第20話:打ち上げと、最初の影
翌日。体育祭の代休。
——のはずが、翔太が教室で打ち上げをやると言い出した。
「代休なのになぜ学校に来なきゃいけないんだ」
「打ち上げに理由はいらねえの! 優勝したんだぞ!」
クラスの半分以上が集まった。机をくっつけて、コンビニで買い出したお菓子と飲み物を並べる。
翔太が前に立った。
「えー、赤組優勝おめでとう! 乾杯!」
「「「乾杯!」」」
紙コップのジュースが掲げられる。教室に笑い声が広がった。
まふゆは教室の隅に座っていた。氷の女王モード。でも、こういう場にちゃんと来たのは珍しい。
「朝凪さん、100メートルすごかったよ!」と女子が話しかける。まふゆは「……ありがとう」と最小限の返答。でも、逃げはしない。
翔太がスマホで撮った体育祭の写真をテレビに映し始めた。
「はいこれ、応援団の写真ー。俺のポーズ完璧じゃね?」
「自撮りばっかりじゃん」
「いや、ちゃんと競技の写真もあるから」
スライドショーが流れる。
綱引き。玉入れ。騎馬戦。
そして——借り物競争の写真。
まふゆが俺の手を引いて走っている。恋人繋ぎ。銀色の髪がなびいている。
教室が「おおーっ!」と湧いた。
「この写真ヤバくない?」「朝凪さんと夏目、マジで映画みたい」「手、繋いでるし」
まふゆの耳が赤くなった。でも表情は変わらない。鉄壁。
「翔太。次の写真にしろ」
「えー、いい写真だろこれ」
「次」
「はいはい」
翔太がニヤニヤしながらスライドを送った。
次の写真。ゴール直後。俺とまふゆが並んで立っている。まだ手が繋がっている。まふゆの横顔が夕日に照らされている。
「……これもいい写真だな」
「翔太」
「分かった分かった。送っとくから」
「いらない」
「いいから受け取れ」
打ち上げは一時間ほどで終わった。
教室を片付けて、みんなが帰り始める。
「夏目ー、またなー」
「おう」
「朝凪さんもお疲れー」
「……お疲れさまでした」
クラスメイトが去っていく。
最後に残ったのは、俺とまふゆと翔太。
「じゃ、俺も帰るわ。お前らも早く帰れよ」
「ああ」
翔太が教室を出ていった。
二人きりの教室。
まふゆが窓際の席に座っていた。俺の席の後ろ。いつもの位置。
「……帰るか」
「……もう少しだけ」
まふゆが窓の外を見ていた。
校庭は昨日の体育祭の片付けが終わって、普段の姿に戻っている。白線は消え、テントの跡だけが芝に残っている。
「……昨日のこと」
「ん」
「……みんなの前で、湊の手を取ったこと」
「ああ」
「……後悔してない」
まふゆの声は、静かだった。
「……でも、びっくりした。自分でも。迷わなかったことに」
窓から風が入ってきた。まふゆの髪が揺れる。
「……カードを見た時、頭の中に湊しかいなかった。『大切な相棒』って書いてあって——体が勝手に動いた」
「……」
「……クラスのみんなに見られて、学年のみんなに見られて。でも、怖くなかった」
まふゆが俺を見た。
「……湊がいたから」
五歳児の声じゃなかった。
氷の女王の声でもなかった。
十五歳の——朝凪まふゆの声だった。
「……帰ろう」
「ああ」
教室を出る。廊下を歩く。靴を履き替える。
校門を出て、いつもの帰り道。
「……湊」
「ん」
「……手」
まふゆが手を伸ばした。
逡巡した。一秒。
——繋いだ。
昨日と同じように。帰り道だけ。
まふゆの指が俺の指の間に入り込んだ。恋人繋ぎ。冷たい指先が、少しずつ温まっていく。
商店街を抜ける。あの卵のおばちゃんの店は今日は定休日だ。
住宅街に入る。夕方の空気。遠くで子供が遊ぶ声が聞こえる。
アパートに着いた。
手を離す。
「ただいま」
「……ただいま」
玄関で靴を脱ぐ。
まふゆが俺の前に立った。
「……充電」
「はいはい」
「……今日は、多めに」
まふゆが俺に抱きついた。
いつもの充電——のはずだ。
でも、今日はいつもより強い。腕に力が入っている。
そして、心臓がいつもよりうるさい。
借り物競争で手を繋いだ感触が、まだ手のひらに残っている。同じハグのはずなのに——まふゆの体温が前より熱く感じる。髪の匂いが前より近く感じる。
——何かが違う。まふゆが変わったのか。
いや。変わったのは、たぶん俺の方だ。
五分。十分。
「……長くないか」
「……もうちょっと」
「十分経ったぞ」
「……体育祭の分」
「昨日の分は昨日充電しただろ」
「……足りなかった」
十五分。
まふゆの体温が俺の胸に染みこんでくる。シャンプーの匂い。柔軟剤の匂い。そして、まふゆだけの匂い。
「……湊」
「ん」
「……体育祭、楽しかった」
「ああ」
「……二人三脚で一位取れて、借り物競争で一位取れて」
「頑張ったな」
「……うん。頑張った」
まふゆが顔を上げた。俺の胸元から。
「……湊と走れてよかった」
目が潤んでいる。泣いてはいない。でも、感情が溢れかけている。
「……みんなの前で、湊を選べてよかった」
心臓が跳ねた。
まふゆの言葉が、胸の奥に落ちていく。重い。温かい。
「……みんなの前で、湊を選べてよかった」
二度、同じことを言った。
大事なことだから二度言ったのか。自分に確認するように言ったのか。
「……ああ。俺も」
声が掠れた。
「……俺も、お前に選ばれて——よかった」
自分で何を言っているのか分からない。
でも、嘘じゃない。嘘じゃないことだけは——分かる。
まふゆが微笑んだ。
この笑顔は、学校では絶対に見せない。俺の前でしか見せない。
——いや。
昨日、ゴール直後。一瞬だけ、学校で笑った。
まふゆが学校で笑ったのは、あの時が初めてだった。
何かが変わり始めている。
ゆっくりと。確実に。
まふゆが離れた。
ソファに倒れ込む。ジャージ姿。いつもの脱力モード。
「……おなかすいた」
「飯作るから待ってろ」
「……オムライスがいい」
「了解」
キッチンに立った。
フライパンにバターを溶かす。玉ねぎを炒める。
カウンターにまふゆの頬杖。いつもの観客席。
「……顔描いて」
「ケチャップで?」
「……うん」
オムライスを皿に盛る。
ケチャップを手に取る。
何を描こうか。「合格」か。「好き」か。
——今日は。
ケチャップで、「★1位★」と書いた。
まふゆが覗き込んだ。
「……一位」
「お前と俺の体育祭の成績だ」
「……」
まふゆの目が潤んだ。
でも泣かない。笑う。
「……いただきます」
「いただきます」
二人でオムライスを食べた。
テレビはつけなかった。窓の外の夕焼けだけが、リビングをオレンジに染めていた。
夜。
まふゆが眠った後。
101号室は静かだ。まふゆの寝息だけが聞こえる。
体育祭が終わった。
借り物競争で手を繋いだ。帰り道で手を繋いだ。「湊を選べてよかった」と言われた。
——何かが変わった。
前には戻れない。背中文字の夜から、ずっとそう感じていたけれど。今日、確信に変わった。
まふゆと俺の関係は——「おままごと」の枠から、はみ出し始めている。
それが嬉しいのか、怖いのか。
たぶん——両方だ。
まふゆの寝顔を見た。穏やかな顔。銀色の髪が枕に広がっている。
この日常が、ずっと続けばいいと思った。
でも、ずっと続くものなんて、本当にあるのか。
——考えるな。今日は疲れた。寝よう。
目を閉じた。
同じ頃。
102号室。
まふゆの衣装部屋。段ボールが積まれた暗い部屋の中で、床に置かれたスマートフォンの画面が光った。
着信。
画面に表示された名前——「母」。
応答なし。画面が暗くなる。
数秒後、また光る。メッセージ通知。
未読メッセージ:47件。
画面が消えた。
また光る。
闇の中で、静かに明滅を続けている。
——101号室の笑い声は、もう聞こえない。
ただ、小さなスマートフォンの光だけが、暗い部屋の中で脈を打っていた。




