第2話:大きすぎるTシャツ
「お借りします……」
消え入りそうな声と共に、まふゆが洗面所のドアを閉めた。
カチャリ、と鍵のかかる音が響く。
その小さな金属音が、俺たちの間に引かれた境界線のように感じられた。
一〇一号室のリビング。
俺はソファーに深く腰掛け、無意味にテレビのリモコンを弄っていた。
画面には深夜のニュース番組が映っているが、内容は全く頭に入ってこない。
意識の全てが、壁一枚隔てた向こう側――バスルームに向けられているからだ。
シャー――……。
シャワーの音が聞こえ始めた。
水の流れる音。
それが、嫌でも想像力を掻き立てる。
今、この壁の向こうで、俺の幼馴染が衣服を脱ぎ、その身を晒している。
かつて一緒にお風呂に入っていた頃の、無邪気な「まふちゃん」ではない。
十六歳になり、誰もが振り返るほどの美貌と、女性らしい曲線を備えた「朝凪真冬」が、そこにいるのだ。
「……落ち着け、俺」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、冷めたコーヒーを煽った。
意識するなという方が無理だ。
俺は聖人君子でもなければ、枯れた老人でもない。
健全な男子高校生だ。
十年ぶりの再会。いきなりの同居(仮)。そして入浴。
イベントの進行スピードが早すぎる。
ジェットコースターどころか、ロケットで成層圏までぶっ飛ばされた気分だ。
(早くあがってくれ……)
俺はクッションを抱きしめ、天井を睢んだ。
三十分ほどが経過しただろうか。
永遠にも感じられたシャワーの音が止んだ。
しばらくして、ドライヤーの音が……聞こえてこない。
代わりに、カチャリとドアの開く音がした。
「……湊」
呼ばれて、恐る恐る振り返る。
そこには、俺の理性を粉々に粉砕する光景が広がっていた。
「……あ、あがったか」
声が裏返るのを止められなかった。
まふゆが立っていた。
風呂上がりの湿った空気を纏い、頬をほんのりと桜色に染めて。
濡れた銀髪が首筋に張り付き、水滴が鎖骨を伝って滑り落ちていく。
そして何より問題なのは、彼女が身につけている服だ。
俺の黒いTシャツ。
サイズが大きすぎて、完全にワンピース状態になっている。
その裾から伸びる、驚くほど白くて滑らかな太もも。
「……なんで俺の服?」
「パジャマ、段ボールの奥で出せなかった」
「……そうか。まあ、いいけど」
嘘だ。
いや、嘘ではないかもしれないが、俺のジャージの下も貸したはずだ。
なぜ上しか着ていない?
なぜ下を履かない?
これは何かの罠か? 俺の紳士協定の潜在力を試しているのか?
——違う。そうじゃない。
俺は今、彼女を「女」として見ている。
十年前の幼馴染みじゃない。安心できる存在でもない。守るべき存在でもない。
ただの「女」だ。
股の付け根が見えそうな裾。湿った髮が張り付く首筋。鎖骨を伝う水滴。
その全てが、俺の中の男の部分を刺激している。
最低だ。
こんな状態の子を前にして、何を考えている。助けを求めている子供に欲情を向けるなんて、人間として終わっている。
——でも、目が移らない。
目のやり場に困り、俺はテレビの隅に表示されている時刻表示を凝視した。
まふゆはそんな俺の動揺など露知らず、ぺたぺたと裸足で近づいてきた。
フローリングを歩く足音が、俺の心臓の上を歩いているように響く。
そして、当たり前のように俺の隣にちょこんと座った。
ソファーが沈む。
ふわ、と石鹸の香りが漂う。
俺が普段使っている安物のボディソープのはずなのに、彼女の肌を通すと、なぜこんなにも甘く、高級な花の香りのように感じるのだろう。
「……湊」
「な、なんだよ」
「髪、乾かして」
「は?」
「ドライヤー重い。手、上がらない」
「お前なぁ……自分のことくらい自分で……」
文句を言おうとして、彼女の顔を見て言葉が止まった。
まふゆは、とろんとした瞳で俺を見上げている。
そこには媚びも計算もなく、ただ純粋な信頼と、甘えだけがあった。
十年前、遊び疲れて俺におぶさってきた時と同じ目だ。
拒絶されることなんて微塵も考えていない、絶対的な安心感。
——そして、その腕。
ドライヤーを持ち上げようとしている、細い腕。
折れそうだ。
俺の半分もないんじゃないか。
白くて、華奢で、今にも折れてしまいそうな手首。
こんな子が、寒い部屋で一人で座り込んでいた。
その事実が、胸の奥を身縫い。
「……一回だけだぞ」
俺は深く溜息をつき、観念して立ち上がった。
洗面所からドライヤーとバスタオルを持ってくる。
コンセントに繋ぎ、スイッチを入れる。
ゴォーッという音が、沈黙を埋めた。
「ほら、こっち向け」
「ん」
まふゆは素直に背中を向けた。
俺は彼女の濡れた髪に指を通す。 ——手が、震えた。
触れてはいけないものに触れている。そんな感覚が、指先から脊椎を伝って上がってくる。
十年前なら、何とも思わなかった。幼馴染みの髮に触れるだけだった。
でも今は違う。この指は、「女の髮」に触れている。 驚くほど柔らかく、そして冷たい。
一本一本が絹糸のように繊細で、指に絡みつく感触が心地よい。
温風を当てながら、丁寧に乾かしていく。
俺の手が耳の裏や首筋に触れるたび、まふゆの身体がビクンと小さく跳ねるのが分かった。
「……あったかい」
まふゆが猫のように目を細め、気持ちよさそうに呟く。 その拍子に、彼女が小さく身じろいだ。
肩をすくめるように背中を丸め、首筋が露出する。
白い。
怖いくらい、白い。
温風で温まった首筋に、水滴が一箋伝っていく。
それを目で追ってしまった。
首から、肩へ。
肩から、鎖骨へ。
そしてその先は——
——ぱちん。
俺は自分の頬を張った。
「ひゃっ! み、湊?」
「なんでもない。眼覚まし」
「なんで自分で叩くの……?」
「眼覚まし。寝ぼけてた」
嘘だ。今、俺は——いや、考えるな。
まふゆは「変な湊」と呟きながら、また元の体勢に戻った。 その無防備な背中を見ていると、俺の中にある黒い感情と、庇護欲がないまぜになって渦巻く。
こいつは、自分がどれだけ危険な状態にあるのか分かっているのか。
十年の空白なんて無かったかのように振る舞っているが、俺たちはもう子供じゃない。
異性なのだ。
「……おい、まふゆ」
「なぁに?」
「お前、警戒心って言葉を知ってるか?」
「知ってる。……知らない人について行っちゃダメ」
「俺も男だぞ。襲われるかも、とか思わないのか」
半分冗談、半分本気の警告。
しかし、まふゆの反応は予想の斜め上を行くものだった。
彼女はくるりと振り返り、キョトンとした顔で俺を見た。
一瞬、その瞳が揺れた。
何かを言おうとして、躌躇うように唇を開いて、閉じて、また開いた。
——言っていいのか、迷っている。
その迷いが、一瞬で消えた。
まるで、「湊だから」という結論にたどり着いたように。
「湊なら、いいよ」
「……はい?」
「湊なら、何されてもいい」
時が止まった。
いや、違う。
彼女の瞳を見れば分かる。
そこにあるのは、性的な同意などではない。
もっと根源的な、家族や自分の半身に対するような許容だ。
彼女の中で、俺は「異性」というカテゴリに分類されていない。
ただの「湊」なのだ。
安全地帯。家具の一部。空気。
だから、警戒する必要がない。
――それが、嬉しいのか悲しいのか、俺には分からなかった。
「……お前なぁ」
俺は脱力して、ドライヤーのスイッチを切った。
勝てない。
この天然の要塞には、どんな理屈も通用しない。
それが少しだけ、いや、かなり悔しかった。
男として見られていないという事実が、俺のプライドをちくりと刺す。
俺は追加のタオルを取りに立ち上がった。
洗面所の棚から新しいタオルを引き抜き、そっとまふゆの肩に掛ける。
細い肩がふわりと持ち上がり、湯気を含んだ空気が揺れた。
髪から落ちる水滴が、フローリングに小さな点を作る。
それを見た途端、頭の中の「家事担当」のスイッチが勝手に入る。
「濡れたままだと風邪引くぞ。座れ」
「……ん」
まふゆは大人しくソファーに座り、俺はドライヤーの温風を当てる。
指先で髪を梳きながら、目線は絶対に首より上。
さっきまでの動揺を、生活の段取りで上書きしていく。
乾かす、整える、褒める。そういうルーティンでしか、俺はこの距離を耐えられない。
銀髪が乾くにつれ、部屋の中に石鹸の甘い匂いが満ちていく。
俺の手がその匂いを拾い、彼女がそれを確かめる。
この循環が、俺たちの「同居」を現実にしていた。
「……湊、目、閉じてる?」
「閉じてる」
「……じゃあ、信じる」
信じられる相手でいられることが、嬉しくて怖い。
守るって言葉は、こういう小さな行為の積み重ねなんだと、ようやく分かってきた。
「……乾いたぞ」
「ん。ありがと」
まふゆは自分の髪を触り、満足げに頷いた。
サラサラになった銀髪が、照明を受けて天使の輪を描く。
その美しさに、俺は一瞬見惚れてしまった。
「……いい匂い」
「シャンプーの匂いだろ」
「ううん。湊の手の匂い」
まふゆは俺の手を取り、自分の頬に押し当てた。
手のひらに伝わる、柔らかくて温かい感触。
彼女の体温が、直接俺の中に流れ込んでくるようだ。
「……湊の手、好き。大きくて、ごつごつしてて、あったかい」
「……そうかよ」
「ずっと、こうしてて」
甘えるような声。
上目遣いの攻撃力は、カンストしている。
その瞬間、まふゆが俺の手を自分の頬から離さないまま、目を閉じた。
長い睫毛が、頬に影を落とす。
吐息が、俺の手のひらにかかる。
温かい。
柔らかい。
この子は、俺をどうしたいんだ。
「……まふゆ」
「……ん」
「……お前、ずるいぞ」
「……知ってる」
薄く開いた瞳が、俺を見上げる。
その瞳には、確かに甘えがあった。
でも、それだけじゃない。
十年分の寂しさと、俺への信頼が、全部詰まっている気がした。
俺は照れ隠しに、彼女の頭をワシャワシャと乱暴に撫でた。
「寝るぞ。明日は土曜だけど、お前の部屋の片付けがあるからな」
「えー……面倒くさい」
「面倒くさいじゃない。あの段ボール要塞をどうにかしないと、一生ここで暮らすことになるぞ」
「……それでもいい」
「俺が良くないんだよ!」
俺はまふゆの頭から手を離し、逃げるように立ち上がった。
これ以上、この甘い空気に浸っていたら、本当に理性が決壊してしまう。
お風呂上がり。
大きすぎるTシャツ。
無防備な幼馴染。
この三連コンボは、俺の精神衛生上、あまりにも危険すぎた。
「ほら、歯磨いて寝るぞ」
「……はーい」
まふゆは不満げに頬を膨らませながらも、素直に立ち上がった。
Tシャツの裾が揺れ、白い太ももがチラリと見える。
俺は心の中で般若心経の二週目を唱えながら、洗面所へと向かった。
---
布団を敷き直し、濡れたタオルを干す。
慣れた家事の手順で動いていると、さっきまでの動揺が少しずつ薄れる。
それでも、まふゆの気配だけは濃いままだ。
同じ部屋にいるだけで、空気の温度が変わる。
彼女はソファーに丸まり、膝を抱えてテレビを見ている。
画面の内容よりも音の方を聞いている。無音が怖いのだろう。
それに気づいてから、俺は少しだけ優しくなれた。
窓の外では雨がまだ降っている。
その音が、彼女の呼吸と混ざって、部屋を満たしていく。
俺はソファーの端に腰を下ろし、手元のリモコンを握ったまま時間を見送る。
何もしない時間が、今は一番必要な気がした。
時計の針が少しだけ進む。
まふゆの瞼が重くなり、肩がゆっくりと落ちていく。
俺はその様子を見守りながら、明日の段取りを頭の中で整理した。
守るための準備は、いつだって静かな時間にやるのが一番だ。
テレビの音量を少しだけ下げる。
まふゆがそれに気づいて、うとうとと瞼を閉じた。
俺はリモコンを置き、肩に掛けられていたタオルをそっと直す。
それだけで、今夜の役目を果たした気がした。
——けれど、胸の奥に小さな棘が刺さっている。
さっき、まふゆの荷物を探している時に見えた段ボールのラベル。
『まふゆの部屋用・母より』と、流麗な文字で書かれていた。
世界的デザイナーの筆跡。俺も知っている名前。
朝凪今日子——まふゆの母親。
十年前は、ほとんど姿を見なかった。
いつも海外にいて、たまに帰ってきても、まふゆを連れて出かけてばかりで。
あの頃のまふゆは、母親の話をする時だけ、少しだけ表情が強張っていた。
今のまふゆは、一人暮らし。
母親からの連絡もなく、ライフラインの手続きすら放置されていた。
——それは、ネグレクトと呼ぶべきなのか。
それとも、何か別の事情があるのか。
聞きたいことはたくさんある。
でも今夜じゃない。今夜は、まず彼女を安心させることが先だ。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
その音が、なぜか警報のように聞こえた。
この温かい時間が、いつか壊れる前触れのように。
——考えすぎだ。
俺は首を振り、まふゆの寝顔を見下ろした。
今は、この平穏を守ることだけを考えよう。
それが、俺にできる唯一のことだから。
照明を少し落とす。
部屋の中の影が柔らかくなり、まふゆの横顔が穏やかに見えた。
この夜が、少しでも彼女の孤独を薄めてくれることを願った。
俺はそっとカーテンを閉め、外の冷気を遮った。
まふゆの肩に毛布を掛けると、彼女は小さく身を縮めた。
その反応だけで、今夜は十分だと思えた。
「……んぅ……みなとぉ……」
まふゆが寝言と共に、俺の袖をきゅっと掴んできた。
無意識の動き。
夢の中でも、俺を探している。
その事実が、胸を締め付ける。
俺はため息をつきつつも、離れないようにそっと彼女の肩を抱き寄せた。
長い夜になりそうだ。
俺の理性が保てばいいけど。
——ふと、窓の外に視線を向けた。
雨に濡れた窓ガラス越しに、アパートの廊下が見える。
誰もいない。
当たり前だ。深夜だし、こんな雨の中を歩く人間なんていない。
でも、一瞬だけ。
視線を感じた気がした。
監視するような、冷たい視線。
——気のせいか。
俺は首を横に振り、まふゆの方に意識を戻した。
彼女は俺の胸に顔を埋めて、穏やかに寝息を立てている。
この子にとって、俺は安全地帯だ。
なら、俺がしっかりしなきゃいけない。
でも、胸の奥に小さな棘が刺さったままだ。
この幸せは、いつまで続く?
誰かに見つかったら、どうなる?
学校でバレたら——親にバレたら——
考えるな。
今は、考えるな。
俺は目を閉じ、まふゆの温もりに意識を委ねた。
でも、不安の種は、確かに心の片隅に蒔かれていた。




