第21話:接触事故と溢れた本音
体育祭から三日後。日常が戻ってきた——はずだった。
問題が一つある。
帰り道で手を繋いでしまった、という事実が、まだ手のひらにこびりついている。
教室で。廊下で。まふゆの姿が視界に入るたびに、右手がうずく。
あの恋人繋ぎの感触が、消えてくれない。
——考えるな。あれは体育祭のテンションだ。
4限目が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。
弁当を取りに教室の後ろのロッカーへ向かう。
廊下に出る。保健室横の角を曲がろうとした瞬間——
どん。
正面衝突。
頭のてっぺんが顎に当たった。衝撃で相手がよろける。反射的に腕が動いた。腰に手を回して引き寄せ、壁に背中をぶつけて衝撃を吸収する。
シャンプーの匂い。銀色の髪。
——まふゆだ。
状況を整理する。
俺の背中が壁。まふゆが俺の胸元。俺の右腕がまふゆの腰を抱いている。左手は壁について体を支えている。
壁ドン——じゃない。逆だ。壁を背にしているのは俺だ。壁背負いドン。
何の状況だよ。
「大丈——」
声が出かけた。
まふゆの顔が、至近距離にあった。十センチ。睫毛の本数が数えられる距離。
瞳が揺れている。
いつもの氷の女王の目じゃない。透明な灰青色の瞳の中に、何かが溢れかけている。
廊下に人影はない。保健室横は昼休みの死角だ。
まふゆの唇が開いた。
「……ん、すき」
——は?
音が、漏れた。
声というには小さすぎる。吐息というには輪郭がはっきりしすぎている。
「すき」。
二文字が、耳の奥で反響した。
まふゆの顔が、一瞬で沸騰した。耳まで真っ赤だ。目が見開かれている。自分が何を言ったか理解した顔。
「——っ」
腰を掴んでいた俺の腕を振り払って、まふゆが走った。
銀色の髪が廊下の向こうに消えていく。
廃墟みたいに静まり返った保健室の前で、俺は壁に背中をつけたまま動けなかった。
心臓が暴走している。
——「すき」。
……聞き間違いじゃない。あの唇の動き、あの吐息の温度、あの瞳の色。
聞き間違えようがない。
手のひらを見た。さっきまふゆの腰を抱いた右手。まだ、体温が残っている。
——落ち着け。
考えろ。あれは、衝突の衝撃で出た言葉だ。驚いて口が滑っただけだ。まふゆはいつも俺の前で「好き」とか「嫌い」とか、子供みたいに口にしていた。意味なんて——
いや。
あの「すき」は、いつもの「すき」と違った。
家で「オムライス好き」「湊のパーカー好き」と言う時の「好き」じゃない。声の質が違う。温度が違う。重力が違う。
午後の授業は何も頭に入らなかった。
まふゆの席は俺の後ろだ。背中に視線を感じる——いつもなら感じるはずの視線が、今日はない。
振り返りたい。振り返れない。
6限目が終わった。HRが終わった。放課後になった。
まふゆはHRの途中で早退した。体調不良という名目で。
廊下で翔太が追いついてきた。
「なあ、夏目」
「ん」
「昼、保健室の前でお前と朝凪が——いや、気のせいか」
「……何の話だ」
「別に。なんか距離近かったなーと思っただけ」
翔太の目が笑っていない。こいつの笑わない目は「全部見えてる」のサインだ。
「偶然ぶつかっただけだ」
「ふーん。偶然ね」
翔太は肩をすくめて去った。
——見られていたのか。どこまで見えていたかは分からない。
帰宅。
101号室のドアを開ける。
リビングは暗い。カーテンが閉まっている。
「……ただいま」
返事がない。
靴箱にまふゆの靴がある。帰ってはいるのだ。
リビングを抜けて、奥の部屋を覗く。
布団の中に、まふゆが丸まっていた。イモムシ状態。掛け布団を頭まで被っている。
「……おい」
「……」
「検閲は」
「……きょうは、いい」
「お前が検閲スキップするの初めてだぞ」
「……」
布団の端が微かに震えている。
ソファに座った。
リビングの時計の音だけが聞こえる。
十分。
布団がもそもそ動いた。
まふゆが這い出してきた。目が赤い。泣いた跡がある。
俺の後ろに回った。背中に額を押し付けてきた。
「……湊」
「ん」
「……さっきの」
「……ああ」
「……間違ってない」
声が小さかった。でも、聞こえた。
「……間違ってないの。出ちゃったの。止められなかった」
背中が熱い。まふゆの額の温度。
「……嫌いになった?」
「なるわけないだろ」
即答していた。考える前に口が動いた。
まふゆの手が、俺のシャツの裾を掴んだ。
「……ほんと?」
「ほんとだ」
「……湊は、怒ってない?」
「怒ってない」
「……変に、思わない?」
「……」
変に思わないか、と聞かれたら——嘘になる。
変に思っている。ただし、まふゆのことを「変だ」と思っているのではない。
俺自身の心臓が、あの二文字を聞いた瞬間から正常に戻らないことを、「変だ」と思っている。
「……変には、思わない」
半分嘘で、半分本当だ。
まふゆがシャツの裾を強く握った。
「……充電。長めに」
「……了解」
振り返った。
まふゆが正面から抱きついてきた。
いつもの充電。——のはずだ。
なのに。
体育祭の後から、ずっとおかしい。まふゆの体温を、前より熱く感じる。心臓の音が、前より大きく聞こえる。髪の匂いが、前より深く入ってくる。
同じ儀式なのに。何も変わっていないのに。
——変わったのは俺の方だ。
まふゆが顔を上げた。目が赤い。鼻も赤い。
「……出てきちゃった物は、戻せないよ」
「……そうだな」
「……だから、聞かなかったことにして」
「……」
無茶を言う。
聞かなかったことにしろ、と言われても。
俺の鼓膜は、あの二文字を確かに拾ってしまった。消去できない。
でも。
「……分かった。聞かなかったことにする」
今はそう言うしかなかった。
まふゆが俺の胸に顔を埋めた。
「……嘘つき」
小さな声が、胸の奥に落ちた。
時計の音だけが流れていく。
十五分。充電にしては長い。
まふゆの手が、俺の背中で小さな文字を書いている。
一画。二画。
——読めなかった。読まないことにした。
たぶん、さっきと同じ二文字だ。
窓の外で、夏の始まりを告げる蝉が一匹、フライングで鳴いていた。




