷の女王と溶解スライムの間で、俺は今日も充電器を務める。


 最後に耳に届いた寝言は——


「……おむらいす……かおかいて……」


 明日の朝飯はオムライスに決定した。

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