第2話:同居のルール
俺たちの住処について説明しておく。
「メゾン・ナツメ」。
うちの親が所有する築二十年の二階建てアパートで、俺が管理人代理を務めている。高校生の管理人というのも妙な話だが、親が海外赴任中なので仕方ない。
一階の101号室がオーナーズルーム。2LDKの広めの間取りで、ここが俺とまふゆの生活拠点だ。キッチン、リビング、寝室。生活に必要なものは全部ここに揃っている。
隣の102号室。1DKの一般居室で、契約上はまふゆの部屋ということになっている。家賃はまふゆの母親——朝凪今日子が「養育費込み」として相場の三倍を毎月振り込んでくる。
102号室の実態はというと。
「……開けるぞ」
鍵を回してドアを開けた瞬間、段ボールの山が視界を埋め尽くした。
服。靴。バッグ。化粧品。本。全部まふゆの母の今日子が世界中から送りつけてくるもので、まふゆは一度も開封していない。部屋の奥にはベッドがあるはずだが、段ボールに阻まれて見えない。
「お前、ここ使う気あるのか」
「……ない」
即答だった。
「私の部屋は101」
「101は俺の部屋だ」
「……湊の部屋がまふの部屋」
所有権の概念がこの女にはない。
102号室は事実上「ウォークインクローゼット」として機能していた。まふゆの私物置き場。たまに俺が換気に来るだけの、誰も住まない部屋。
段ボールの山に「仮住まい感」が漂っているのが、少しだけ引っかかる。
いつでも出ていける状態。いつでも撤収できる準備。
まふゆがそれを意識しているかは分からない。たぶんしていない。ただ、荷解きに興味がないだけだ。
——そう思うことにした。
換気を済ませて101号室に戻ると、まふゆがソファで丸くなっていた。俺のジャージを着て、膝を抱えて、テレビもつけずにぼーっとしている。
「買い物行くぞ」
「……ん」
返事ひとつで立ち上がる。外出には興味ないが、俺が行くなら付いてくる。毎回そうだ。
近所のスーパーまで徒歩五分。
まふゆは俺のパーカーの裾をそっと掴んで、半歩後ろを歩く。迷子防止ではない。マーキングだ。「この人間は私のものです」という主張を、布一枚で済ませている。
自動ドアが開いた瞬間、まふゆの目の色が変わった。
——お菓子コーナーが見えたのだ。
「おい」
「……チョコパイ」
カゴにチョコパイを一箱入れた。まあ、これは想定内だ。
二箱目。
「一箱でいいだろ」
「……足りない」
三箱目。
「待て」
「……備蓄」
「何に備えるんだよ」
「……有事」
有事。チョコパイの有事とは何だ。
「三箱は多い。二箱にしろ」
まふゆが俺を見上げた。
澄んだ瞳がじわりと潤む。唇が微かに震える。
——泣き落としを使うな。
「……三箱じゃないと、まふ死んじゃう」
「チョコパイで生死が分かれるのか」
「……分かれる」
真顔で言うから性質が悪い。
俺は観念して三箱カゴに入れた。まふゆの口角がほんの少し上がる。勝利を確信した顔だ。
……調子に乗って、さらにポッキーとグミに手を伸ばし始めた。
「やめろ。予算がある」
「……湊ケチ」
「家計を守ってるんだよ」
「……大家のくせに」
大家だから節約してんだろうが。
カゴの中身。チョコパイ三箱、ポッキー二箱、グミ三袋、野菜ゼロ。
「お前の体は将来お菓子で構成されるぞ」
「……それでいい」
よくない。
ブロッコリーとほうれん草とトマトを無言でカゴに追加した。まふゆが睨んでくるが、ここは譲らない。
帰り道。買い物袋を両手に提げた俺の、パーカーの裾をまたまふゆが掴んでいる。
「持つか?」
「……重い」
「持てよ。自分のお菓子だろ」
「……湊が持つ」
「何で」
「……湊がパパだから」
そう。この生活には名前がある。
まふゆが名付けた、「おままごと」。
湊がパパで、まふがママ。ただし家事育児は全部パパが担当する。ママは食べて寝てくっつくのが仕事。
何のままごとだ。
アパートに戻る。
101号室の鍵を開けた瞬間——
まふゆが俺に抱きついてきた。
顔を胸元に埋め、スンスンと匂いを嗅ぎ始める。
「……おかえり検閲、開始」
「一緒に出かけてただろ。誰の匂いがつくんだよ」
「スーパーのレジのお姉さん」
「お釣りもらっただけだろ」
スンスン。スンスン。
まふゆの鼻先が首筋をくすぐる。吐息が鎖骨に当たって、背筋がぞくりとした。
「……合格。湊の匂いしかしない」
「当たり前だ」
「……上書き」
ぎゅう、と抱きつく力が強くなる。
自分の匂いを俺に擦り付ける作業。本人は「消毒」と呼んでいる。
「……これで安心」
「はいはい」
毎日のことなので抵抗はしない。犬の散歩と同じだ。習慣だ。
——胸の鼓動が速いのは、階段を上がったからだ。断じて。
買い物袋を片手に、もう片手でまふゆの頭を軽くぽんぽんと叩く。
まふゆの肩から、すっと力が抜けた。
「……ん。おかえり」
「ただいま」
玄関先で二度目の挨拶。
馬鹿みたいだけど、なんかこれがないと落ち着かなくなっている自分がいる。
夜。
買ってきた食材で夕飯を作り、風呂に入り、リビングで並んでテレビを見る。
まふゆはいつの間にか俺の隣にぴったりくっつき、肩に頭を預けていた。テレビの音だけが流れる静かな時間。
「……湊」
「ん」
「……ルール、決めよう」
「ルール?」
まふゆが体を起こして、居住まいを正した。珍しく真面目な顔をしている。
「101号室は、ふたりの部屋」
「……まあ、実質そうなってるな」
「102号室は……段ボールの部屋」
「お前が片付けないからだろ」
「……あと。朝ごはんはオムライス」
「それルールにする必要あるか?」
「……ある。あと、帰ったら検閲」
「お前が勝手にやってるだけだろ」
「ルールにしたら公式になる」
何の公式だよ。
「……それから」
まふゆが少し俯いた。銀色の髪がさらりと揺れて、表情が隠れる。
「……夜は、充電してから寝る。毎日」
「……」
「バッテリー切れると、悪い夢見るから」
声が、少しだけ小さくなった。
悪い夢。それが何なのか、俺は聞かない。聞いたら、きっとまふゆは答えてしまう。今はまだ、聞くべきじゃない気がした。
「……分かった。ルールな」
「……ん」
「朝はオムライス。帰ったら検閲。夜は充電。101はふたりの部屋」
「……うん」
まふゆが小さく頷いた。その顔に、安堵の色が浮かぶ。
ルール。決まりごと。約束。
この子にとって、口に出して確認することは「消えない」ための魔法みたいなものなんだろう。
「あと一個追加していいか」
「……なに」
「チョコパイは一日一個まで」
まふゆの目からハイライトが消えた。
「……暴君」
「健康管理だ」
「……大家の横暴」
「店子の健康を守る義務がある」
「……一個半」
「一個」
「……一個と、かけら」
かけらってなんだよ。
「……一個。最終回答」
「…………」
五秒の沈黙。
まふゆは唇を尖らせながら、俺の胸に顔を埋めた。
「……ずるい。湊、ずるい」
「何がだよ」
「……断れない顔で言うの、ずるい」
俺は普通の顔しかしていない。
まふゆの体温が胸元から伝わってくる。
薄いTシャツ越しのぬくもり。甘いシャンプーの匂い。背中に回された手が、ぎゅっとシャツを握っている。
——これが、おやすみの充電か。
歯磨きと同じ感覚で受け入れている自分が、たまに怖くなる。
「……五分な」
「……ん」
時計の秒針が静かに進む。
まふゆは目を閉じて、俺の胸に頬を押し付けている。
呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
五分後。
「はい、終了」
「……もうちょっと」
「駄目。ルールだろ」
「…………」
まふゆは名残惜しそうに離れた。
その手がなかなかシャツを放さなくて、俺は一本ずつ指を剥がすことになった。
「おやすみ」
「……おやすみ、湊」
まふゆが自分の布団に潜り込む。
——同じ部屋の、シングルベッドの隣に敷いた布団。102号室に帰る気配は、今日もない。
電気を消す。
暗闇の中で、まふゆの寝息がすぐに聞こえ始めた。寝つきだけは異常にいい。
天井を見上げる。
こうして同じ部屋で寝ている状態を、世間では何と呼ぶのか。
――考えるのはやめた。
明日もオムライスを作らなきゃいけない。卵の在庫を確認してから寝よう。
冷蔵庫を開けたら、チョコパイが一箱すでに開封されていた。
……おい。買ったの今日だぞ。




