第22話:冬月の警告
翌日。朝の検閲は復活していた。
「……スンスン。合格」
「昨日の分もやるのか」
「……昨日は非常事態だった。今日は通常運転」
まふゆの目はまだ少し腫れていた。でも表情は通常に戻っている。
昨日のことをなかったことにする——俺が「聞かなかったことにする」と言ったのだから、まふゆもそれに従っている。
学校。いつもの席。いつもの距離。
背中に視線を感じる。今日は、感じる。
まふゆの視線は、昨日を境に変わった——と思いたいが、たぶん変わっていない。変わったのは俺の受信感度の方だ。
3限と4限の間の休み時間。
廊下を歩いていると、冬月が待ち構えていた。
腕を組み、壁に背を預けている。眼鏡の奥の目が、鋭い。
「夏目くん。少し時間をもらえますか」
「……なんだよ」
「昨日の件について」
心臓が一拍飛んだ。
「昨日、保健室前のことです。私は二階の窓から確認しました」
二階の窓。——双眼鏡だ。あの女、双眼鏡で監視していたのか。
「朝凪さんとの接触。距離の異常な近さ。そして朝凪さんの逃走。……事実確認です」
冬月がバインダーを開いた。そこには日付と時刻と「保健室横・廊下・接触事故」と書かれている。
「冬月。あれは偶然ぶつかっただけだ」
「偶然の衝突であなたが朝凪さんの腰を抱く必要がありましたか?」
「……庇っただけだ。倒れそうだったから」
「では、朝凪さんが走り去った後、あなたが壁に寄りかかったまま三分間動けなかった理由は?」
三分間まで計測されていた。この女のストーカー性能は公安レベルだ。
「冬月、お前——」
「夏目くん」
冬月の声のトーンが変わった。いつもの風紀委員の事務的な声ではない。
「あやふやな関係は、破滅を招きます」
廊下の空気が冷えた。
「私は——中学の時に、それを見ました」
冬月が眼鏡を押し上げた。反射で目元が隠れる。
「友人がいました。親しい男子と、曖昧な関係を続けていた。付き合ってはいない。でも誰が見ても恋人同士。本人たちだけが認めない」
冬月の声が小さくなった。
「周囲が噂しました。からかわれ、茶化され、晒されました。結果——その友人は、学校に来なくなりました。……それきり」
冬月の声が掠れた。「それきり」の先に何があるのか——聞けなかった。
沈黙。
「曖昧は、時に人を壊します。名前のない関係は、どこにも逃げ場がないから」
冬月が真っ直ぐに俺を見た。
「あなたと朝凪さんの関係が何であれ、私は口出しする気はありません。でも——曖昧なまま放置するなら、いずれ誰かが傷つきます。あなたか。朝凪さんか。あるいは両方」
反論を探した。見つからなかった。
冬月の言葉は正しい。正しすぎて、耳が痛い。
でも——
「冬月」
「何ですか」
「お前の言ってることは分かる。曖昧が危ないってのも分かる」
言葉を選んだ。
「でも、俺たちは——ルールで距離を測ってるわけじゃない。信頼で測ってる」
冬月の眉がぴくりと動いた。
「まふゆは——朝凪は、俺を信頼してここにいる。俺も朝凪を信頼してそばにいる。名前をつける前に、やることがある。今は、それだけだ」
冬月が黙った。五秒。十秒。
「……信頼、ですか」
「ああ」
「……信頼という言葉は便利ですね。何でも包めます。恋も嫉妬も依存も、全部『信頼』で括れる」
痛いところを突かれた。
「でも、覚えておいてください。信頼は——更新しないと腐ります」
冬月がバインダーを閉じた。
「保健室の件は記録しません。ただし——次はないと思ってください」
「……サンキュ」
「感謝されることはしていません。風紀委員として当然の助言です」
冬月が去る直前。一瞬だけ振り返った。
「……朝凪さんはきっと、こう思っていますよ。『湊は私の世界を守ってくれる人』——と」
それだけ言って、冬月は廊下の角を曲がった。
残されたのは、蛍光灯の白い光と、冬月の言葉が空けた穴だ。
——「信頼は更新しないと腐る」。
分かっている。分かっているから困っている。
放課後。
帰り道はいつも通りの二人だった。手は繋がない。でも距離は半歩。肩が時々触れる。
「……湊」
「ん」
「……冬月さんと、何話してた?」
「見てたのか」
「……廊下で話してるの、見えた。湊の顔が真面目だったから」
まふゆの観察眼は相変わらず正確だ。
「風紀のことだよ。遅刻が多いから気をつけろって」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「……嘘。湊、嘘つく時、右の眉が0.5ミリ上がる」
こいつの顔面解析精度はAIより高い。
「……冬月さん、怒ってた?」
「怒ってない。心配してた」
「……何を」
「俺たちのことを」
まふゆが黙った。三歩分の沈黙。
「……冬月さんは、まじめだから」
「ああ」
「……でも、湊は私の味方でしょ」
「味方だよ」
「……じゃあ、大丈夫」
大丈夫——か。お前がそう言うなら、そうなのかもしれない。
でも冬月の言葉が頭から離れない。
「曖昧なまま放置するなら、いずれ誰かが傷つく」。
帰宅後。検閲。合格。充電。十分。
充電中、まふゆが小さく呟いた。
「……湊がいれば、世界は大丈夫」
それは信頼の言葉だ。
でも同時に——俺が消えたら世界も終わる、という意味でもある。
冬月の言葉が、もう一度反響した。
「信頼は更新しないと腐る」
オムライスのケチャップを手に取った。今日は何を書こうか。
迷った末に、小さくハートマークを描いた。
まふゆが覗き込んだ。
「…………」
「……深い意味はない。手が滑った」
「……手が滑ってハートって、どういう手だよ」
「今お前ツッコミ側に回ったぞ」
まふゆの口角が上がった。0.3ミリ。
——今日は、0.3ミリの笑顔でいい。
冬月が見守っている。翔太が察している。まふゆは「すき」と言ってしまった。
何かが動き始めている。
ゆっくりと。確実に。
でも今は——オムライスを食べよう。
難しいことは、明日考える。




